第 4 話 自動空戦フラップ
杉本幸三と松浦洋子は軍のトラックに乗って物資の買い出しに松山市内に出て来ていた。左腕にしびれが残っている杉本は紫電改への搭乗は禁止され、このような役割を任されている。洋子は炊事班長に指示されたメモを手に食材を買い出す係を仰せ付かっている。缶詰や干物のような保存がきく食材は軍からの配給があったが、魚や精肉、野菜などの生鮮食料品は現地調達するしかない。朝、基地を出て夕方に帰るまで食材を求めて松山市内から郊外までをさまよう日々が続いている。
洋子は、目立たない様にと言う配慮から、
343空の名を出すと誰もが好意的だった。皆、苦しい中、格安で物資を回してくれた。おまけだと言って芋や野菜を持ってくれる人もいる。漁師町へ行けば魚もたくさん譲ってくれた。瀬戸内海は空襲が激しくなってからは禁漁になったのだが、そんなことはお構いなしに漁に出ているようだ。343空は、今や、ここ松山の人々にとって自慢のひとつになっていた。
「早くまた紫電改に乗りてぇ」
空を行く紫電改の編隊を見て杉本が叫んだ。
「あの飛行機、紫電改って名前なんだ。あたし、ゼロ戦なら知ってるよ。最近映画にもなったし。そう言えば、お父さんが使っている毛生え薬が確か紫電改って名前だったような気がする」
「ゼロ戦……、ああ
「紫電改ってそんなにすごいの?」
「すごいぜ。零戦なんか比べもんにならん。世界最高の戦闘機だ。2000馬力のエンジン、20ミリ機銃四門。自動空戦フラップ。どれをとっても最高だ。特に自動空戦フラップ。これ開発した人は天才だな。普通、宙返りをしたり旋回したりする時はフラップを降ろして速度調整するんだが、その角度を決めるのが難しい。隊長のような熟練だと難なくやってしまうんだが、俺たち新参にはなかなかだ。空戦になるとますます難しい。それが自動空戦フラップを使えば何もしなくても勝手にやってくれるわけだ。これは有難い。あっという間に敵機の後ろに付くことができる」
「………」
「おい、聞いてんのか?」
「聞いてるわよ。何とかフラップが宙返りして、新参があっという間に熟練になるんでしょ」
「興味ねぇか」
杉本は話をやめた。
「ちょっと
いつものように買い出しを終えて帰ろうとした時、洋子が声をかけた。
「清水町?どのあたりだ?」
東京生まれの杉本は松山の地理には全く明るくない。何度もトラックで行き来はしているが、清水町と言ってもどの辺りか分からず、ほとんど洋子に頼っている。洋子はこの時代の松山の地理にすぐに慣れた。70年の時を隔ててはいても基本的な地理は変わってはいないからだ。
「あたしの言う通り運転してくれたらええんよ」
洋子はそう言うと早速右手を差し出し、そこの角を左に曲がれと合図した。
「確かこの辺りなんやけど?」
トラックを徐行させながら、狭い道を行ったり来たりしている。やがて、一件の古い木造住宅の前に来ると、
「ストップ!」
洋子が声を出した。
「多分ここじゃろ?」
「何が
「お婆ちゃんの実家かも?」
洋子はそう言うとトラックのドアを開けて降りた。
「やっぱり」
「何がやっぱりだ?」
洋子が指を指す。そこには『藤田』という表札があった。
「お婆ちゃんの旧姓なんよ」
洋子は門の
「おい」
杉本は声をかけた。
洋子は振り向くと、
「ちょっと待っとって」
と言うと、そのまま石畳を歩き玄関の戸を開けて入ってしまった。
「
洋子は玄関で声を上げる。
やがて、この家の主婦らしい中年の女性が出て来た。
「どちら様でしょうか。どのようなご用件で?」
軍服を見て兵隊かと思ったが、帽子を脱ぐと若い娘だった。軍服を着た若い娘の訪問という状況に少し戸惑っている様子。
