近藤里志 後編
ただ天井を眺めて時間を潰した。時計の秒針の刻む音をどれほど聞いていたのか分からない。
里志は力なく立ち上がったて、指輪が入った箱をテーブルに置いた。
佳奈の事が分からなくなっている。彼女の気持ちにまで理解が及んでいない証拠だ。今回のプロポーズ、佳奈も望んでくれているものとばかり思っていた。だけど、里志の独り善がりだったのだろうか。
まるで公式を習っていない問題を解けと言われたような、参考書資料も過去問も無い、答え合わせなんてできる訳もない、そんな感覚。こんな気持ちになったのは何時ぶりだろう。いや、初めてではなかろうか。
里志は溜め息を漏らした。
部屋に居たくなかった里志は外へ出る事にした。佳奈を探したい訳でも、後を追いたい訳ではない。たとえ、佳奈をすぐに見つける事ができても、今はどんな顔をして彼女と話せばいいのか分からない。だからって佳奈に会いたくない訳ではない。端に気まずいのだ。
街中を歩く。公園を、近くの学校の周りを、繁華街を、川沿いを、ショッピングモールも歩いた。目的も宛もない、散歩より徘徊に近いだろう。
会社の終業時刻から一時間が経過したこの時間、すれ違うのは疲れた顔をした人達と、幸せを絵に描いたようなカップルや家族連れ。一人で歩いている里志は、何だかバカにされているように感じた。それが被害妄想な事は分かっている。すれ違う人達から見れば里志なんて、ただの通行人でしかない。
どれくらいの時間を徘徊していたのだろう。不意にお腹の虫が鳴いた。里志自身に空腹感はない。だけど、里志が感じていないだけで体は食事を欲しているのだ。逆に言えば、里志は空腹を感じない程凹んでいるのだ。
空腹の時に里志が行くのは決まって近所のビストロ。よく行くけれど名前は覚えていない。
佳奈と付き合い始め、一人暮らしをし始めてから部屋に呼んだ時に二人で行った思い出の場所。佳奈と二人で月に数回は行く店。クリスマス、バレンタインの行事や記念日等でも利用している。二人にはなくてはならない場所になっていた。
家までの帰り道にそのビストロはある。佳奈と会わないか、ビクビクしながら歩く。店の前まで来たが、佳奈を見つける事はできなかった。内心ホッとしている自分に気付いて、佳奈に申し訳ない気分になった。
店のドアを開けると、鈴の音が鳴った。いつもは愛嬌のある小柄な女性が対応してくれるのだが、今日は店主と思われる男性が対応してくれた。
「一人ですけど、空いてますか?」
店内には空席がチラホラ見える。この店はお客さんがいない事はないが、満席になっている時を見たことはない。しかし、今は空席ってだけで、これから予約していた人が来店する可能性もある。
入口で聞くのはマナーって奴だろう。
店主は表情を変える事なくカウンターを指した。
「あちらへどうぞ。」
オープンキッチンのカウンター席へ案内された。椅子に座ると、メニューが差し出された。里志はお礼の言葉を告げて差し出されたメニューを受け取った。
里志はメニューに目を落す。何度も来ている店だ、食べる物なんていつも決まっている。店主だって分かっているだろう。だけど、今日は普段注文しない一品が気になって目を止めた。
ボロネーゼのタリアテッレ。
普段の里志は、パスタならば違う物を選ぶ。この店のボロネーゼは佳奈が好んで食べていたし、佳奈とこの店に来た時、彼女はいつも悩んだ末にボロネーゼを注文していた。だから、今日はボロネーゼに目が止まったのだろう。それに、佳奈と始めて来た時に注文した思い出深いパスタでもある。
里志は店主の姿を探した。レジ横に立っていた店主が里志を見た、軽く手を上げて合図する。
「お決まりですか?」
相変わらず無愛想な声で店主が言った。
「ボロネーゼ、それとグラスの赤を。それと、お水をいただけますか?」
店主は伝票に注文を書き込むと、注文を復唱してキッチンへ入った。オープンキッチンなので、店主の動きが見える。伝票ラックに伝票をつけ、冷蔵庫からワインのボトルを取り出した。
それを見た里志はメニューを脇に置いた。
里志は普段からお酒を飲むタイプではない。慣れていないせいもあるけど、自覚できる程お酒が弱い。それでも、今日はなんだか飲みたい気分だった。
里志は頬杖をついて溜め息を漏らした。ポケットに入っているスマートフォンが震えたけれど、今は見る気にはなれない。
