VI. 神々の夕べ

「何だか、すごいことになったね」

 俄かに会場を引き上げる者、気を取り直して酒を酌み交わす者、様々に場はさんざめいている。


「陛下の顔色が変わった……動揺してる」

 無邪気に傍の双姉に話しかけるアポロだったが、ディアナの表情は硬い。実父を陛下と敬称し、至極静観した物言いは、年頃を鑑みても、あまりに他人行儀であった。


「そうかな、ぼくには普通に見えるけど。それよりさ、あの林檎、何だか変な感じだったよ。うまく言えないけど、食べたら絶対美味しくないと思うんだ」


 身振り手振りを交えて話すアポロの言葉に、ディアナは妙な違和感を覚えた。

「どういうこと?」


「えーっとね……」

「アポロ、行きますよ。子どもは帰る時間よ」


 ディアナが違和感の正体に辿り着く前に、母親のラトナが解散の声をかけた。やんちゃなアポロの手を引きながら病み上がりのディアナに視線を向けて、一人で天帝宮の離れ屋に戻れるか尋ねるラトナの態度は、どこか余所余所しい。

 ディアナは表情を変えることなく無言でコクリと頷いたが、そんな双姉を見て、会話を中断させられたアポロは不機嫌そうに母親を睨みつけた。


「また、遊びに行くからね」


 天帝の住まいである宮殿の片隅に、ディアナが隔離されている離れ屋はある。そこは気安くは立ち入るのを憚る、奥まった目立たない場所であった。

 例え親兄弟と言えど、本来ならば立ち入りを避けるべき場所に、ディアナは一人帰っていく。

 痩せ細っている背中が見えなくなるまで、大きく手を振りながら見送るアポロを、ラトナは何とか引きずりながら会場を引き上げるのだった。


 ディアナが離れ屋に戻る道中、ふと視線を感じて振り返った木陰で誰かが笑っているような気配がしたが、目に見える範囲には人らしきものの影は愚か、木の葉の一枚さえも揺れてはいなかった。

「 ? 」


 相変わらずの無表情ではあったが、釈然としない様子は俯瞰していてもよく見えた。

(ほう……、良い勘をしている)

 水鏡に映るディアナは茫洋とした瞳を彷徨わせているが、エリスはその潜在能力の高さに、思わず一人苦笑いを漏らした。


「案外、ユピテルよりも、あの娘の方が見所があるかもしれないね」


 余程、ティタンの血が濃いらしい。

 胎児の頃より、あの天帝妃の呪いを受け続けて尚、生存しているのだから何よりの証拠だろう——エリスには、そう思えた。


 かくして、平静を取り戻した祝宴の後、ユピテルは個別に新郎ペレウスを見舞った。勿論、騒動を直々に詫びるためだ。

 人の子であるペレウスも、天帝を取り巻く女神たちの情のこわさが並外れていることは重々承知している。ただ曖昧な苦笑いを浮かべこそすれ怒る道理もない。


「折角の祝宴を、すまない事をした」

「いいえ、陛下おん自らお手配いただいた祝宴です。十分に身に余る光栄です」


 ペレウスは穏やかに酌を進める。内心では、今後の行方が気になっていたのだが、それを敢えて尋ねるのは失礼かと思って話題を避ければ、それを察したユピテルが振る舞い酒に咽び泣くではないか。


「ユノはあの通りだし、片やミネルヴァに折れてもらうよう頼めば、気に入らない事には無視を決め込むし、ウェヌスに至っては豪快に笑い飛ばして仕舞いだった……」

 深々と漏れた溜息が、とても重たい。


「ご心労、お察しします」

 慎重に言葉を選べば、ユピテルは益々深く嘆息し、このままではつるっ禿げになりそうだと零す。

 不意を突かれて笑ってはいけないと、気を引き締めたペレウスだが、どうにも視線が天帝の頭髪を探ろうとしてしまう。そう言えば、心なしか代々語り継がれてきた即位当時の様子よりも撫でつけられた毛量かさが慎ましいような気もしてくる。

 喉に篭った咳払いを押し殺し、気を引き締めた名君は終始穏やかに天帝を宥めるに徹する覚悟を決めたのであった。


 同刻、居城に戻った後も、天帝妃ユノの怒りは治らなかった。

 肩を震わせて眉を釣り上げ、感情も露わに憤る。主人の帰りを迎え出た侍女たちに当たり散らし、定位置に着く頃には、すっかりとヒステリアが爆発していた。


「ウェヌスめ、地位も身分もない卑しい女風情が忌々しい! 今に見ておいで、森に閉じ込めて熊にズタズタに引き裂かせてやろうか! ああ、何て腹立たしいのでしょう、ええい、憎たらしい!」


「妃陛下、どうかお鎮まりくださいませ」

 過激になる一方の言動をそっと諌めた侍女の一人を、ユノは怒りに任せて蝿に変えてしまった。

 侍女は程なく、何も知らない別の侍女に雑作もなく叩き潰されてしまった。ユノの居城において、これは日常茶飯事の一つなのである。


 同様に、自身の居城へと戻ったミネルヴァもまた、長椅子に腰を落ち着けてふうと一息ついたところだった。

 騒ぎの一部始終はすでに侍女たちに知れ渡っていたが、当人は至って平静そのもので、むしろどうでも良いことのように振舞っている。事実、ウェヌスと美を張り合うなどミネルヴァにとってはどうでも良いことであった。

 ただ毎度、当然のように崇め奉られ褒め称えられる対象は自分であるべきと振る舞う傲慢な天帝妃に、少々対抗してやろうと思っただけだ。

 後妻一人をろくに満足させられない天帝ちちおやも、度重ねた自身の不始末を少しは理解するべきだ——と。


「やれやれ。しかし、新郎新婦には悪いことをしましたね。結果として、祝宴に水を差してしまった。落ち着いたら、お詫びの使者を送ることで赦してもらいましょう」

 差し出された飲み物を受け取りながら、ミネルヴァは珍しく自嘲を滲ませてそう溢した。


「ミネルヴァ様が、間違ったことをなさっとは思いません。ユノ妃やウェヌスが場を弁えなかったのでしょう?」


 知と正義を司るミネルヴァ神を、彼女の侍女たちは盲目的に崇拝している。侍女たちにとって、目の前の女神こそが絶対的正義なのだ。


 そして、騒動の一端を担ったウェヌスもまた大人しく居城に戻り、どっかりと寝椅子にあぐらをかいては一人纏まらない考えに唸り声をあげていた。一人暮らしの気ままな生活だ、咎める者など誰もいない。


「やっぱり、何か引っかかるのよね、あの林檎。何だろう、凄くモヤモヤする」


 見た目こそ完璧な美しい黄金色の林檎そのものは、西国の果汁園ヘスペリデスの産物で間違いないだろう。しかし、手に取った瞬間に感じた例えようのない不快感と違和感が払拭できない。

 そもそも、果実作りに精を出す三姉妹が、厳かな場にあのようなカードを付けて寄越すなど、どう考えても不合理であった。


「だいたい、祝宴の席に何でワザワザ、騒動を起こすような物が転がってるのよ? 嫌がらせにも程度があるわよ、しかも天帝夫妻に喧嘩売るような真似! 絶対正気の沙汰じゃないわ。いったい誰が——、ん?」


 思わず口を噤んだ。

 ウェヌスの脳裏に、たった一柱、こういう事をやらかすであろう女神が思い当たった。

 そして確信した愛と美の行動派女神は、立ち上がると自身の象徴でもある愛鳥ハトたちの操る吊椅子ハンモックに飛び乗り目的の地へと飛び立つのであった。

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