第 9 話 スタインウェイ
「おい、今から食料調達か。御苦労さんだな。今日も頼む。乗せて行ってくれ」
トラックに乗って食料調達に出かけようとしている杉本と洋子に声がかかった。鴛淵大尉だった。
鴛淵はトラックの荷台に乗り、5キロほど走るとそこで降りる。そして、帰りの途中で、またそこに立っている大尉を拾って帰ってくる。7月に入り週に二日は同じ事が続いている。
「隊長、何処に行っているんだろうな?」
杉本が洋子に
「鴛淵大尉、長崎が故郷だと言ってたから、実家にでも帰ってるんじゃない」
「隊長、そう云えば長崎出身と云われてたな」
その日も同じく降ろした場所に立って鴛淵は待っていた。
「隊長、実家にでも帰ってらしたんですか?」
杉本が何の気なしに訊く。
「いや、私は長崎出身だが、実家は長崎市内だ。大村ではない。実家には帰っとらん。隊員たちが故郷に帰れんのに自分だけが長崎に帰って来られただけでも有難いと思っている。この上、実家に帰ることなど許されんだろ」
鴛淵は静かに言った。
「いえ、疑ってなど」
杉本は云うと、敬礼をした。
三日後、鴛淵はいつも降ろしてもらっている角をそのまま左に入って進むように言った。一分ほど走ると学校が見えてきた。正門には大村女子師範学校の文字があった。
鴛淵はトラックを校庭内に入れるように云う。
「今日も頼むよ」
職員室の扉を開いて声をかける。
「はいどうぞ、ご存分に」
職員室に居た当直らしい若い女性教諭が出てきて言った。
「小学校の後輩なんだ。ここの教師をしている。生徒たちが勤労動員に出てるんで新米教師は留守番を仰せ付かっているそうだ」
鴛淵は少し照れるような顔をして言った。
「おい、見たか。すげぇー美人だ」
杉本は洋子の耳元で
「それだけ? 分からないの? 鈍いんだから」
「もしかしたらエンゲ?」
「エンゲ? どういう意味」
「海軍用語で婚約者の意味だ」
「婚約者か分からないけど、相思相愛ね。女だから分かるけど」
洋子は云った。
鴛淵は校舎に隣接する講堂に入って行き、講堂の舞台に置かれてあるグランドピアノの前に立った。
「うわ! これ、スタインウェイよ。すごい!」
洋子が声を上げる。
「何だ、スタインなんとかって? 怪物のフランケンスタインなら知ってるぞ」
「ドイツのピアノよ。最高のピアノよ」
「ふーん」
鴛淵はピアノを弾き始めた。
「モーツアルトのレクイエム・ニ短調だわ。すごい、何これ、凄いテクニック。こんなの聴いたことない」
洋子は聴き入っている。
レクイエムが終わると、ビートルズの『イエスタデイ』が始まった。そして、洋子の持っていた楽譜を次々に演奏し始めた。『悲しき雨音』『花は何処へ行ったの』『スタンド・バイ・ミー』『上を向いて歩こう』『世界で一つだけの花』……
「すごい。音源も聴いて無いのにこの演奏?!」
洋子はため息を漏らす。
「洋子ちゃん、これ一緒に弾いてみようか?」
鴛淵が
ビートルズの『オブラディ・オブラダ』を二人で弾く。時々目と目を合わせ微笑み合う。杉本は妙な嫉妬心を覚えていた。
鴛淵は最後に一人で『ゴンドラの唄』『朧月夜』『長崎物語』を続けて弾いた。
「僕の知っているのは、この中でこの三つの曲だけだったよ。でも、編曲がいいね。斬新だ」
「でも、古い歌だったんですね」
「ああ、僕が知っている位だからね。ハハハ。ところで、この最後のページ、歌詞はあるけど楽譜はないね」
鴛淵は最後のページを
「あっ、それ、卒業式に歌う曲を依頼されて作ってるんですけど、歌詞はできたんですけど曲が思いつかなくて。なんか、恥ずかしい」
「いやいや、なかなか良い詩だよ」
鴛淵はしばらく鍵盤を叩いていたが、やがて、
「こんなのはどうかな? 卒業式だから唄いやすいのがいいだろう」
と言うと曲を
花は咲き 花は散り 時は止めど流る
人は集い 人は去り 思い出が残る
学び 悩み 競いし友よ
今日は旅立ちの日 共に歌おう
いつの日にか いつの日にか また巡り会いて
お互いを讃え また夢を語ろう
洋子も唄った。わずか一時間ほどのピアノコンサートだったが、何故か終わった後、涙があふれ出て止まらなかった。忘れないように楽譜も走り書きした。
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