第5話 turn
白い白い地獄の中、殺し合いが繰り広げられる空間の中で、この辺りだけがぽっかりと沈黙に支配されていた。
いや、よく見ると、辺りの殺し合いの図も止まっている。各々武器を手にしたまま、こちらを見て固まっている。
おい、あの新入り、また手練れを──うわ、気違いの短刀使いがいるぞ──でも、あれは殺されたってより──ざわざわ、ざわざわ。囁きが耳障りだ。というか、他人の師匠捕まえて気違いとはなんだ。まあ、戦闘狂なのは否定できないからそういう意味で狂っているっていうなら仕方ないけど、これ師匠に心読まれたら詰むから考えるのやーめよ。
しかし、また目立ってしまったなあ……
こちらとしては、好きでこの殺し合いに参加しているわけではないというのに、敵が増えるのは困る。敵にならないまでも、パンダじゃないんだからあまり注目を浴びたくない。まあ、今なら師匠が若干ハイの状態で全員砕器の錆にしてくれるかもだけど。
そう思い、溜め息を吐きそうになったそのとき──
「うあああああああああああああああっ!!」
一つの絶叫が、沈黙を切り裂いた。
びりびりと空気を震撼させるほどの雄叫び。誰もが微動だにせず、否、体が硬直して動くことができず、その場に立ち尽くす。その声だけで大抵の者たちは心をへし折られたことだろう。
絶対的強者の前に、己が身一つでできることなど無に等しいのだから。
などとゆっくり考えている間に、銀閃が胸を削ごうとしてくる。
「ぅおっと」
突然のことに変な声が零れる。
人狼が師匠を振り切り、こちらに襲いかかってきたのだ。
かんっ──
咄嗟に出した自分の砕器は妙な音を立てて切っ先を受け止める。
嫌な予感しかしないものの、現状把握を放棄するわけにもいかず、掲げた自分の手の中のものを見る。──黒い、棒。
「なんで元に戻ってるんだよ……!?」
その姿ではほぼ武器の役割を果たさない棒。まずい。これは実にまずい。いや、刀を受け止められている時点で相当に丈夫なようだけれど、安心材料にはならないからね。だって凄まじく音が軽い。
目の前には師匠が相手していたとはいえ、ぴんぴんしている元殺人犯。しかも愉快犯の気まであるというおまけつき。戦闘狂度合いなら師匠に引けを取らない。もう「師匠に引けを取らない」という字面だけで嫌だ。
「…………て、る……」
地を這うような声音。肌を刺し、空気を毒に変えるような怨嗟と殺気。鳥肌が立つ。嫌な汗が背を伝った。
「殺してやる……!」
明らかな殺意。
本当に、殺人犯だったんだな、とどこか呑気に実感する。殺意を剥き出しにすることに慣れている。殺し屋は基本暗殺なので殺気はもちろんのこと、その他諸々の感情、気配、呼吸音まで限りなく消さなければならないので、思い切り感情を発露するのは苦手分野だ。羨ましい。多分自分が呑気なのは基本仕様なのだと思うことにし、スルーする。
殺意という水を得た魚──呼び名は人狼だが──は、ぎらついた目をこちらに向け、力任せに刃を振り抜く。
力任せの攻撃を捩じ伏せる術は生前、いくつも覚えていたはずだが、それらを逆に捩じ伏せんばかりの力。おいおい冗談はよし子ちゃんなんて軽口を叩く余裕すらない。
何せこちらはほぼ無手と変わりない。黒い棒の砕器が刃の受け止め役としてかろうじて機能してくれているが、元々が短いこの砕器。持ち手とできる部分が短い上に受け止めるのに使える部分も短いときた。受け止めるにも神経を使う。一歩間違えば、頭が真っ二つだ。全くもって笑えない。
更に笑えないことに、観衆たちもこちらの手が塞がっている今が好機とばかりにじりじり寄ってくる。
さすがにその他大勢にやられるのは嫌だ。そもそもの話、輪廻転生とかはどうでもいいんだけど、生存本能は残っているわけで、死にたくはないんですよね。いやいや、そんなことを考えている場合か? ──自分の呑気思考を叱責しつつ、どう切り抜けようか、真剣に考え始めると──
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇっ!!」
怨嗟のような声が降り注ぎ、がちがちと鍔迫り合いしていたちっぽけな黒い砕器を振り払う。吹き飛ばされ、なんとか踏み止まって、ほう、と息を吐く。足首に鈍痛。ちょっと捻ったかな。現状把握するついでに辺りを見ると、皆輪の中央にいる人の姿をした狼に恐れおののき、腰を抜かしていた。中には泡を吹いて倒れている者までいる。殺気だけで倒れるなんて、よくこの世界で生き延びたな、などと再び呑気思考に陥りつつ、人狼に向き直った。
本物の狼さながらの無機質で無差別な殺気が全身から溢れていた。狼と違うのはそれが生存本能から来る所謂火事場の馬鹿力というやつでもないこと。純粋な憎悪から来る殺意だ。威嚇とかそういうレベルのものではない。
ちら、と視界の隅にレイの姿が映る。意外なことに平静を保っていた。さすがは天使、ということか。
慣れだとしたら、怖いけれど。
「殺す、ねえ」
気を取り直して人狼を見据える。
「殺してやる!!」
人狼が吠える。鼓膜破れるかと思って耳を思わず塞いでしまった。
そんな、叫ばなくてもその意気は充分に伝わっているから結構なことなんだけど。
それに微笑んで答えた。
「じゃあ、やってみてよ」
冷めた眼差しを送りながら。
「殺れるもんなら、ね」
ぷつん。
音を立てて何かが切れたのがわかった。
人狼が向かってくる。
溜め息を吐きたい気分だ。
沈黙は数秒と保たず、開戦の図へと切り替わった。
かんっ、かんっ、かんっ!