ボーッとし始めてすぐ、赤ワインが注がれた脚の長いグラスが眼の前に置かれた。カウンター越しに店主が里志を見ていた。
「先に赤ワインです。」
店主が告げたのはそれだけだった。
里志はグラスの脚を持って一口飲んだ。癖がなくて非常に飲みやすい赤ワインだ。グラスを置くのと同時に店主がタイマーを押すのが見えた。パスタが出来上がるまでに今から数分かかるだろう。
それから二口、三口。赤ワインの香りを楽しんだ。ワインの良し悪しなんて分からないけれど、これならまた飲みたいと思わせる物だ。
一杯を飲みきる前にアルコールが回っていく。気分が良くなるのならばまだいい。しかし、今日の里志は変なツボにハマったらしく、気持のベクトルが下向き、気持ちがどんどん凹んでいった。
「ごめん・・・か、それだけ言われても。何も分からないよ。」
里志はカウンターに頬杖をついて呟いた。自然と深い溜め息が漏れる。里志の周りだけ空気が重くなっている。
カウンターに置かれたペッパーミルを眺めた。見ていたい訳でも、そのペッパーミルが面白い形をしていた訳ではない。ただ、ボーッとする際に目が止まっただけだ。
もし、彼女の口から続く言葉があったなら。何かを理解する事ができたかもしれない。
そもそも、佳奈は一目惚れだと言っていたけれど、それが本心なのかも分からない。なんで俺だったのか。あの娘が引く手数多なのは間違いない。他に男でもできていた可能性だってある。佳奈の性格上それはないだろう、そう信じていたことが良くなかったのか。いや、そう信じていたかったのだ。
自分のエゴを佳奈に押し付けていたと、罪悪感の沼にはまり始めた頃、里志の目の前にボロネーゼが置かれた。
「おまたせしました。」
店主の無愛想な声が聞こえた。視線をペッパーミルから店主の顔へ移す。彼は相変わらず無表情だった。
里志は小さく頭を下げた。少し頭がクラクラしている。
店主はニコリともせずに背を向けた。そして、淡々とした動きで使用したフライパンを洗い始めた。
白い皿に盛り付けられたボロネーゼを見た。タリアテッレとは平打のパスタ。よく煮込まれた牛ひき肉のソースの香りと、削りたてのブラックペッパーの香り、極めつけにチーズまで削りたて、それらの香りが合わさった非常に食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。
佳奈はいつもこの香りを嗅いでいたんだ。このパスタがきた時の佳奈の笑顔が思い出された。
里志はフォークを手にしてパスタをかき混ぜた。奇しくももそれは佳奈と同じ行動だった。パスタを混ぜ始めた途端、閉じ込められていた蒸気が立ち上る。
慣れない手付きでフォークに巻いたパスタを口に運んだ。味は知っている。美味しいのは間違いない。だけど、なんとなく味気なく感じられた。以前、佳奈と二人で食べた時はもっと美味しかったような気がする。その時と今と、何が違うのか、考えるまでもない。そう、近くに佳奈がいないんだ。
プロポーズを断られただけで、フラレた訳ではない。でも、ボロネーゼを味わう度に、佳奈との思い出が色褪せていくような気がした。
しかし、里志はボロネーゼを口に運ぶ手を止めることはしなかった。
佳奈の事を考えているせいだろうか、彼女との思い出は色褪せて感じたけれど、二人で作ったたくさんの思い出が溢れ出した。この店に来た時以外の思い出も。
目が潤んで胸が詰まる思いだった。その思い出と共にいつまでも堪能していたい味だった。
最後の一口を飲み込んだ後、溢れそうな涙を誤魔化すために、赤ワインを飲みつつ上を向いた。
グラスの中を喉に流し込んだ。空にしたゆっくり置いた。
カウンター越しに、無愛想な店主が里志を見ていた。里志は今できる精一杯の笑顔を作って一言告げた。
「ごちそう様でした。」
店主はわずかに頭を下げてレジへ向かった。里志も後を追うようにレジへ行く。そして、会計を済ませて外へ出た。
またボロネーゼを食べに来よう。今度は佳奈と一緒に。
そう思って一歩を踏み出した時、スマートフォンに着信があった。里志はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面には佳奈からのメッセージが記載されていた。それを見た里志は照れくさそうに鼻の頭をかいた。
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