第 10 話 鴛淵隊長、菅野隊長の戦死

 7月24日、グラマンの大編隊が瀬戸内海の西部を襲った。呉軍港にとどめを刺し、島影に隠している残存艦船を殲滅せんめつする作戦であろうことは容易に推測できた。343空から紫電改部隊が迎撃に飛び立った。鴛淵大尉以下21機の編成である。今は、これがこの時点における343空の全力であった。

 高度6000メートル、佐田岬さだみさき沖を巡航飛行する編隊を確認した。すでに呉軍港空襲からは終了したようだ。長崎大村基地からは時間が足りなかったのだ。米軍は、帰りの支度に入っている。弁当のハムサンドを食ってる頃だ。終えた30機編隊が7編隊、合計210機の大編隊だ。これとまともに渡り合っては勝算はない。後ろから忍び寄って最後尾の30機の編隊を攻撃し、他の編隊がきびすを返して押し寄せてくる前に戦線離脱せんせんりだつというのが最も効果的な戦法である。何機か落しても大勢に影響はないが、敵を混乱させることで時間稼ぎができる。二次攻撃もある。市民が防空壕に避難するのも一分一秒にある。

 高度差1000メートル、敵は気付いていない。圧倒的に有利な体制だ。鴛淵隊長機の主翼が上下に揺れた。突撃の合図だ。21機は隊長機を先頭に一糸乱れぬ編隊体制のまま急降下した。30機の敵編隊に21機の紫電改が後部から交差する。次の瞬間、九機の敵戦闘機が煙を吐いた。錐もみ状態で落ちる機体、火を吐きながら高度を下げて行く機体、空中分解する機体、煙を吐きながら戦線離脱する機体。鴛淵編隊はすぐに機首を上げ500メートルほどの高度を取って反転した。自動空戦フラップが最も生きる場面である。そして、そのまま全速で逃げようとする残りの敵機に対して二度目の攻撃を加えた。また5機が煙を吐く。そして、その戦果を確認して戦線離脱、帰還の予定だった。だが、離脱しそこなった1機がグラマン2機に後方に付かれてしまった。それを見た鴛淵機は急速旋回をしてグラマン2機の左腹部に付き20ミリ機銃を放った。1機のグラマンは高度を失い海に落ちて行く。だが、鴛淵機も後続の敵機にエンジン部分を撃たれてしまった。エンジンから火が吹く、やがてエンジンは止まった。白い煙を吐きながら滑空する。鳥が風を受け大空を滑るように。初島はつしま上飛曹の機がしばらく寄り添うように付いていたが、高度は回復することなく、やがて鴛淵機は豊後水道の海に消えていった。主翼を上下に振り突撃の合図をして、わずか10分ほどの出来事だった。

 この日の戦闘で敵機16機を撃墜したが、紫電改も鴛淵隊長以下6機が未帰還となった。

「鴛淵隊長が…」

 紫電改から降りてきた嶋田が、そう言ったまま立ち尽くした。

「………」

 杉本は何も問わない。

 嶋田はもう何も言わず、報告を終えるとそのまま兵舎に帰って行った。


 次の日、杉本と洋子は、いつものように生鮮食料品を求めてトラックを出した。日常が始まる。異常な状況下でのいつもの日常だ。だが、今日は洋子の方から要求があった。

「あの女子師範学校の講堂に行ってくれない」

「ピアノ弾きたいんだろ。分かってるよ」

 杉本も洋子の気持ちは手に取るように分かる。この違った時代にやって来て、唯一頼りになる人間が鴛淵大尉だった。その鴛淵大尉はもうこの世にはいない。ピアノと言う一つの接点で心を通じ合った人をピアノの演奏で送りたいのだ。

 今日は鴛淵の同級生の若い女性教諭も講堂に付いて来た。鴛淵がいないので「もしや」との予感があったのだろう。洋子がレクイエムを弾き始めると立っていることができず座り込んでしまった。床は涙で濡れた。

「隊長も幸せもんだよな。あんな美人に惚れられて」

 トラックを運転しながら助手席の洋子に声をかけた。

「やっと分かったの。鈍いんだから」

「俺もあんな美人に惚れられてみたいよ。まあ無理か…」


 ~美人なら此処ここに居るじゃない。あなたに惚れてる美人が~


「本当に鈍いんだから」

 小さな声で言った。

「何か言ったか?」

「いや、別に…」


 1945年8月1日、また343空に悲報が入った。創設以来の隊長、管野直かんのなおし大尉が帰らぬ人となったのだ。グラマン、B29を相手にしての撃墜数では他の追随を許さなかった日本海軍の誇る最高のエースだった。墜落の原因は20ミリ機銃が正常に発射せず、主翼内で暴発した事からだった。新たな機体の補充がなく部品も滞りがちで、何とか騙し騙し使っていた付けが回ってきた結果とも言えた。これで松山に集結した時からの343空の隊長達はすべてこの世を去った。茹だるような真夏の宵、343空全体に暗雲が垂れ込めた。


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