刀と謎物質の黒い棒がぶつかり合う奇妙な音がその場を支配している。
ちなみに周りにいたその他大勢の皆さんは師匠が丁重に弔っている最中だ。頸動脈や脇など太い血管のあるところ切って失血及びショック死させるのはわかるんだけど、どうやったらあの短いナイフで足切り落とせるんですかね。やっぱり師匠が一番怖い。
他にも大腿部を突き刺したり、アキレス腱切ったり、目玉抉り出したりとだいぶエグい殺り方をしている。師匠の短刀の柄はぐちゃぐちゃになるのだが、握りにくくなるたびに死人の服で拭っているの、臨機応変というか、見習うべきではないんだろうけど尊敬する。
「おい、そこの黒翼の、突っ立って見てないでこっちを手伝え」
などとレイに訴えている。
「申し訳ないですけど、僕は殺し合いには不干渉でいなくちゃならないんです。頑張ってくださいね、師匠さん」
「チッ」
師匠の盛大な舌打ち。なかなか目が本気で怖いのだが、レイは気にも留めていないあたり、かなり大物だ。呑気にこちらを観戦する構え。
いや、観戦って……見世物じゃないんだけど。
まあ、かたや[人狼]と恐れられた殺人鬼、かたや冷酷な[天使]として名を馳せた殺し屋。そんな二人の対決は、見る人が見れば見世物でしかないか、と若干諦めた。地下闘技場とかだったら、金がばんばん飛び交っているところだろうな、なんて妄想を膨らませる余裕はないので止めた。
まず、目の前の敵だ。
「貴様」
ゆらり、と幻覚の炎が見えるほど明確な憤怒と憎悪に彩られた人狼はいつもどこか柔らかだった黒兎とは似ても似つかぬような気がする。殺気が成せる業だろうか。
かんっ
「くぅっ」
一撃が重い。
その上こちらの武器は明らかにリーチが短い。──リーチ勝負な相手が多いのも気になるが、とにかく武器の体を成していない武器で戦っているこの状況はどうにかしなくては。
既に手が痺れて感覚が鈍ってきている。それなのに衝撃は確かな痛みを伴ってくるから質が悪い。
人狼は本気だからなのだろう。刀の柄を両手で握っている。片手でぶん回して人を殺せるようなやつが、両手分の力を込めているのだ。一撃が重いのは当たり前。おまけに体力お化けらしく、叫びながらなのに一切息切れの様子がない。
対する自分は手が痺れてきて砕器を握るだけで精一杯だ。人狼の殺気と目線の飛ばし方が単純でなければ、指の数本、いや、片手が吹っ飛んでいるところだろう。砕器を形成する謎物質は都合よく衝撃を和らげてはくれない。
が、痛みがだんだんと頭を冷静に戻していく。意外と動揺していたんだな、先刻の殺気に、とぼんやり思う一方で、思考を巡らす。
その間も攻撃がやむことはない。かんっ、かんっ、という音が響き渡る。攻撃はほぼぶれず、こちらから見て左からの袈裟斬りしかこないので、さばきやすいと言えば、さばきやすいのだが、問題はそれがひっきりなしに続くということだ。
持つ手を変えられれば、いくらか好機を作れるのだが──持つ手?
