VIII. ディアナの先見

 騒動の発端となった林檎は、一先ず天帝ユピテルの預かりとなった。

 当のユピテルが真っ先に行ったことといえば、腕の良い神々の鍛冶屋として名を馳せるヴルカヌスに頑丈な箱を急ぎ作らせることであった。

 ヴルカヌスは醜怪な容姿を持つ男として人々に恐れられてはいるが、世界一と評される腕そのものは十分な信頼に値する。その鍛冶屋が急ぎ作成した頑丈な箱に格納された林檎は、そのまま天帝宮でしばし厳重に保管されることとなった。


 あらゆる呪術を無効とするヴルカヌスの箱とはいえ、その中で尚もピカピカと光り輝く林檎を見るたびに、ユピテルは拭いようのない不安を覚えていた。

 不和を好む異端者、エリスからの挑戦であると確信しているのだから無理もない。何の変哲も無い贈り物をあの場所にただ転がしておくはずがない。絶対に何か細工を施しているに違いない。

 エリスの性分を誰よりも熟知しているユピテルだ。だからこそ、念には念を入れて自らは林檎に一切触れていない。


 無愛想な箱の中で、褪せることなく輝く黄金の林檎は、何も知らなければ完璧な美を備えた宝飾品だ。だがユピテルの目には、この世の何にも勝る毒々しい林檎に見えた。

(どうしたものか……)

 得体の知れない林檎が宮中にあるという一種の脅迫概念が、天帝の玉座を冷やす。思考の堂々巡りを繰り返してばかりのところへ、伝令係のメルクリウスが至極慌てて飛び込んできた。


「ご息女のディアナ様が、件の発作に見舞われております!」


 つまりは、また暴れ出したということだ。

 新たな頭痛を抱えたユピテルは平時のとおり放置しておこうと思ったが、しかし、ふと脳裏に閃いた直感に従い重かった腰を上げた。


「メルクリウス、急ぎあの箱を持て。離れ屋へ行く!」


「えっ!」


 ユピテルの下知に身構えたメルクリウスは、当然「あの箱」が林檎を指していることを理解している。一瞬、躊躇したものの断ることなどできるはずもなく、素直に主人に従った。

 宮中奥深くに保管されていた箱を急ぎ小脇に抱えて馳せ戻れば、主人はとっくに玉座の間を離れた後であった。


 ディアナの離れ屋は酷い有様だった。

 内装を彩っていた日差しよけの垂布は引き千切られて散乱し、造り付けの調度品からは繊細な装飾が砕けて、そこら中に飛び散っていた。

 柱や壁にも、幾つもの陥没痕があり、体を張って取り押さえたであろう侍従たちは傷だらけで、いかに酷い発作だったかが窺える。


 その惨状の中で、体力が尽きるまで暴れ倒した後のディアナ本人は寝台の脇で放心状態となっており、ろくに瞬きもせず虚空を眺めていた。

 部屋の隅では、日頃の世話役を任されている女たちが一様に蒼ざめ縮こまって震えていた。

 もはや、何があったのか聞くまでもない。これが初めての事ではないのだから、逐一尋ねるだけ無駄というものだ。


「あ、あ、陛下……」

「もう下がって良い」


 天帝の言を受けて、女たちは脱兎の如く我先と部屋を飛び出して行った。

 道を譲ったメルクリウスは固唾を呑んで、荒れ果てた室内に取り残された少女を見守った。


「ディアナ、この林檎をどう思うか」


 放心状態の娘は、天帝の言葉にさえろくに反応を示さない。発作の後は幾ばくか体力が回復するまで、いつも死んだように眠り続けるのだが、ユピテルはそれを許さなかった。

 半ば強引に、林檎の入った頑丈な箱を茫洋とした眼前に突き出した。もっとも、実際に箱を差し出したのはメルクリウスだ。


「駄目です、陛下。反応がありません」


 力なく首を振るメルクリウスの様子に、ユピテルは落胆したように溜息を漏らし、仕方なく気つけのために呪いをかけた。少しして、生気のない娘の暗翠色の眼にようやく小さな光が宿った。


