第7話
「ねぇ、金剛くん!」
声を掛けられて後ろを振り向くと、大分離れたところから走ってきたのか上遠野さんが苦しそうに息をしていた。
「峰岸先生から聞いたけど、退部届出したって本当?」
「え?うん、そうだけど……」
「何で?受験まではまだ早いし、今年も科学の甲子園目指すんでしょう?二年生までしか出場出来ないから、今年が最後なんだよ?」
科学の甲子園は高等学校等の生徒チームを対象として、理科・数学・情報における複数分野の競技を行う取り組みで、俺が通う緑皇高校は毎年のように出場していた。まず都道府県選考で都道府県代表校に選ばれると全国大会に進むことができる。全国大会では六人一チームで筆記競技、三人から四人で実技競技を行い、課題を分担や相談し、協力して成果を競い合う。そして各競技の成績点数の合計によって優勝チームが決定する。去年は全国大会まで進むも、上位三位にも入ることが出来なかった。
上遠野さんは科学部に入るために緑皇高校に入学したらしく、何となく科学部に入部した俺とは違い、一年生の時から気合が違った。文化祭で各々の研究成果を発表する際にも暗闇で光るスライムを作って披露していた。
「……甲子園もそうだし、文化祭もあるから金剛くんの知識も借りたいと思っていたのに」
「上遠野さん、科学部は俺以外にも岸田や瀬戸とか有望な二年がいるよ。俺がいなくなって彼らがいれば都道府県代表に選ばれると思う」
「―――金剛くんは、悔しくないの?こんな中途半端なところで投げ出して」
上遠野さんを見ると、その眼にはほのかに怒りの色が見受けられた。そうか、彼女からしたら俺は中途半端なのか。
「別に投げ出したわけじゃないよ。目下科学部よりも大事なものが見つかったってだけのことだよ」
「何よそれ……」
「上遠野さんにとっての科学部はもうすでに人生の一部で、そこから離れることは考えられないものになっているのと同時に、俺にもどうしても今やらないといけないことなんだよ」
上遠野さんは唇をかみしめて、こちらを恨めしそうに見つめている。何を言っても彼女の機嫌を損なうことにしかならないと悟り、俺はふうっと息を吐いた。そして、ポケットから四つ折りの紙を取り出して渡した。
「何、これ?」
「【惣菜の金剛】、今兄とお店をやっているんだ。この前作った店のチラシ。上遠野さんが来たらメンチカツ一個サービスするから、時間があったら寄ってみて」
「お惣菜屋さん……?」
「じゃあ、甲子園頑張って。文化祭は少し手伝えると思うから顔を出すよ」
俺は一息でそう言うとそこから離れた。少し後ろを振り向くと、上遠野さんが呆然とした様子でまだチラシを見つめていた。
学校から帰ってくると、調理場では兄がコロッケやメンチカツの準備をしていた。夕方四時から五時は惣菜屋のピークタイムで、一番揚げ物が出る時間帯でもある。
「あ、広見くん、おかえりなさい」
受け取りカウンターから後ろで一つに髪を結んだ女性が顔を出した。化粧気がなく、薄いピンクのリップだけひいているようだった。
「駒さん、もう大学終わったんですか?」
「今日は三限で終わりだから、すぐにこっちに来たの。私はサラダとか煮物とか用意しているから、広見くんは良知さんと揚げ物の準備をしてもらえる?」
「わかりました」
俺はすぐに焦げ茶色のエプロンをつけて、三角巾をつけた。母が置いて行ったものだ。念入りに手を洗うとアルコール消毒をして兄のいる調理場に足を踏み入れた。
「あ、広見、おかえり。帰ってきて早々に悪いね。たねをバッター液につけてパン粉をまぶしてもらえる?」
「いいよ」
兄はそこから離れ、油の準備をし始めた。時計を見るとそろそろ4時になりそうだった。時間的に急ピッチで揚げていかないとアツアツのコロッケやメンチカツを提供できない可能性が大いにある。
たねをバッター液にひたしてまんべんなく衣をまとわせる。以前、兄と試作中にたねの状態のコロッケを口にしたことがあったが、ただの芋の味しかなく美味しくなかった。これを170度の油で揚げるとあんなに美味しくなるというのが不思議でしょうがなかった。
じゅわー
兄がコロッケを揚げている油の音が聞こえてきた。内心は時間が差し迫ってきていて焦っているはずが、兄の後姿はとても楽しそうに見える。自身の采配で店を動かすというのは、大変だけどとても楽しい作業なのだろう。
兄の近くにいくつもの揚げたてのコロッケが網の上に置かれていく。出来立てを見越してか、近くの中学生が数人コロッケを注文していった。
