第8話 月虹のアイリス

 ――私はため息をつきながら、スマートフォンに内蔵された『月虹のアイリス』の電子書籍をタップした。何度も読んだ冒頭の一文、こんなキラキラした宝石箱のような文章を私はこの人生を貧弱に生きてきても絶対に創作できない。この冒頭から感動体験を司る前頭葉は鷲掴みにされたのに。

 アイリスが初夏に咲く菖蒲の花を意味するのだ、とネット検索で知ったとき、私は十四歳の少年がこの『アイリス』や『月虹』という言葉を駆使し、その古語をタイトルに付けた早熟性に見事に心酔した。

 性被害を受けた少年が初夏の公園で魂の彷徨をし、月影に照らされたアイリスの花に自分の傷心を託す。その美しいアニメーションのような言葉がふんだんに散りばめられた小説は、新海誠の短編映画を見ているようだ、と評したのは、大御所作家の磐崎柚葉。

 磐崎柚葉は早稲田大学文学部在学中の二十一歳のときに応募した『鈴が音』で敬想新人文学賞を受賞し、たちまち文壇の寵児になった。恋愛小説の旗手と呼ばれた彼女が真っ先に新倉蒼の小説を大絶賛し、最年少受賞に懐疑的だった、男性大御所作家も彼女の絶賛につられ、全会一致で芥川賞最年少作家となったと言われている。

 私が芥川賞にノミネートされたとき、選評でクソみそに酷評した大御所作家でもある。磐崎柚葉はホスト通いの、大のイケメン好きでも知られ、少女だった私は陰で磐崎柚葉に若さに嫉妬されたのでは、と囁かれた。当の私は別に恨みなんてない。

 正直、文学賞の選評の比喩に新海誠のアニメ映画を持っていく表現力が稚拙極まりないのでは? と磐崎柚葉を叩く、ネット民の書き込みを見た。新海誠に失礼だろう、というリツイートもあった。

 

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