V. エリスの林檎

 続々と人々が集まる中には、子連れも多く招待されていた。ラトナは肩身の狭い思いを胸に、花嫁衣装作りの功労者として一人正装して場に現れた。


「ラトナ! 良かった、始まる前にお目にかかりたかったの」


 花嫁衣装を身にまとったテティスが、満面の笑みで歩み寄ってくる。ラトナは何度目とも分からない愛想笑いを繰り返すしかなかった。


「とっても素敵な衣装をありがとう」

「喜んでもらえて光栄です。本日はおめでとうございます、テティス」


 丁寧に祝辞を述べれば、ラトナの周囲に視線を走らせたテティスは、不思議そうに小首を傾げ、子どもたちは何処にと悪気なく尋ねてくる。苦しい愛想笑いを浮かべながらラトナが返答に窮した直後、背後から可愛らしい子どもたちの声が聞こえてきた。


「母上、遅れてごめんなさい。会場が広くて、ちょっと迷っちゃった」


 その声に振り返ると、居住まい正しく正装した双子が、そこに居た。呆気にとられるラトナとは対照的に、双子は何食わぬ顔で礼儀正しく花嫁に祝辞を述べている。

「このたびは、ご結婚おめでとうございます」

 その可愛らしい様子に、テティスは花の綻ぶような笑みを浮かべて身を屈めて答えた。


「アポロ、それにディアナも、体はもういいの? 二人とも揃って来てくれるなんて、嬉しいわ。ありがとう!」


 朗らかに応じる双子から花束を受け取り、花嫁は益々にっこりと微笑んでいる。付き人に誘われてその場を離れるまでの、ほんのひと時、それはとても穏やかに過ぎていった。


「ディアナ、あなたどうして?」

「テティスの結婚式、見たかったの」


 上辺だけは笑みを絶やさず話すディアナは身なりもきちんと整えて、細すぎる体型を除けば年相応の少女に見える。少し高揚気味なのは無理をしている所為だろう、つい先日も激しい発作を起こしたと聞いている……体力だってそうは保たないはずだ。

 それは母親の目には、直ぐに理解できることだった。

 わざと明るく振舞って、場を鑑みて仮面を被っているのだ、この年齢に見合わない達観した娘は——生まれた時からそうだった。


「ディアナ、あなた……」

「母上、始まるよ」


 ラトナの心配を他所に、ぴしゃりと遮ったディアナは視線を真っ直ぐ前に向けている。その先で、おもむろに引き据えられてきた生贄が最高神とその妻、そして新郎新婦の前に供えられ、類を見ない規模の婚礼の儀が厳かに始まろうとしていた。


 天帝とその正妃の前で行われる宣誓の瞬間は、大勢が詰めかけ見守る儀式とは思えないほどの沈黙に包まれ、辺り一面に水を打ったかのようであったが、一連の儀式が滞りなく終えられて無事、祝宴に移った時には会場は祝福一辺倒で賑やかな雰囲気に包まれていた。

