I. プロメテウスの予言

 常時、黒雲がその先端を覆う高峰カウカソス——そこは人智を凌駕する神々の刑場であり、神なる力を以てしなければ訪れることも叶わない切り立った岩山であった。

 その高峰から苦悶の声が微かな呼気と共に漏れるようになって、一体どれほどの月日が流れただろうか。少なくとも人の子の代は随分と下ったはずだ。


 しかし、最も険しい岩壁にはりつけにされた先見の巨人ティタン、プロメテウスの刑期は未だ明けない。

 元来、生命力に長けるティタン族をただ磔刑たっけいに処すのでは、そもそも隠遁いんとんと変わらない。刑罰を受ける巨人の屈強な身体は、実の甥が施した呪いの鎖とくびきによって雁字搦がんじがらめにされていた。


 最高神たる天の王、さきの巨人戦争にて勝利を収めて以降は自らを天帝と言挙ことあげた甥の神なる力には、たとえ怪力を誇るティタンの血でさえ抗う術がない。

 そればかりでなく、日が昇れば何処よりか飛来する大鷲に執拗に脇腹を抉られ、生肝を喰われる苦しみを味わう。

 日中に傷ついた体は、その恐るべき再生能力によって夜の間に癒え、そして翌日、また抉られる。それが毎日繰り返される——この一連が全てプロメテウスの「磔刑」なのである。


 大鷲は即ち、最高神の象徴たる鳥だ。

 それほど、天帝となった甥の、プロメテウスに対する怒りは凄まじく、また類稀なる先見の能力によって得てなお黙っていた「予言」に対して異常なまでに執着が深いということだ。


 肉を裂かれ臓物を抉り取られる痛みに慣れることは永劫にない。だが、その苦しみにのたうち回りたくとも適わない。

 ただただ、大鷲が去るのを待って耐えるしかなく、大鷲が去れば夜のとばりが下りた事を知る。それが幾度目の夜となるのか、既に数えることも諦めて久しい。

 今宵もまた、傷ついた生身ばかりが勝手に癒えていこうとする。気の遠くなるような時間をたった一人、呻く以外に、猿轡さるぐつわを咬まされた口が言葉を発することがあるだろうか。


「なんてザマだろうね、プロメテウスや」


 しかし、その夜初めて来客があった。

 鼻先をひらりと一匹の羽虫が舞い、ふわりと目の前に進み出て弧を描いたと思うと、途端に一柱の女神に化けた。

 その口元に不遜な笑みを浮かべながら、眼光鋭くも、しかし、決してその双眸は笑っていない女神の顔には見覚えがあった。


「ティタンの血肉もすっかり萎み、舌を噛まぬよう猿轡を咬まされ、全身を呪いで雁字搦めにされながら、だらしなく内臓わたを曝け出し——ここまで生き恥を晒して尚、先見で得た予言を黙っているとは……見上げた頑固者だよ、お前は。いや、大戯おおたわけと言うべきかね」


(何をしに来た)

 プロメテウスの声が直接、女神の脳に響いた。


 そのことに、女神はほんの少し驚いた素振りを見せたが、口の端をにんまりと上向けて続けた。


「生意気に、まだそんな芸当が出来るかね。私がここで晩餐でもすると思うかい? 肝臓きもを突く鳥じゃあるまいし。お前に用があるから来たに決まっているだろう」


 何がおかしいのか、女神はクックと忍び笑う。


(この有様だ、話す事など何もない)


 相手の脳に直接語りかける——神なる力の一端を備えるティタンにも扱える能力の一つではあるが、呪いに蝕まれた満身創痍のプロメテウスには、そうそう持続できることではない。

 俄かに両眼が霞んできたが、女神の方は容赦ない。


「逆じゃないのかい? 話さないから、そのザマなんだろう?」


(話すような事は……)