「広見くん、コロッケ3つお願いします」
「了解です」
網の上にあった15個ほどのコロッケをバットに入れて渡すと、駒さんはショーケースに設置した。金剛像のイラストがプリントされた紙にコロッケを挟むと、中学生たちに渡した。中学生たちは印刷された金剛像に爆笑しながら去っていった。
「ありがとうございました」
カウンターの駒さんはきっちりと一人一人のお客さんに対して深々と一礼している。
「広見くん、このイラスト可愛いね」
「そのままじゃ全日本仏教会から苦言を呈されるかもしれないので、大分デフォルメしてみたんですけど……」
「インパクトって大事だからいいと思うよ」
駒さんはにっこりと笑いながらVサインを繰り出してきた。俺はいちを喜ぶべきかと思い、苦笑いを浮かべる。
駒さん―――手塚駒さんはポスターを指さして尋ねてきた。
「パートさん募集中って、まだ募集していますか?」
てっきりお客さんだと思っていた人から予想外の声を掛けられ、俺と兄はしばらく声が出せずにいた。
「え、あ、はい。まだ募集しています」
慌てて兄がそう答えると、女性はにっこりと笑みを浮かべた。
「じゃあ、ここで働かせてもらいたいので面接お願いできますか?」
「え、本当ですか?じゃあ、すみません、履歴書を持ってきていただいて明日とか大丈夫ですか?」
「分かりました。明日の午後一時頃にお伺いします。あ、その前に」
女性はショーケースを端から端まで見据えると、
「コロッケと、ほうれん草の白和え、一つずつお願いします」
そう注文した。
踵を返して女性が帰っていく後ろ姿を見ながら、多分俺と兄は同じことを考えていた。
「「あんな若い女性がうちで働いてくれるなんて!」」
声が揃い、互いの顔を見ながら思わず笑ってしまった。
次の日、学校から帰ってくると、兄は「明日から働いてもらうことになったよ」と報告してくれた。
駒さんはここから三駅先にある風栄堂大学に通う二年生らしく、最近こちらに引っ越してきて一人暮らしを始めたらしい。
「じゃあ生活費を稼ぐためにうちでバイトするってこと?時給安いのに」
「駅から20分くらい離れた場所に住んでいるから家賃が破格らしいよ。でも他にも駅前のファーストフードでも働いているらしい」
「へぇ……一人暮らしって大変だね」
駒さんは授業が休みの時は午前中と土日はファーストフードでバイトをし、授業が終わった後の夕方からはうちで働くことになった。二週間ぐらい兄さんと二人体制で店をまわしてみると、やはりお客さんが集中する夕方から夜にかけてはなかなか効率よくまわすことが出来なかった。駒さんが接客に入ってくれたことで、俺は中継ぎの立場に集中することが出来、お客さんを待たせずに惣菜を渡すことが出来た。
そして、駒さんはきりっとした眉毛に兄とそう変わらない長身の美人で、中学生男子や近所に住むおじちゃんを常連にしてしまうほど、求心力のある店員さんだった。
「三人体制が軌道に乗ってきたら、既存のメニューだけじゃなくて父さんみたいにまた新メニューを考案したりしたいなぁ」
「そうだね」
夕方七時、【惣菜の金剛】は閉店の準備をしていた。
「駒さん、お疲れ様」
「お疲れさまでした。今日は揚げ物だけじゃなくてサラダや煮物もたくさん出ましたね。また明日もよろしくお願いします」
駒さんは一礼するとそのまま夜の街へ出て行った。
俺がショーケース内を掃除していると、兄さんが調理場から慌てたように飛び出してきた。
「広見、駒さん、ハンカチを忘れて行っちゃったみたいなんだ。まだ、商店街内にいるんじゃないかな?」
「あ、じゃあ俺が届けてくるよ」
俺はハンカチを受け取ると、そのまま駅の方向に向かって駆け出した。
商店街の入口の方に、背中までの黒髪をなびかせて駒さんが歩いていた。仕事が終わったので解いたらしい。
「駒さ―――」
ハンカチを掲げて声を掛けようとした時、駒さんはくるりとこちらを振り返った。
その目には、涙が伝っていた。
悲しそうに、それでいてどこか恨みがましそうに商店街を見据えていた。
俺は掲げた手を下し、近くの電柱の陰に隠れた。声を掛けられる雰囲気ではなかった。
駒さんはしばらく微動だにせずに見つめていたが、涙を拭うことなくそのまま駅の方向へ歩いて行った。
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