思い出の味

田子錬二

近藤里志 前編

 ドアが閉まる音がした。一人残された近藤里志は力なくソファーに身を預けた。時計の秒針が動く音だけが聞こえている。


 なぜ、どうして、自問自答を繰り返してみるものの答えは出ない。でも、分かる事が一つだけある。


「そうか、フラレたのか。」


 右手に持った小さな箱を見た。この箱には指輪が入っている。七年付き合っている彼女、大塚佳奈に受け取ってもらうはずだった。だけど、里志の話を聞いた佳奈は短い言葉を残して部屋から出て行ってしまった。



 近藤里志はフリーランスのシステムエンジニアとして活動している。仕事がを始めてすぐに、自分には才能がない事が分かった。だけど、四苦八苦しつつ勉強を続けた。そして、フリーランスになって数年、少しづつ近藤里志の名前が業界の中で認知され始めた。それは、仕事が軌道に乗り始めた証拠でもある。


 里志は仕事に集中するあまり私生活を疎かにする傾向がある。これから更に頑張るならば、近くで支えてくれる人の存在が大切だと感じていた。仕事に没頭する里志の事を佳奈は時間が許す限り支えてくれた。


 佳奈だって自分の生活がある。彼女は普段飲食でアルバイトをしている。


 佳奈は美人店員として取り上げられた事があるほど器量良しだ。彼女目当てに来店するお客さんも少なくない。贔屓目に見てもバイト先でもモテるだろうし、街中でも声をかけられるだろう。


 人の目を引く顔立ちでスタイルも良い、料理上手で家事全般得意。まさに男にとって理想的な女性だ。


 正直な事を言えば、里志は佳奈が自分を選んだ理由が分からなかった。付き合いは大学の頃に始まったのだが、イケメンでコミュニケーション能力の高い男は多い。佳奈はそんな男達にだって人気があっただろう。


 佳奈にはその事を一度だけ聞いたことがある。すると、考えた末に答えた。


「里志の事を見た途端に運命を感じたから・・・じゃないかしら。」


 そう言った時の佳奈の笑顔は一生忘れる事はないだろう。里志は恥ずかしかった反面、もの凄く嬉しかった。


 里志は佳奈の気持ちに報いるために仕事に邁進してきた。そして、ようやく佳奈の気持ちに報いる時が来たのだ。だけど、里志の申し出は佳奈に断られてしまった。


 今は何も考える事ができそうにない。里志はぼんやりと天井を眺め続けた。


 すぐに追いかけるべきだったのだろう。だけど、仮に佳奈を見つけたとして、彼女にどんな言葉をかければ良かったのか、里志にはその答えが分からない。もっとも、今は立つ気力すら萎えてしまっている。自分の意志とは無関係に体は動きそうにない。



 今日は佳奈が休みだと聞いていたので、里志は彼女を部屋に招いた。数日前から胸の高鳴りが収まらなかった。遠足の前日の小学生みたいに眠れないなんて事はなかったが、常にソワソワしていたのを覚えている。


 今日の朝は仕事がなかったのにもかかわらず、里志が目を覚ましたのは5時半。まだ外だって薄暗かった。ソワソワして落ち着かない里志は、部屋を掃除したり、無意味に部屋の中をグルグル歩き回ったりしていた。


 用意した指輪だって何度確認したことか。


 これを購入したのは、始めて銀座の行った三日前のこと。目的地はジュエリーショップ。そして、店員さんと話しながら数ある指輪の中から選んだのは、それほど高くは無いけれど佳奈が好きなデザインの品。


 指輪を見ると成功のイメージが湧いてきて、気分が少し落ち着いた。


 準備は万端。後はこの指輪を渡してプロポーズするだけ。きっと佳奈も喜んでくれる。そして、プロポーズだって受けてくれるはずさ。


 里志はそう自分に言い聞かせた。


 約束の時間になり十数分が過ぎた。しかし、部屋の呼び鈴はならない。里志はスマートフォンを見たが、佳奈からの連絡は無かった。


 何かあったのかな・・・、心配になり、電話してみようかと考えた時に部屋の呼び鈴が鳴った。ドアを開けると佳奈がいた。


「ごめん。ちょっと遅くなっちゃった。」


「いいよ。昨日も忙しかったんでしょう?」


 そんな他愛のない言葉から会話が始まった。


 話をする佳奈は笑顔。彼女の笑顔は不思議だ。自然と周りの人を笑顔にしてしまう。それは里志だって例外ではない。話をしながら一緒に昼食を用意した。それを食べ終えると今度はコーヒーを入た。その後は二人で動画を見たりゲームをしたり。


 いつもと変わらないインドアなデートを楽しんだ。


 少し小腹が空くと佳奈が買ってきてくれたシュークリームを一緒に食べた。有名店のシュークリームではあるが、オーソドックスなカスタードシューだ。始めて食べたけれど非常に美味しかった。でも、一緒に食べる人が佳奈以外の人だったなら、このシュークリームもここまで美味しくは感じなかったかもしれない。


 里志は佳奈が近くに居てくれることが、やはり心地良いのだと思った。


 数時間が過ぎると外が暗くなり始めた。里志はカーテンを閉めて部屋の明かりをつけた。二人がソファーに並んで座った。


 会話が途切れた無言の時間。里志は意を決して話を切り出した。


「佳奈が付き合い始めて三年になる。」


 いささか重たい口調になってしまった。佳奈は何も言わずに里志を見た。里志の口調から何かを察したのだろう、表情が不安気だ。


「ようやく俺も最近になって仕事が軌道に乗り始めた。これから先も頑張るために。佳奈にはもっと近くで支えてほしいと思っている。」


 里志は一生懸命に言葉を紡いだ。自分がどんな顔をしているのか分からない。それに、この後に続けてなんて言ったのかも覚えていない。でも、鼓動の大きさが緊張具合を教えてくれる。


 最後に里志は最大限の想いをのせた一言を添えて、小さい箱の中を見せた。


「結婚しようか。」


 佳奈は目を見開いて両手で口を抑た。驚いた表情だ。感動した時や、嬉しくて言葉にできない時に出る仕草だ。佳奈は今までで一番いい顔をしている。


 言葉のない時間。里志は佳奈の返事を待った。すると、佳奈はなぜか俯いてしまった。里志は不穏なものを感じた。


「ごめん・・・。」


 佳奈はそれだけ告げると部屋から出て行ってしまった。

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