VII. 女神の思惑

 向かった先は、鬱蒼とした針葉樹林に覆われ昼でも陽の光の届かない場所が多く点在し、慣れない者は行手を見失い彷徨い歩く迷路が張り巡らされている。

 常人ならば誰も好んで近寄りたがらない広大な森林——静寂が過ぎて耳が痛いほどの場所にエリスの棲家は建っている。

 そんな人を寄せ付けない場所も空から突撃するとなれば話は別だ。

 主に似たのか豪胆な気性の鳩たちは臆する事なく一っ飛びに樹林を越え、目的地が視界に入ると、そのまま敷地内にバサバサと着地し、ぽっぽろ鳴きながら周囲を警戒しつつ、安全確保に余念がない。


「たのも——!」


 そしてウェヌスはというと、勇ましい呼び掛けと共に返事も待たずに景気良く門扉をあけ放ち、勢いのまま傾れ込む始末である。

 屋敷中に響き渡る大音声と足音と鳩の鳴き声に、エリスは迷惑そうに眉を顰めつつ、読んでいた本から目を離した。


「何だい、騒々しい。誰の家だと思ってるんだい?」

 程なく、居室の木製扉が蝶番をひどく軋ませながら轟音を上げて開かれた。


「騒々しいが聞いて呆れるわよ! あんたでしょ、あの林檎送ってきたの! おかげで祝宴会場が大騒ぎになったわよ、あたしだって大目玉食ったんだから」


 すると、エリスはクックッと小さく含み笑う。

「我先と名乗りを挙げて張り切っていた小娘が、何を言うやら」


「やっぱり見てたんじゃない、この根性悪!」


 愛と美の化身と崇められる女神ウェヌスだ、世界中のありとあらゆる美を前にして、引き下がっていられないのは性分なのである。


「身分も権力もないお前が、とんだ相手に喧嘩を売ったものだね」


 口元には弧を引きつつ、その両眼は微塵も笑っていないエリスの言葉には嘲笑以上の毒が含まれている。

 何せ黄金の林檎を巡り名乗りを挙げた競合は天帝妃であり、また天帝と前妻の間にできた実娘である。地位も権力も身分も確かな女神たちを相手に、片や豪胆な気性と美貌しか持たないウェヌスでは、そもそも格が違うのだとエリスは諭す。事実、ウェヌスの出生はその一切が謎に包まれているのだ。


「関係ないわ、そんなこと」

 しかし、ウェヌスは譲らない。


 前の巨人戦争において、実の息子に玉座と命を奪われるという非業の死を遂げた先王サトゥルヌスの肉片の一部を打ち捨てた海の彼方から、身一つで忽然と現れた絶世の美女——それがウェヌスだ。

 清らかにして快活、血生臭さとは縁遠い、光り輝くばかりの愛と美をその身に閉じ込め陸に足を付けた姿形はティタンのそれとも海の眷属とも乖離した全くの異質——しかし、誰の目から見ても明らかな神なる力の持ち主であった。

 そして、事実、天地をあまねくありとあらゆる愛と美の全てが彼女に従属しているのである。


「それしか持たぬ者が何を偉そうに。せめて、ミネルヴァのように料理や裁縫の一つでもまともに出来れば、まだ見所があるんだろうけどね」


「うるさいわね、貢いでくれる若人イウウェネスが数多居るから必要ないの! ほっといてよね」


 本人も自覚しているからこそ、俄かに気まずそうに頬を赤らめて見せる。

 実際、料理、裁縫に限らず基本的な生活力を支える技能全般が絶望的に下手くそなウェヌスは、そもそも不得手を克服する努力すらしていない。堂々と開き直って憚らず、しかしそれが許されてしまうのがウェヌスなのである。


「そんなことより、林檎よ、林檎! 一体、あれは何なのよ?」


 切り返してきたウェヌスの言葉に、エリスは少々意外そうに驚嘆を示した。

「ほう、気付いたのか。何てことはない。あの林檎には、ごく単純な細工を施しただけだ」


「だから、それが何かって聞いてるの!」

 肉感的な肢体を揺らし、ウェヌスは柔らかく憤慨してみせる。老若男女を問わず多くの者が、こぞって鼻の下を伸ばすか頬を緩めるであろうが、エリスは一笑に付しただけだ。


「手にした者の命運を逆転させると言えば分かるかい? 富める者は貧しく、病みがちな者は健康に、相思相愛ならその逆に。まあ、そんな感じだ」


 開いた口が塞がらないとはこのことだ、ウェヌスは唖然とするほかない。

「どーしてくれんのよ、あたし触っちゃったわ。それに、最初に林檎を拾い上げたのはアポロよ、あんな子どもまで巻き込むつもりだったの?」


「いいや? ただ成り行きを見ていただけさ」

 肩肘をつきながら平然と答えるエリスには、全くもって悪びれる様子がない。


「分かってたけど、あんたって本当にとんでもない性悪女ね! おかげで、あたしは何としても林檎を手に入れなきゃいけないわ」

「おや、何故だい?」

「決まってるでしょ。張り合ってるのは天帝妃と、軍事にも携わる天帝の娘よ、相手が悪すぎるわ。世界がひっくり返ると同時に戦争になるわよ!」


 エリスは細く笑った。

「なるほど、それも一興だね。天帝の手腕が問われるわけだ、やつの下す審判が楽しみじゃないか」


 楽しそうに笑うエリスの様子に、ウェヌスは言葉を飲み込んだ。

 不和を好むという表現では到底足りない禍々しさは一種の狂気に通じている。万が一、天帝であるユピテルが林檎に触れでもしたら、世界に何が起こるか分からない。この女は、それを期待しているとでもいうのか。


「あんた、一体何を企んでいるの?」

「やれやれ、皆同じことを聞くんだね。言っただろう、あたしは成り行きを見てるだけさ」

 実に怠惰な仕草で嘆息するエリスは心外だと言わんばかりだ。


「冗談が過ぎるわよ! 見てなさい、絶対、林檎はあたしが手に入れてやるんだから!」


 お前の勝算は、そもそも皆無に等しいだろう。エリスは呆れた様子で指摘する。しかし、ウェヌスは相変わらず豪胆だった。


「甘く見ないでちょうだい。悪知恵だけは、いくらでも湧くんだから!」


「……。自慢になるかい、そんなこと」

「あんたにだけは言われたくないわ!」


 今にぎゃふんと言わせてやるから、と言い捨てて、ウェヌスは押しかけた時と同様に勢いよく飛び出して行った。

 小娘一人がどうしようと、エリスの知ったことではない。

 再び訪れた静寂の中、エリスは再び読みかけの本に視線を落とした。しかし、その本には表題はおろか、開く紙面の悉くに一切の文字が無く、ただただ空白が続いているばかりだった。

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