「あのー、突然訳の分からないことを言うと思いますが、信じてください。本当の事ですから」
洋子は玄関に立ったまましゃべり始めた。
「7月26日の深夜、この松山が空襲にあいます。この辺りは全滅します。この家は焼夷弾の直撃を受けます。ですから、その前に避難してください。お願いです。信じてください。絶対に避難しておいてください。7月26日の深夜です。嘘ではありません。信じてください」
一気に言った。
主婦は少しの間呆然としていたが、やがて気を取り直して言った。
「はいはい分かりましたよ。7月26日ですね。ちゃんと逃げておきますよ。わざわざありがとうございます」
主婦は戦争のせいで気のおかしくなった娘がやって来たのだと理解したのだ。
「あのー」
「まだ何か?」
主婦は少し冷めた口調で言った。
「多分信じてもらってないと思いますので、言いたくはなかったのですが言っておきます」
「何ですの?」
「空襲のある7月26日の朝、
少しの間、静寂があった。そして、
「早く帰って、何を言い出すんかと思たら、この疫病神。帰って、帰って、早よ出て行って」
主婦は叫ぶと、洋子の腕を掴み、玄関から門まで引っ張ってゆくと格子戸を開けて追い出した。
竜彦は洋子の大叔父にあたる。祖母の兄で海軍兵学校を出た将校だった。潜水艦に乗っていてフィリピン沖で爆雷攻撃にあって戦死したと伝えられている。松山空襲の日に戦死の報が届いたという事を祖母から聞いたことがあった。
「疫病神にされちゃったみたい」
洋子は運転席で待っている杉本に言った。
「何やらかしたんだ?」
「ちょっとね……」
その時、洋子と同世代の年齢の若い娘が帰って来た。洋子に会釈をすると玄関の格子戸に手をかけた。
「お婆ちゃん」
洋子は思わず声をかけてしまった。
「………」
声を掛けられた少女は振り返って洋子を見ると、怒った顔で格子戸を思い切り締めた。
「馬鹿か。どう見ても婆さんじゃないぜ。失礼にも程がある。怒るのも当たり前だ」
杉本は
「だって、あれ、お婆ちゃんやもん。若い頃の写真と同じ」
「だからって、お婆ちゃんはないだろ」
「まあ、それはそうやけど……」
帰りのトラックの助手席に座っていた洋子がポツポツと話し始めた。
「お婆ちゃんの実家に伝説があるんよ」
「伝説?」
「そう、ある日、軍服を着た頭が変になった女の子がやって来て、7月26日に松山大空襲があって、この辺りは全滅するから逃げてくださいって言ったそうなんよ。そのうえ、その日の朝に息子さんの戦死の報が届くとまで言ったんだって。ひいお婆ちゃんは怒ってその子を追い出したんだけど、その子の言う通り7月26日の朝に戦死の報が届いて、驚いて悲しむ間もなく逃げたそう。そして、その日の深夜、逃げた先の北条の本家の庭から松山の上空が真っ赤に染まるのが見えたという事」
「へぇー」
「わたし、気付いたんよ。自分が着とるこの軍服見て。その軍服着た頭のおかしなった女の子って、私なんじゃないかって」
「ふーん」
「真面目に聞いとん?」
「ああ、聞いてるよ。それにしても、さっきの子、洋子ちゃんによく似てたな」
「あたりまえよ。あたしのお婆ちゃんやもん。でも、今は86歳、認知症が進んでね。私が会いに行っても時々誰か分からないことがあるんよ」
「認知症?」
「そう、いわゆるボケ老人」
「でもね、昔、飛行隊の人たちの紫のマフラーに
「
343空は、四つの隊から編成されている。343空が「
新撰組の紫のマフラーには「ニッコリ笑えば必ず堕とす」という
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