III. テティスの婚礼
「聞いたかい、ディアナ。老ネレウスのところのテティスさん、結婚するんだって! それも、父上が仲人するって聞いて、ぼくもう驚いちゃったよ。だって、信じられる? 美人に目が無い、あの父上が率先してだよ?」
驚き過ぎて思わず愛用の弓を引き折ってしまったと、明るく話す双弟アポロが、天下の一大事とばかりに宮中の奥まったところに建つ離れ屋に飛び込んで来てからも、ディアナは寝台の上でうつ伏せたままだ。
一応は起きているらしいが、その有様はほとんど死んでいるかのようだ。
「ディアナ、聞いてた? 今の話」
反応が無いのはいつものことだが、あまりにも何も言ってくれないので、アポロは身を乗り出して覗き込む。茫洋とした暗翠色の両眼を呆然と見開いたまま、
——保身のため。
昨夜、天帝の居室を追い出された直後、確かにそう聞こえた。
「保身? 何、どうしたの、また寝惚けてるの?」
無邪気な
わっと声を上げて慌てて枕を受け止めれば、ディアナは髪を振り乱して起き上がり、両眼を血走らせて、まるで仇敵を睨み付けるような形相で叫び出した。
「うるさい! 出てってよ!」
火が付いたように喚き始めると、直ぐに世話役兼見張り役の侍従たちが走り込んでくる。
一度荒れると、力尽きるまで手の付けられない癇癪持ちのディアナは、いつもこうして大人数名がかりで取り押さえられ、発作が治まるまで面会謝絶で隔離される。
「アポロ様、危のうございますので、これにて失礼を」
アポロは体良く追い出されたが、ほとぼりが冷めた頃そっと扉の陰から様子を伺うと、ディアナは再び死んだようにうつ伏せていた。
大人たちは全身あちらこちらに傷を作った姿で出ていった後で、こそっと寝台に近付いて様子を窺えば、ディアナの枯れ枝のように細い手足には凡そ生気が感じられず、クマの濃い瞼は重く閉じられ、弱々しい呼気を繰り返していた。
「また、遊びに来るからね」
何かを無理に飲まされたのだろう。
今度は瞳孔すら動かすことなく打ち伏している双姉の痛ましい姿に目元を潤ませながらボサボサに荒れた髪に触れ、アポロは声を潜めて暇を告げた。
渦中、テティスの結婚準備は驚くべき速さで進められた。
新郎は、そのアイギナの名君と誉高いペレウス王である。
賢老ネレウスの娘婿として相手に不足は無いが、世の中の美女は全て自分のものであると言わんばかりの好色家として天地神明に轟く天帝ユピテルが、自ら式の段取りを取り仕切る姿に、周りはただただ驚かされていた。
「貴方、一体どういう風の吹きまわし?」
婚礼衣装について、あれやこれやと腹心たちと話しているところへ、背後から声を掛けられ一同が振り返る。そこに現れたのは厳かにして雅やかな雰囲気を纏う天帝の
「ユノか。いや何、新郎新婦の婚礼衣装と披露宴衣装をどうするか、話し合っていたところなのだ」
それを聞いたユノ妃の態度は素っ気ない。
「まるで、自分のことのように張り切るじゃない?」
世界各地に気まぐれに愛人を増やし続けてきたユピテルの節操のなさゆえに、正妻の疑ぐりは根が深い。
ユピテルは慌てて、とんでもないことだと首を左右に振って否定し、今度ばかりは潔白だと、あまり自慢にならないことを言う。
「名君と誉れ高い人の子の王と、内海の賢老ネレウスの娘の祝言だ。双方ともに我らとも友好とあれば、抜かりがあってはならないだろう?」
「どうかしら?」
もちろん、ユノが彼らとの同盟関係を知らないはずがない。
「おいおい、ユノや。わしを疑うかい?」
「今まで散々泣かされてきましたもの、そう簡単には、ねえ?」
いじらしい物言いだが、視線は蜂のように刺してくる。
ましてや実際に泣かされてきたのは、自負と自尊心が強く嫉妬深い天帝妃の怒りとヒステリアを直に食らい、酷い目に遭わされた女たちの方だ。
程度の差こそあれ、彼女たちの多くが辿った末路は、一様に筆舌に尽くし難い。
「まあ、酷い
ユノ妃は机上に広げられた衣装案をちらりと盗み見て、それから眉を顰めて
「門出に相応しいとは言い難いわ。よろしい、これはわたくしが手配しましょう」
何だかんだと機嫌の良い天帝妃は、足取りも軽くその場を歩き去り、同席していた男衆は、正妃の姿が見えなくなった頃、一斉に安堵の溜息を漏らした。
神も人も巻き込んで、地中海世界がこの度の婚礼を注視しているのだ。
「ちょっと、ミネルヴァ。居る?」
天帝妃が赴いた先は、義理の娘の居城であった。
「何事ですか、ユノ。いきなり踏み込んできて」
また
浮気相手の子ではなく、ユピテルの今は亡き前妻の娘——それがミネルヴァだ。自分が正妃につく前の話となれば、そもそも嫉妬の対象外というわけである。
しかも当の娘は従順どころか、むしろ父親の頭痛の種ときた。
「相変わらず、
「それはお互い様でしょう。それで、何です?」
「ちょっと、これを見てちょうだい」
徐に丸めた
「何ですか、この酷い図案は」
まさか、貴女の発案ですかとサラリと毒を吐くミネルヴァに、ユノは大袈裟に嘆いて見せた。
「そんなわけないでしょう。夫が作ったそうなんだけど、見兼ねて取り上げてきたの。貴女、これ着たい?」
「冗談でしょう、野生児じゃあるまいし」
「はっきり言うわね。とにかく、これを見たら作り直さなきゃって思うでしょう?」
「ええ、まあ。しかし、この枚数……本気ですか。
ざっと見積もって数十着はある。
今回全てに袖を通す通さないは別として最高神自ら用意する祝儀であることに変わりはない。そして、それを示すことが重要だということも理解したミネルヴァだ。
「そうね、その方が早いだろうし、せっかくだから、ラトナには産着も縫ってもらいましょう」
「産着も?」
少々気の早い話に小首を傾げるミネルヴァに、ユノは簡単に頷いた。
「ええ、そうよ」
島国アイギナは当然四方を海に囲まれている。
何でも、ペレウス王とテティスは、婚礼が決まる前から既に恋仲だったそうだが、先日、懐妊十四週目に差し掛かることが新たに判明したというのだ。
外聞が悪いため伏せられていた情報を、天の最高権力が暴き出したというのが顛末だったが、その最高神の誉れ高い天帝御自らが率先して話をまとめるとなれば、人の子も、温厚な海の老もわざわざ口を差し挟むことではなく、とんとん拍子にことが進んでいる——という状況だ。
「なるほど?」
嫉妬深いはずの天帝妃が、機嫌もそこそこに手伝いを買って出るからには何かあると思ったが、恋敵でなければ寛容なユノ妃らしい態度だ。
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