IV. ラトナの恭順
「ラトナには、わたくしから遣いをやりましょう」
そう言い置いて踵を返したユノの表情は、ミネルヴァからは窺いようもない。
かつて、
いかに生命力に長けたティタン族と言えど、ラトナは母子ともに命の危険に晒され続け、臨月間近になると、いよいよユノの怒りから逃れるように各地を転々と彷徨い、這々の体でたどり着いた
長引く難産の末、命懸けで産み落とした双子の片割れ——ディアナは、ユノの怒りの矛先を一身に受けたかの如く、程なく心身を病んだ。
もっとも、ティタンの血を引いていなければ、心身を病むどころでは済まなかったかもしれない。
片や、ユピテルの幼少を彷彿とさせる愛くるしいばかりの双弟は、誰に対しても人懐きが良く、誰からも可愛がられ、天帝妃自身もまるで我が子のようにアポロに接した。
それから天帝宮の離れ屋に隔離されたディアナの様子を知り、ようやく怒りを治めたユノに、一貫して恭順を示し続けたラトナは、今や天帝妃の手駒の一つだ。熊や虫に姿を変えられることなく生存している数少ない例外である。
そんなラトナが、ユノの遣いを断るわけがない。目論見通りにすぐに合流したラトナも交え、かくして女三人での衣装作りが始まった。
一方では、天帝直々の号令で、婚礼の招待状が次々と各地の名だたる者たちに届けられ、益々の盛り上がりを見せていた。
各々、祝いの品々を選び抜き、あとはその日を待つばかりであったが、ただ一柱、招待状が届けられなかった神がいた。不和を好む女神、エリスである。
「陛下、本当によろしかったのですか? 形ばかりでもお届けしておいた方が……」
伝令係として世界中を駆け巡って戻ってきた従者が、今一つ不安げに報告をしている時の会話だ。
「メルクリウスよ、お前も、あの女がどう言う性分か知っているだろう。招待状を送れば必ず来る、それもぶち壊しに」
「それは、そうですけれど……完全無視も如何なものかと」
エリスはユピテルの実姉にあたる紛れもない先王の娘であり、その身に秘める神なる力は、天帝に引けを取らないと
一度荒ぶると大災禍となる海神ネプトゥヌスでさえ、エリスを避けて逃げ回る——というのは神々の間で知られた話だ。
「それでいい。災いを呼ぶと分かっていて、関わることはない」
断言するユピテルの譲らない姿勢に、とうとう押し黙ってしまったメルクリウスは、今度こそ役目を終えて引き下がる。
その姿を、まるで空から眺める鳥と同じく俯瞰していた不和の女神は、水鏡から手を離すと、静かに頷いた。
「賢明だ。よく分かっているじゃないか、ユピテル」
可笑しそうにほくそ笑み、エリスはゆったりと椅子の背もたれに身を委ねた。
「しかし……」
招待を受けていないくらいで、大人しく引き下がるようでは不和を好むと言う名が廃る。まだまだ、読みが甘い男だと嘯きながら、エリスはチラリと脇机に置いた、今朝届いたばかりの瑞々しい果実に視線を寄越した。
「余興を盛り上げる、最高の贈り物をしてやろうじゃないか」
面倒な身内を抱える
そして、婚礼に先立ち行われた前夜祭。
テティスは、天帝妃自らが手掛けた花嫁衣装をまとい、海の一族と神々の祝福を受けて独身最後の晩を大いに楽しんだ。
慣例に従い、この場に新郎側が参加することはなかったが、宴の賑やかな様子は島全土に届いていたことだろう。
翌朝、アイギナ王族の最上礼服を身に纏ったペレウス王は、幾分緊張の面持ちではあったものの、無事に島に上がった新婦を迎え入れ、いよいよ婚礼が始まろうとしていた。
天帝ユピテルとその妻ユノ妃の前で誓う婚姻である。
しかも異例にも式の段取りを率先した二神とくれば、何をどうしても緊張するというものだ。そんな中、天帝によって厳選された各地の名だたる郷士、神々が各々選び抜いた贈り物を携え続々と集い、会場は類を見ない規模となっていた。
「ねえ、母上。ディアナは?」
ラトナが動きたがる息子の着付けをしている時、ふと息子がそう言った。時間が迫っているなら、早く呼んでこなくちゃと母親を急かす。
「ディアナは行かないの。さあ、じっとしてちょうだい、アポロ」
「何で?」
「ディアナは病気なの。長時間、外にはいられないのよ、すぐに疲れてしまうから。おめでたい日に、病気の子は連れて行けないの」
「母上も、本当にディアナが病気だと思ってるの?」
実際に双姉が離れ屋でどう扱われているか知っているアポロは、不満も露わに声を潜める。
「そうよ、心の病を患っているのよ、そう言ってるでしょう。だから、お父様のところで療養しているんじゃない。ほら、大人しくしてちょうだい、アポロ。間に合わなくなってしまうわ」
その言葉を聞いて、アポロは母親の手を払いのけると余計に暴れまわった。挙句、行かないとまで言いだして、用意された服をかたっぱしから蹴飛ばして地団駄を踏んだ。
「アポロ、何て事をするの!」
「ぼくは絶対行かないぞ! 母上まで、何でそんなにディアナに冷たいんだよ!」
「アポロ、我儘はやめてちょうだい」
「ディアナも一緒じゃないと行かない! 母上には二人子どもがいるんだ、ぼく一人じゃ絶対行かないから!」
「いい加減になさい!」
一瞬、風を切るような音がした後、アポロの左頬は真っ赤に腫れ上がった。ラトナの右手もまた赤くなっていたが、驚いた息子の目を見て我に返り、咄嗟に自分の片手を押さえて青ざめる。
息子はくしゃりと表情を歪め、大きな両眼には見る見る涙が迫り上がっていた。
「あ、ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
「母上なんか、大嫌いだ!」
涙声で悪態を付くと、アポロは止める間も無くあっという間に走り去ってしまった。
その後ろ姿を、刹那、呆然と見送り立ち尽くしていたラトナは、追いかけようとする前に既に行方を見失ってしまっていた。
当のアポロが走り去った先というのは、当然、双姉ディアナの所であった。しかし、病んでいる双姉は我儘な双弟に冷たかった。
「アポロ、うるさい。グズグズ泣いてる間に、早く戻りなよ」
「嫌だ、絶対行かないもん、ぐすっ」
「お前、テティスが母上を尊敬してるの、知ってるでしょ。母上に恥をかかせるつもり?」
「知らないよ、ぼくのせいじゃない」
「本当に馬鹿な子だね、お前は」
双子である故か、基本的にディアナの言動には容赦がない。
太陽に愛される天帝の寵児に対して、選ぶ言葉は辛辣だ。
それでも、今日は会話をしてくれる。
アポロにとっては、それで十分だった。
そんな双子のやり取りをハラハラしながら黙って見届けているディアナの部屋付き侍女は部屋の隅でひたすらかしこまっていたが、ふとディアナの暗翠色の双眸と視線がかち合うと、ひっと息を呑んだ。
「ねえ、服出して」
「は、はいっ?」
「聞こえなかった? 服出してって言ったの」
ディアナの発作の恐ろしさを身に染みて理解している侍女は蒼ざめながらも従うしかない。たとえ心身を病んでいても、この幼い娘もまた神なる力の持ち主なのだ、しがない身で逆らうことなどできるはずもない。
「ディアナ……!」
「うるさい」
畏れ慄く侍女とは対照的に、アポロはまるで太陽そのもののような満面の笑みを浮かべてケロリと機嫌を直す。そんな弟にどこまでも冷淡なディアナであった。
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