5.
金輪を三本嵌めた右腕を前に突き出し、戸口の前に立ってフリーデは詠唱をはじめた。奇妙なものを見るようにクレイはその様子を後ろから眺めている。自分が唱えている言葉の意味をフリーデは知らないのだという。フリーデはただ音の連なりとして記憶して、何か唱えているという意識はない。歌に近いとフリーデは言っていた。
ケイ・クーによれば、フリーデが操る言葉にさほど力はなく、力があるのは腕輪なのだという。ケイ・クーがフリーデの使う術具についてどれほどのことを知っているのかクレイは知らない。しかし、ケイ・クーにそう指摘されてもフリーデ自身はただ肩をすくめるだけだった。フリーデはただ術具を使う詠唱を覚えているだけで、その仕組みを知っているわけではない。
不意に寒気を感じる。風がクレイの後ろから前へ吹き抜けていく。
はじまった、とクレイは思った。〈至福〉の精製に使われていた部屋、床に死体が並ぶ広場が次第に薄暗く赤く光を帯び始める。肌に感じる空気は冷えていくが、フリーデの方からは熱を感じて顔が熱かった。
突き出したフリーデの腕に嵌められた金輪が細く甲高く鳴り始める。
奥にある部屋は明らかに輝き始めていた。部屋の床や壁が橙色に光り、中の机から暗い煙が立ち上っているのが見える。奥の部屋ほどではないが、手前の広間もそれは同じで、床は赤く輝き、そこに並べられた死体の服から煙が立ち上り始めていた。
すぐに火が付くだろう。
「すざまじいものだな」ホドルが呟く。「よく自分を巻き込まないもんだ」
フリーデは腕を降ろし、振り返る。
「下がって。崩れるわよ」
奥の部屋に通じる戸口では、木枠や扉の残骸が薄暗い炎を上げていた。その向こうに見えている銅製の精錬具は形を崩している。溶け始めていた。
燃え上がる地下の熱気を今やクレイははっきりと感じている。汗が流れるのを感じながら、クレイは地上階に通じる階段へ戻った。ラトクの姿はすでに見えない。ケイ・クーが階段を上がって行き、クレイもそれに続いた。後ろからはホドルとフリーデが続く。
ラトクは中央広間に繋がる戸口の前で待っていた。床に置かれた用心灯がその顔を照らしている。ケイ・クーが一足先に中央広間へ出て行った。
「お早く」
ラトクが手で円を描くように何度も回している。クレイ達は足早に闇に包まれた中央広間へ出た。
「どこに行く」
こっちだ、とケイ・クーがホドルに答えた。広間正面にある玄関扉を押し開けている。外は僅かに明るかった。
「もう少しうまく始末できるといいんだがの」
と、ホドル。
「じゃあ、あんたがあの部屋丸ごと荼毘に伏すだけの薪を集めてくればいいのよ」
「悪いとは言っとらん」
二人のやりとりを苦笑交じりに聞きながらクレイは外に出た。地面はぬかるみ、下草は十分に濡れているが雨は上がり、雲間に星が見えている。空気は湿って、少し生ぬるかった。
ラクトが荷物袋を濡れた地面に置くのと、館の左翼が音を立てて少し沈むのが同時だった。中央から延びる向かって左の屋根が一旦下がり、そして内側へ崩れ落ちていく。
地階に使われていた石材が熱で脆くなり、その上に積み上げられた壁や床の重みで潰れたのだった。
「ところで、都には今から行くのか?」
ホドルが訊く。いいや、とクレイ。
「夜が明けてからだな」
「あの館、もう崩れないと思うか?」
どう思う? と、クレイはフリーデに訊いた。
「解るわけないじゃない。でも、館の地下はぐずぐずになってるだろうから、あんまり入りたくないわね」
「そういうことか」クレイは星明りで薄く浮かび上がる館を振り返り、そしてフリーデを見た。「ちょっと気が早かったかな」
フリーデは腕を広げてみせる。
「わたしのせい?」
「違うよ」クレイは溜息まじりに言う。「俺が気付かなかった」
「乾いた地面があればいいがの」
何言ってる? とケイ・クー。
「そんなのフリーデが腕輪使えば済む話だろ」
「またやるの? 疲れるのよ。あれ」
「寝床を作って一休みすれば治るんじゃないの? まだ若いんでしょ。エルフの歳はよく知らないけど」
「あんたに言われたくはないんだけど」
そう言いながらもフリーデは濡れた地面に置いた荷物袋の中から金輪を取り出し腕に嵌めた。
「坊さん。結晶はそんなにでかいのか?」
ラクトは頷く。
「混ぜ物がどれだけあるかは戻ってからですけど、大きい。それは確かです。あの大きさは初めて見ました。都でもあれくらいのものは誰も知らないかも」
「どれだけの草竜を使ったのかの」準備をするフリーデを見ながらホドルは呟くように言った。「短命族には無理か」
「ヒトには無理、少なくとも、聞いたことはないですよ。エルフには竜使いがいるという話ですが」
「それでもなんとか荷役に使うくらいの話で、汗を採って無傷でいられるほど飼い慣らしているわけじゃないからの」
冷たい風がフリーデが腕を突き出す先へ、一瞬だけ吹く。腕に嵌めた輪が小さく鳴った。
「こんなもんかな」
「何かやったのか?」
「乾けばいいんでしょ。焼野原が良かった?」
ケイ・クーがフリーデの脇を抜けて、その先の暗がりへ歩いていく。
「地面は乾いたよ。酷く蒸し暑いけどね」
暗がりの中で金色の双眸が一瞬光ったように見えた。
「ま、そういうものだな」
ラクトが荷物袋を持ち上げ、ケイ・クーのいる辺りへ向かい、暗がりへ溶けていく。
「ヒトには無理、エルフの竜使いでも無理」
クレイが呟くように言うとホドルが振り向いた。
「やっぱり背族者か?」
ホドルは首をかしげる。
「他にそれらしい者の心当たりがない、くらいだがの。あの連中を直接知っとるわけじゃない。ここにいれば良かったんだがな」
「手掛かりを集めて、辿って行くしかないか」
「ま、そんな楽にいけるならお前さん達とつるんだりはしてないさ」
「今回見つけた結晶が何か手掛かりになるかどうか、か」
暗がりの中で用心灯の明かりがぼんやりと周囲を照らした。クレイとホドルはその明かりに向かって歩き出す。
「何にしても、ひと眠りしたいよ」
クレイが呟くと、フリーデが振り返り、微笑むのが解った。
忘れ去られた館にて ながはま @nagahama
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