「ぐっ……う」


 繰り返し女神の脳に直接響く声が、ふと搔き消え、代わりに猿轡越しの乾いた口から呻き声が漏れた。

 修復途中の剥き出しの内臓に衝撃が走り、そして、そこには女神の握り拳がめり込んでいた。


「強情だね、こんな目に遭ってもまだ懲りないのかい。玉座に治った後は、自分に味方した実の叔父ですら平気で拷問に掛ける天帝デウスだ、あの男ユピテルは。お前が誰よりも良く知っているだろう。あと何年そうしているつもりだい? 何のために私がこんな所まで足を運んだと思っている」


 女神は、体液で汚れた指先を雑作もなくピッと払いながら、プロメテウスが思

ってもみなかったことを平然と口にした。


(助けに来たとでも?)


 不和を好み、進んで禍々しい騒ぎを巻き起こす女神の言動であればこそ、俄かには信じられないのも無理はない。


「意外かい? その天帝ユピテルが、いい加減煩くてね。私にまで当たり散らして迷惑してるんだよ。お前が先見で得た予言の女とやらの名前を吐いてもらいたい。あの男の命運を握る者なのだろう? 代わりに私はその呪いを解いてやろう」


 プロメテウスは、少し虚ろになりながら諦観した面持ちで耳を傾けていたが、ゆっくりと首を左右に振った。


(話す気はない。それに、お前にこの呪縛は解けまい)


 先王ちちおやを倒し、名実共に最高神デウスの誉れ高い天帝ユピテルの呪術のろいごとは、そう容易く破られたりはしない。それはプロメテウス自身も試み、そして敵わなかった事実だ。

 しかし、目の前の女神は軽く鼻先で一笑に付した。


「やれやれ、随分と侮られたものだね。私がその呪縛とやらを解く術を知らないとでも?」


(何だって?)


 瞠目するプロメテウスに一歩近づいた女神が片手を呪いの鎖に充てがう。

 グッと握り締めた刹那、猿轡も鎖もくびきごと磔の身体から一気に弾け飛び、プロメテウスは重力に従うまま狭い岩場に崩れ落ちた。

 目の前には勝ち誇ったように立ち塞がる女神が見下ろしている。


「エリス、お前、どうして」

「さあ、吐いてもらおうか」


 不和の女神エリスは抑揚なく容赦のない声音で遮った。

 天帝ユピテルの実姉にあたる女神の秘めた底知れない神なる力——否、もはや禍術まがごとに等しいその力に、プロメテウスは返す言葉もない。

 術を施した本人も、こうも簡単に破られるとは思いもしなかったことだろう。生来、堪え性の乏しい甥が不用意に当たり散らしたりさえしなければ、今後も不和を好む女神が刑場カウカソスを訪れることはなかったであろうに……しばし躊躇うように視線を伏せたプロメテウスが、やがて振り絞るように呟いた。


「賢老ネレウスの五十人のニンフの一人、テティス」


「ほう、あの海の老人の……。お誂え向きだな」

 エリスは思案顔で呟いた。


「何を企んでいる、エリスよ」


 プロメテウスの先見によって名前が上がったことを、海の娘は知る由もない。だが、その存在がユピテルの知るところとなれば、何も知らない娘に危害が及ぶかも知れない。プロメテウスが危惧しているのは、正にそれだ。


「企むとはご挨拶だね、あの男の動向うごきを見たいだけさ。さぞかし見ものだろうよ」


 エリスの口元が歪んだ。

 この女の、この性格が、不和を好む女神と畏れられる所以だった。


 必要な情報を得たエリスは、長居は無用とばかりに、再び羽虫に姿を変えて一言残すと闇に紛れて程なく消えた。


「プロメテウスよ、お前は自由の身だ。好きにするが良いさ」


 だが、プロメテウスは半ば呆然としたまま、結局、朝の気配がする頃になっても刑場を動こうとはしなかった。山を降れば更なる混乱を招くことを承知しているからこそ、役目を終えた立場では動くことが出来なかったのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る