 おそらく、このことに誰よりも安堵していたのは天帝自身であろう。このまま何事も起こらないことを信じ、正に祝杯をあげようとした時だった。

 うず高く積まれた祝いの品の中から、小器用にコロリと林檎が一つ転がり落ちた。


「まあ、黄金の林檎だわ!」


 形の良いその林檎は確かに眩い黄金色に輝いており、それは名産と謳われる西国の果汁園ヘスペリデスによる産物だと、誰もが知っている。

 果汁園を切り盛りする三姉妹からの贈り物かと、一同が納得した矢先、たまたま足元近くに転がって来たので拾い上げたアポロが、あっと声を上げた。


「どうしたの、アポロ?」

「このリンゴ、カードが付いてるよ」


「何て書いてあるの?」

 来賓たちが矢継ぎ早に尋ね注目する中、促されたアポロはゆっくりと充名札カードに書かれた文字を読み上げた。


「この世で最も美しいかたへ、この林檎を。だって」


 途端に、衆目がそこ彼処を走り、会場がざわめいた。


 最高神夫妻が主催する人の子と海の娘の祝言だ。

 今この瞬間、持て囃されるべきは新婦であるテティスのはずだ、通常ならば。しかし、うち集った神々を差し置くには、錚々そうそうたる顔ぶれが揃いすぎた。


「あら。じゃあ、この林檎はあたしのものね?」


 不穏なざわめきの中から現れ、堂々とアポロから林檎を掬い上げて豪語したのは、愛と美を象徴する自由奔放な女神ウェヌスだった。

 林檎を手に取った瞬間、掌に何かぐんにゃりとした奇妙な感覚が走り、その不快感に思わず柳眉を顰めて見せたが、そんな姿でさえ絶世と讃えて差し支えない。

 しかし、即座に天帝妃ユノが上座にて立ち上がった。


「出生不明の妖女あやしめが、思い上がりも甚だしい。控えなさい、ウェヌス!」


「まあ! ご挨拶ね、ユノ天帝妃陛下」


 お言葉を返すようだが、思い上がりでも何でもないと朗らかに笑ってみせる豪胆な気質は、決して天帝そのものにも劣らないだろう。その澄んだ笑い声には痛快な響きこそあれ、堂々たる物腰と光輝くような美貌が合わされば、群衆もついつい、つられて笑ってしまうというものだ。


 ——確かに、ウェヌスの美貌は別格だ。

 漏れ聞こえる忍び音に、ユノは密かに拳を握りしめた。見開かれた天帝妃の眼光も鋭い両眼が、一堂の呼吸を奪うかの如し怒気を含んでいる。


「この、卑し女の分際で……!」

 今にも呪いの言葉を吐きそうなユノ妃を遮るように、場の空気に臆することなくスッと立ち上がる女神まで現れた。


「確かに、ウェヌスが美人であるのは認めるけれど、そこまで豪語されたとなれば、わたしも黙っているわけにはいきませんね。このミネルヴァも、名乗りを上げさせていただきましょう」


「あら、大歓迎よ。他に、我こそはと思う方は?」


 帯電性の強い空気が宴会場を覆い始める中、ウェヌスは朗々とした声音で周囲に呼びかけた。


 ヒステリアが度を越していることを除けば、穏やかな時は気品溢れる天帝妃ユノ。

 女性ながら雄々しく知的で、家庭的な一面も持ち合わせた天帝の娘ミネルヴァ。

 そして、出生の一切が不明ながら、その神秘的な美貌が他を圧倒する妖艶なウェヌス。


 それぞれに質の異なる美を謳われる三女神が揃い踏みをしたのだ、当然ながら他に名乗りを上げる無謀な者など、いるはずもない。そればかりか祝宴会場は空気が凍りついたように張り詰めていた。この三女神がお互いを睨み合い、敵対するとなればそれこそ天下の一大事だ。

 この不測の事態に誰よりも愕然としていたのは、他ならぬ天帝ユピテルであった。


(エリスめ、あの性悪女め!)


 こんな事態を招く輩は世界広しと言えど一柱しかいない。

 不和を好む女神、エリスを置いて他にいるはずがないのだ。

 畏れ多くも最高神とその妻が主催するテティスの婚礼を混乱させるためだけに、わざと仕掛けてきたに違いない。


 胃の腑の底から湧き上がる怒りを何とか堪え、ユピテルは毅然として立ち上がった。


「三柱とも、控えよ。これはペレウス王とテティス妃の婚礼の祝宴である。皆も静粛に! 二人の門出に混乱を招くものは、速やかに引き上げよ!」


 それはそれは天帝らしい威厳に満ちた態度であったが、当人の腹の内はエリスに対する憤りですっかりとどす黒く覆い尽くされていた。


 この大音声に、凍り付いていた群衆も時間を取り戻したように我に返る。それぞれに立場のある三女神も、お互いをひと睨みしただけで、潔く踵を返した。

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