II. ユピテルの焦慮

 天のいと高きところ、最大神都コンセンサスに玉座を構える天帝ユピテルは、このところ頻繁に自身の居室において苛々と歩き回る夜を過ごしていた。

 実の叔父を拷問に掛ける切欠となった予言——それは権威を手にしたユピテルにとって最も警戒しなければならない事案——即ち謀反を疑う最たるものであった。

 その予言の女の名前がいつまで経っても明かされないことに、これ以上ない苛立ちを募らせていたのである。


(その女の産む子は、やがて父を凌ぐ英雄となる——)


 数々、他の予言や占星を試みたが、どれもプロメテウスの先見を払拭するほどの確信は得られなかった。

 いっそ、追い詰められた叔父の苦し紛れの戯言であればどれほど良かったか、しかし代々、子が親を倒して玉座に着くという血生臭い宿命を背負い、事実そうしたユピテルもまた、例外であろうはずがない。

 先王を倒し、玉座は手に入れた。

 ならば、次は誰ぞに倒されて滅びを待つ番がくる——それはもはや一種の脅迫概念となって天帝の内に秘めた暗部を苛むのだ。


 どんな些細な言動も、最高権威を得て上り詰めた身には由々しき事態に他ならない。特に、ティタンの中でもとりわけプロメテウスは先見の能力に長けた随一の預言者であり、先王サトゥルヌスの弟——ユピテルの叔父にあたる男だ。プロメテウスが味方したことで、玉座を巡る戦いをユピテル側が終始有利に進められたといっても過言にはならない。その権能と影響力はすでに十二分に立証している。


 その叔父が抜きん出た功労者であることは事実だが、プロメテウスはあくまでも巨人の血を引くティタン族だ。そしてさきの戦争において、その殆どのティタンは先王ちちおや側であった。

 ユピテルに味方したのは彼らのほんの一部に過ぎず、プロメテウスがその希少な一人であったこともまた揺るぎない事実ではある。


 しかし、宿命を恐れたユピテルは、戦い残ったティタン族に対して悉く、彼らの痕跡を潰して周り、天からあまねく地上に至るまで、その居場所と存在を徹底的に殲滅せしめた。

 生命力に長け、まつろわぬ者は地下牢獄ダルダロスへと投じ、終焉を迎える日まで今尚、地下に没した実兄ディス・パテルに見張らせている。

 例え自分に味方した実績があれど、今でもティタンの血を引く生き残りは、油断なく監視下に置くことを徹底し続けているのだ。


 戦後の処理も筒がなく終えて落ち着いた頃、先見によって得た女の名前をただ黙っていたという、謀反と呼ぶにはあまりにも些細な理由をあげつらい、随一の功労者であったプロメテウスでさえ、表向きは適当な罪状を焚き付けて磔刑に処した。

 ひとえに、我が身を守る為の最高権力者の暴挙に他ならない。


 その暴挙ゆえに、プロメテウスは今も尚、神々の刑場である高峰カウカソス岩山で磔にされたまま、ユピテルの放つ象徴鳥——大鷲に臓物を抉られる苦しみを味わい続けている。

 過ぎた個人的な後ろめたさが、天帝の苛立ちに拍車を掛けていた。


 気の休まらない夜半、ふと覚束ない足取りで居室前の廊下をふらふら彷徨い歩いている娘ディアナの姿が目に入った。

 天帝の座に治ってのち、程なく気まぐれに見染めたティタンを母親に持つ双子の片割れだ。見咎めて問いただしても、幼い娘は無言でユピテルを見上げるばかりだった。


「なぜ、お前がここに居る。離れ屋を出るなと命じていたはずだ、なぜ出て来た」


 娘の茫洋とした暗翠色の双眸には、ひっそりとした夜の森に横たわる濃い影が広がり、人として神として持つべき喜怒哀楽が欠落している。


「みんな、寝てる。誰か居ないか、探してた」


 辿々しく紡がれた言葉に、ユピテルは俄かに慄いた。

 最高神ともあろう己が、指摘されるまで気付かなかった——静か過ぎる、おかしい、と。


 部屋を出て様子を窺おうと踵を返せば、ちょうどそのあたりをよたよた歩いていたディアナを突き飛ばしてしまった。

 尻餅をつく娘に視線をくれた刹那、出入り口を塞ぐように、忽然と人影が立ち塞がった。


「おや、暫く女っ気がないと思っていたら、自分の娘にまで手を出すとは、世も末だね」


 嘲笑じみた底意地の悪い声が、ひっそりと響き、それと共に女神が一柱現れた。

 ユピテルは苦虫を噛み潰したような表情で侵入者を睨みつける。本来であれば、部外者が堂々と、こんな奥まった所にまで入って来られるはずがない。虫一匹通さない厳重な警備は、一体どうしたというのか。