「林檎……?」

 不思議そうに小首を傾げるディアナに、ユピテルは再度、どう思うか問う。

 じっと見つめる少女の目にも、林檎は確かに輝いて見えた。


「アポロが、不味そうな林檎だって言ってた」

 ポツリと呟いた言葉はあまりに可愛いらしく、不覚にもメルクリウスは笑いそうになった。


「そう言えば、最初に拾ったのはアポロだったな。それで、お前はどう思うのだ」


 ディアナは、瞬きもせずにじっと箱の林檎を見つめていた。それは、魅入られているのとはまた違った、不思議な凝視だった。


「不味いかどうかは分からないけど、触らない方がいいと思う」


「何故そう思う」

 畳み掛けるように尋ねるユピテルの表情は険しく、容赦がない。

 それは、つい先程まで発作を起こしていた娘に向けるような視線ではなかった。メルクリウスは心配そうに目の前のディアナと、天帝を交互に見比べていたが、ディアナは目の前の林檎に注視したままだ。


「歪んでる」


 ——この林檎は、歪んでる。触れてはいけない。魅入られてもいけない。さもなければ、天が地となることだろう。


 メルクリウスの目の前で、刹那、ディアナの両眼が目も覚めるような鮮やかな翠色に変化した。

 瞬きを数度繰り返す間に消えてしまったが、それでも一度見れば二度と忘れることはないであろう強烈な輝きであったことは間違いない。その時に発したディアナの言葉に、ユピテルは鋭く反応した。


「……」


 そして、ディアナは今度こそ、ふらりと頭から傾ぎ意識を手放してしまった。

 慌てて箱を小脇に避けて、倒れ込んだディアナを庇うメルクリウスが振り返ると、ユピテルは早々に踵を返して離れ屋を出て行こうとしていた。


「へ、陛下……!」

 小柄なディアナを取り敢えず寝台に上げて、箱を抱え直したメルクリウスは急いでユピテルの後を追った。


「今のは一体何ですか?」

 目の前で、まるで別物のように人の目の色が変わる様を目撃し、メルクリウスは心なしか気味悪そうに肩を竦める。

 病人の戯言としか思えないのだが、ユピテルは真剣に受け止めている様子だ。決して短くない期間、天帝に仕えているが、正直、混乱するばかりだ。


「あれは、気が触れている時の方が余程、意味のある事を言うのだ。あの齢にして、錯乱状態に陥っている時にこそ先見の能力を発揮する性質でな」


 ティタン族に近い者ほど、先読みに長ける力が強いという話はメルクリウスも聞いた事がある。実際、ユピテルの両親はティタン族であり、件の双子の母もティタン族の生き残りだ。

 しかし、メルクリウスは腑に落ちない。


「先見の能力ならば、ご子息のアポロ様もお持ち合わせのはず。ましてや陛下ご自身も、先の戦争ではその能力をご存分に発揮されたではありませんか」


 むしろ病みがちなディアナよりも健康で闊達なアポロの言動の方が余程信憑性が高いと言いたいようだが、おそらく事情を知らぬ多くの者も同じことを言うだろう。ましてや、その能力故に武勇を誇り、玉座を勝ち取った実績のあるユピテルを前にするなら、尚更のことだろう。


 しかし、当の天帝自身は鼻で嗤っただけだった。

「比べ物にならんのだ、わしとあれとの先見では。アポロなんぞ、話にならん」


「ええ?」

 俄かに信じ難い天帝の言動に、メルクリウスは思わず呻いた。


 しかし、目の前の天帝はとても冗談を言っているような物腰ではない。

 両親共にティタン族の血を引いているとは言え、実際に子であるユピテル自身はティタン族の括りに入らない、明らかな異質として生まれた。

 ならば、さらにその実子である双子間において能力に差ができることも、まま理解できる。とはいえ、片割れは誰の目にも明らかな病気持ちなのだ。


 眉を顰めて首を傾げるメルクリウスを横目に一瞥し、ユピテルは苦々しい含み笑いを浮かべた。


「その林檎は決して箱より出してはならん。宮殿の最奥に保管し、然るべき時まで人の目に触れる事の一切を禁ずる。良いな」

 顰めていながら、その厳しい声音は他を圧倒する覇気に満ちていた。


「仰せのままに」

 天帝の玉座にます者だけが持つ全知全能たる下知を一身に受けたメルクリウスには当然逆らう術もなく、宮殿の最奥へとすぐさま馳せていった。

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