内藤愛美 後編

愛美は自分を納得させるために、相応の言葉を自身に言い聞かせた。全てに納得できた訳ではない。でも、今なら助久と冷静に話ができると思う。


だけど、自身の我儘を反省しても、土曜に助久が仕事することに納得しても、デートが無くなった事を我慢できたとしても、胸の中にあるモヤモヤだけはどこにも行ってくれなかった。


少し冷静になったせいか、今度は空腹を感じ始めた。愛美はムカムカするといつもお腹が減る。


「お腹減った・・・でも、帰りづらいなぁ。」


助久に何を言ったのかは覚えていないが、家を飛び出す時に見た彼の悲しそうな顔は忘れることはできない。


「よし、ここでウダウダしてても仕方ない。なんか食べに行こう。」


愛美はベンチから立ち上がった。


この時間ならどの店も営業している。ラーメン屋、牛丼屋、居酒屋、それらは女性一人では入りづらい。愛美はお酒も飲まないし食べるのも遅い、尚の事そう思ってしまう。


ここからさほど距離がなくて入りやすい場所。家に近付くのは嫌だけど、助久二人でよく行くビストロに行こう。そこなら愛美でも一人で入れる。


愛美は公園を出た。


消えないモヤモヤを抱えて歩く愛美の足取りは重かった。ビストロに着くまでの短い時間で何度溜め息をついた事か。


今は助久には会いたくない。


見知った店構えのドアを開けると、来店を知らせる鈴の音が鳴った。


「いらっしゃいませ。」


小柄な女性店員が対応してくれた。一人である事を伝えると、カウンターに案内された。


椅子に座ると女性店員がメニューを差し出した。愛美はメニューを受け取って目を落とす。


「おまたせしました。」


無愛想な声がした。


愛美の隣にいるカップルの前にパスタが二皿置かれた。あれはボロネーゼ、パスタだ。


「ごゆっくり。」


男性店員はそれだけ言って、空いた皿を片付けた。


隣のカップルは仲睦まじ様子でパスタを食べ始めた。いいな、愛美はカップルを横目で見ながら思った。女性の左手薬指に指輪が見える。まだ若く見えるが夫婦のようだ。


愛美は一通りメニューに目を通した。迷いはしたが、いつもと同じ物を注文する事に決めた。


注文するために周囲を見渡す。女性店員はレジで会計をしている。すると、カウンター越しに声をかけられた。


「注文がお決まりですか?」


先程カップルにパスタを提供していた男性店員だった。


「えーと、チキンソテーを。それに、バケットとミニサラダを付けてもらえますか?」


愛美が注文を告げると、男性店員が伝票に注文内容を書き込んだ。


「かしこまりました。」


男性店員はそう言うと、作業台の上に伝票を置いて、水を注いだグラスを愛美の前に置いた。そして、カウンターの向こう側で作業を開始した。



ガリガリとミルが胡椒を削る音がした。愛美はチキンソテーが出来上がるまでの間で助久の事を思う。


「やっぱり・・・悪い事したよね、私。」


部屋を出てくる時に見た助久の悲しそうな顔が頭から離れない。


キッチンから鶏肉を焼く音が聞こえ、鶏を焼く香りがし始めた。愛美はボーッとしながら男性店員の調理姿を目で追った。


愛美はボーッとしていたが、自分を肯定したい気持ちと、助久を理解してあげたい気持ちが葛藤し始めた。


今回の仕事も急に決まったんだから仕方ない。でも、仕方ないんだろうけど二人の事じゃん、私にも相談してほしかったな。助久はいつも事後報告なんだから。転職する時も、昇進した時も、資格を取った時も。いつも私は置いてけぼり。私って、助久の何なのかな。


「助久のお荷物になってるのかな。」


それは愛美が言われて一番嫌な言葉。その聞きたくない言葉が自分の口から出た。愛美は目を閉じて心を落ち着かせるように一つ息を吐いた。そして、これは馬鹿な考えなんだと首を横に振った。私の事を助久は家政婦だとは思っていない、そう否定したかったのかもしれない。