「エリス、どうやってここに」

「もちろん、玄関から。ちょっと宮中の連中には眠ってもらったがね」


 にやりとほくそ笑む女神の視線の先で、床に尻餅をついていたディアナがのったりと身を起こし、無言で立ち上がる。痛みの類をまるで感じていないような目が、虚ろにエリスを映し出した。

 女神の双眸にもまた、まだ年端もいかない少女は随分と窶れて憔悴しているように見えた。その表情はつい先刻見届けたばかりの、刑に服したプロメテウスを僅かばかり思い起こさせた程だ。


「一体、何のつもりだ。貴様が出てくると碌な事がない!」

 吐き捨てるように声を荒げるユピテルに、女神の視線が移る。


「おやおや、男のヒステリアは見苦しいぞ、ユピテル。せっかくの朗報を聞かずに追い出すつもりかい?」


「朗報だと? 不和を好む貴様がか? 笑わせるな」

 ふんと鼻であしらう天帝に、女神は端的に告げた。


「予言の女の名が割れた」


 刹那、ユピテルは言葉を失った。

 まさか、という表情で明らかに動揺しているのが見て取れた。

「知りたいだろう」と嗾けられて、ユピテルは逡巡し、そして折れた。

 握りしめた拳は青筋を浮き立たせながら震えていたが、実姉の嘲笑よりも予言の女の正体の方が余程の大事であった。


「海の老人ネレウスの五十人の娘の一人、テティス——」


 思ってもみなかった名前に、さしものユピテルも驚かざるを得ない。

 大戦後、海を統べる実兄ネプトゥヌスよりも遥かに古くから海を知る、先王サトゥルヌスでさえ一目置いたティタン族の元老——かのプロメテウスが師と崇めた巨人であり、荒ぶる神々でさえ彼の言の元に鎮まる海底の長、その娘とは……。


 子を産めば、その子は必ず父親を超える英雄となると予言された女——まさにお誂え向きというものだ。

 記憶を辿り、とっさに、まだ関係を持ったことの無い手合いだと安堵する天帝の姿に、エリスは隠しもせずにせせら嗤った。


「なるほど。プロメテウスが何を心配していたのか……呆れてものも言えないね」


 仮に関係を結んだ後とあっては、テティスもまた適当な罪状と共に処分されたことだろう。あるいは、ネレウスとの対立を避けるため事故を装って始末されたかもしれない。


「プロメテウス……」

 意外にも、エリスの言葉に真っ先に反応を示したのがディアナだった。


 幼い口がその名前を呟いた瞬間、意識の外に放り出していた存在を思い出し、我に返ったユピテルによって叱責されたディアナは早々にその場を追い出された。

 あまりにも唐突な愚弟の行動に、エリスは不信感を覚えて眉根を寄せた。


「どうしても、やつの名前を聞かれたくないようだね」


 己の保身のために、言われなき罪に問い、永劫に続く拷問を受ける大叔父の名前を——と続けたエリスの言葉には、毒の棘が含まれていた。


「戯言はやめよ。とっとと立ち去るがいい。ここは貴様の居るべき場所ではない」


 何も聞かなかったことにして、ユピテルはとっととエリスを追い出した。

 生きて無事に返したのだ、それは最高位に上り詰めた男神が今夜の無礼を不問にしたということと同義であった。


「我が愚弟には、ほとほと呆れたもんだね」


 そう吐き捨てて、ふわりと羽虫に姿を変えたエリスがそのまま闇に溶けると、宮中には、再び静寂が訪れた。


 もう、大鷲をプロメテウスの元へけしかける必要もなくなった。生命力に長けるティタンゆえ、そのうち回復もするだろうが、どうなろうと、もはやユピテルの関心はそこにはない。

 予言の女が明らかになった以上、やるべきことが他にできたのだから。

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