[9] 遭遇
宮原大迷宮浅層。土川先生について迷宮潜行社のメンバーといっしょに探索中。
突然の重野さんの『止まれ』という指示の通りに、皆一斉にその場で足を止めた。その時点で俺は視覚はもちろん、聴覚や嗅覚でも、その警戒を要する何かの存在を捉えられていなかった。
後で確認したところによれば、重野さんも何か具体的な感覚をもとに、その指示を出したわけではなかった。言葉でうまく説明することはできないが、ともかくなんとなく危ないと感じて、止まるように言ったらしい。今までの経験上だいたい半分はそうした直感が当たるとのこと。
他の人にも話を聞けば、迷宮探索経験が多い人ほど、そうした感覚を肯定的に扱う傾向があった。あるいはそれも変質の一種なのかもしれないと、土川先生は言っていた。外見に現れない形で神経もしくは精神が変質しているという説。
話を戻す。通路正面に向けて重野さんは手槍を構える。どっしりとして安定感がある。
目を凝らせば闇の中でうっすらと黒い姿が浮かび上がってきた。何かがいる。その時はじめて俺はその存在を認識することができた。
黒角狼。実技訓練の際に模型を見たことはあった。
人間追い詰められると変に落ち着いたことを考えるもので、この時俺はあの模型はずいぶんとよくできたものだったんだなあと、妙な形の感心をしていた。それほどまでに闇の中から現れたその狼は前に見た模型によく似ていた。
けれどもプレッシャーがまったく違う。その場に立っているだけでびしびしと殺気が突き刺さってくる。気を抜くと肌の表面に痛みすら錯覚するほどだ。
これが本物の魔物。
確かに外にいる動物とはまったく違う。友好的な関係を築ける可能性はゼロだ。根本からしてわかりあえない存在なのだと、なんとなくわかってしまう。本能でわからされてしまう。
頭のてっぺんに立つ尖った角に目が引き寄せられる。圧倒的凶器。あんなもので貫かれたらこっちはひとたまりもない。腕や足にあたったところで、その器官は使い物にならなくなるだろう。
結果はよくて相打ち、大抵は一方的な虐殺。
どうするのか。
膠着状態。先頭に立つ重野さんと黒角狼はにらみあったまま動かない。狼はこちらを威嚇するよう低くうなった。簡単に退く気はないようだ。
教えてもらった通りの状況だった。
こういう時、他の人はまずむやみに武器を構えてはいけない。乱戦になった際、思わぬ事故につながりかねないから。それでもすぐに武器を使えるように準備だけはしておくことだ。
両手で手槍をぎゅっと握りしめた。陣形として俺は中心に近い位置にいる、土川先生の隣。多分俺のところにやってくる事態にはならない。けれども気を引き締めておくにこしたことはない。
重野さんのすぐ後ろには戸辺くんが控えていた。今年で2年目、ベテランではないが新人とも言えない。変質なし。咄嗟の状況判断がすぐれていると重野さんは彼を評価している。だからこその配置。
狼は動かない。このまま何もせずに去ってくれればいいが、それはただの願望だろう。
戸辺くんが静かににじり寄る。狼に圧力をかける。そのまま接近を許せば状況は2対1に変化するぞと無言で告げる。狼は進むか退くか決断を迫られた。
その体が一瞬だけ低く沈んで、跳ね上がる。重野さんに向かって飛びかかってきた。
場違いなことに俺はその光景を美しい思った。その生物は殺戮に最適化され、それゆえに機能美を獲得している。ぎらりと鋭くその角の切っ先が光った。
ぐいっと重野さんは左腕を差し出す。目の前に現れたそれに狼は反射的に食らいつく。ただ突然のことに戸惑いがあったのだろう――浅い。
灰色に硬質化した肉体に生半可なことで牙は通らない。
「今だ!」
重野さんから指示が飛ぶ。それとほとんど同時に戸辺くんは駆け出していた。深く手槍を引き込むと渾身の力で黒角狼の土手っ腹を刺し貫いた。
勢いに狼は重野さんの腕を離す。そこに追撃の二の槍。片手で構えた槍を重野さんは落ちる狼にぶちこんだ。2本の手槍に貫かれてさすがの狼も動かなくなった。
「訓練じゃ教えなかったがこういう変則的な戦い方もある」
重野さんはこちらを振り返るとにやりと笑った。
自己の変質を有効に利用している。多分彼にしかできないやり方だ。教えられたところでマネできるものではないだろう。
『変質とは迷宮への適応の結果である』
そんなことを前に土川先生は言っていた。
確かにこの世界で生き抜くには人間から離れることを受け入れ、そしてその変化を積極的に利用することが、必要不可欠なのかもしれない。
郷に入っては郷に従え。それは別段迷宮に限ったことではなくて、どこでもありえる話なんだろう。けれども迷宮においてはその求められる変化が著しい。
人間が元の人間のままでは迷宮で生きていくことは非常に難しい。
その後は何事もなく調査は済む。朝早くに入ったはずが、出てきた頃にはすっかり日が沈んでいた。ぼけーっとお茶を飲んでる管理人のおじいさんを見て、帰ってきたんだなとなんとなく思った。
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