目を開けると男性店員がスプーンを使って、焼いている鶏肉に熱くなった油をかけていた。


愛美は水が入ったグラスを手に取って一口飲んだ。冷たい物が喉を通っていく感覚が心地良い。そして、待っているだけで手持ち無沙汰だったので、ポケットからスマートフォン取り出した。ホーム画面は変わりない。助久からの着信やメッセージを通知は何もなかった。彼は私を心配してくれているのだろうか、愛美は不安になった。


今は嫌なイメージしか湧いてこない。ネガティブになっているらしい。


愛美はスマートフォンでSNSを開いた。アップされているのは楽しそうだったり、幸せそうな写真や動画。今は見るに耐えない。すぐにSNSを閉じてしまった。再び深い溜め息が漏れる。


「おまたせしました。」


愛美の前に丸皿に盛り付けられたチキンソテーが置かれた。続けてミニサラダとバケットも。


「ごゆっくり。」


カウンター越しの男性店員はそれだけを告た。


手に持っているスマートフォンが震えた。だけど、愛美は画面を下向きにしてスマートフォンを置いた。


愛美は男性店員に感謝の言葉を伝えた。そして、いただきます、小声で言って合掌した。


彼と初めてこの店に来た時も注文したのはチキンソテーだった。それからはいつも同じ。これの味が愛美の好みに合っているのだ。


モモ肉の鶏皮がパリッと焼かれ、肉がとても柔らかく仕上がっている。横添になっているソースは刻んだトマトを使用したものだ。付けて食べるとトマトの甘みと少し効いた酸味がチキンソテーを食べやすくしてくれる。


ナイフで切り分けた鶏モモを口に運んだ。いつも通り美味しい。美味しいけれど、隣に助久がいない事でいつもより気分は上がってこない。


助久は食べるのが遅い私を優しい笑顔で待っていてくれる。助久はいつも黙って私の愚痴を聞いてくれる。助久は凹みやすい私をいつも励ましてくれる。助久はいつも私のために・・・。


チキンソテーを食べながら、頭の中は助久の事でいっぱいだった。


私は助久にいっぱい支えられている。たぶんこれからも。そんな私は彼に何かしてあげれているだろうか。


愛美は考えたけれど何も出てこない。


今回の事も私の我儘。私は彼からいつももらってばかりだ。二人の将来のために助久は頑張っているんだ。彼ともう一度話をしなきゃだよね。


愛美はチキンソテーを食べ終える頃には心を決めていた。そして、キッチンで別の注文の品を調理している男性店員に言った。


「ごちそう様でした。」


男性店員は愛美を見てわずかに頭を下げた。何も言わなかった。そんな男性店員を見て、愛美は入口近くのレジへ向かった。


会計を済ませて店を出た。


この時間、この辺の人通りは多くない。視力が落ちているのか星は見えない。それでも、次にしなければならない事は見えている。愛美の気持ちからモヤモヤしたものが消えていた。


まずは謝らなくちゃ、話はそれからだ。


愛美は謝罪の言葉を探しつつ帰路についた。いろいろな言葉が浮かんできた。けれど、そのどれもがしっくりこない。真っ直ぐに謝罪の言葉を告げれば助久なら分かってくれるだろうか。


愛美は助久に言うべき言葉を決めた。


「・・・愛美。」


不意に呼び止められた。この声の主を待っていたんだと思う。


振り返って声の主を見た。助久だ。何とも言えない表情をしている。愛美は嬉しい反面、どんな顔をしていいのか分からない。思わず目を反らした。二人の間に言葉の無い時間が流れた。愛美の口からは伝えると決めた謝罪の言葉はなかなか出てこない。助久も何か言いたそうだ。でも、愛美と同じく上手く言葉が出てこないらしい。


愛美は意を決して助久に一歩近寄った。そして、言うと決めた言葉を告げて頭を下げた。愛美が顔を上げると、助久は泣きそうな笑顔を愛美に向けた。

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