ふと浮かんだ武器。それは間合いの問題をも解決し、そして、様々な意味で相手に効果的なものだった。
同時に、武器があの瞬間に切り替わったことにも得心がいく。
そう、あの武器は、あそこで終わり。あの人の思いを断つという、最大の目的を果たしたのだから。
この人の思いは、別な武器で──この武器で、断つ。
心に定めた武器を思い描き、目を開ける。
ちょうど、人狼が刃を振り下ろすタイミングだった。
それはまたとないタイミングだった。
カキィンッ
今度は金属と謎物質の奏でるどこか気の抜ける音ではない。金属同士が響かせる、涼やかな音。
「なっ……!」
さて、人狼は何度目の絶句だろうか。
ひい、ふう、みい……呑気思考で考える。どうやら治りそうにない。
それはいい。
久方ぶりに武器を弾いた気がする。少し気持ちいいな。──と、そんな気持ちに浸りたいところだが、せっかく取れた隙、生かせるうちに生かさなくては。
パァン
手の内で鈍く黒光りする物体は武器の形を成しており、かちゃり、と握り直せば音がする。それは黒兎が使っていたのと同じ拳銃だ。
人狼の手元を狙い、引き金を引いた。
柄に当たってびん、と鋭い衝撃をもたらした弾は、人狼にこそ当たらなかったが、武器を取り落とさせることに成功した。うーん、射撃は昔から下手っぴなのは変わってないなあ。
すかさず駆け寄り、地面に落ちた刀を蹴飛ばす。一足飛びで人狼に接近し、銃口部分に持ち替えて、グリップ部分でこめかみを殴りつける。
ごっ
鈍い音がする。
「おーい、拳銃の使い方、間違ってるぞー」
その他大勢の処理が終わったらしい師匠からの突っ込みは敢えて無視する。恨まないでくださいね、と心の中で祈りつつ。
痛撃を避けることもできずにいた人狼は微かな呻きを上げた後、そのまま地面に倒れ伏す。
ほぅ、と一息吐き、念のため距離を取る。
「おい、何故生かしている?」
師匠が険しい表情で近づいてくる。
「何故って……まだ訊きたいことがあるからです。いけませんか?」
平然として答えたが、師匠の言いたいことはわかっている。
「そうやって中途半端に生かしておけば、またお前にかかってくるぞ。そのときは殺られるかもしれない」
師匠が危惧することはそれだ。殺し屋としての教えでもある。[標的に情けをかけるな。殺れるときに殺っておけ]
これは師匠だけに限らず、殺し屋全員の鉄則。それができないなら、殺し屋と名乗るな、と言われるほどだ。
それはわかっている。
その意を込めて、師匠に真っ直ぐ視線を送る。師匠も見つめ返してきて、しばらくの見つめ合いに。
やがて、視線を外したのは師匠の方だった。
「わかっているならいい。せめて大腿部くらい撃ち抜けばいいとも思うが……そうまでしてこの復讐鬼に問いたいこととは何だ?」
その答えは、用意していた。
「何のために、戦うか、です」
師匠は訝しげに眉をひそめる。
「何のため? そんなこと知ってどうする?」
「知りたいだけです」
間髪入れずに答えると、師匠は呆れまじりの溜め息を吐いた。
「意味などないだろうに」
「そうですね、でも」
ずっと、引っ掛かっているのだ。
腹違いの弟のため、たった一人の兄弟のため──誰かのために戦い続ける彼らを
「理解したいんです」
生きるために、生かすために、戦う者を殺すのなら。
せめて、その遺志を理解したいのだ──
それができなくて生前は、後悔ばかりだったから。
「働き者だね」
また蘇る親友の言葉。
「君は笑顔なのに、無機質に、淡々と、与えられた仕事をこなしていくんだ。本当に、神の命に忠実な、天使みたい」
そういう親友の声も乾いていて、熱を感じない。
「だから──」
その先はまだ思い出せていない。
けれど確か、このあと親友と、悲しい別れ方をしたはずだ。互いの思いを知らなかったせいだと思い知り、こうまでも人の願いに拘る──
こんなことをしても、もう親友との関係が戻ってくることはないのに。
「お前……」
師匠も何か思うところがあったのか、黙り込んだ。
「ねえ、僕から質問、いい?」
沈黙が支配しかけたその場で、蚊帳の外だったレイが切り出す。
師匠と視線を交わし、互いに頷くと、レイに向き直り、視線で先を促した。
じゃあ、訊くね、と一言置いて、すぅ、と息を吸うと、問いを放った。
「君は、何のために戦い続けるの?」
咄嗟に言葉が出なかったのは、こちらを見るその瞳があまりに透明で美しかったから──なんて、気障な誤魔化しを過らせながら、苦笑した。
「そういえば、ない」
戦う理由なんて。
それが、答えだった。
死にたくて死んで、ここに来た。来たかったわけではないし、戦いたかったわけでもない。殺し合いを楽しむ自分がいることは自覚しているが、楽しみたいわけでもない。殺し屋は殺し屋。愉快犯ではないのだから。
そうやって突き詰めていくと、確かにないのだ。戦う理由なんて。生き残る理由なんて。生まれ変わる理由なんて。
生きたくなくて、死んだから。
じゃあ、どうしてここで殺し合いの地獄絵図を描き続ける? この期に及んで死にたくないからなんて言い出すのか? ──そこまで阿呆なつもりはない。
「わからない」
何故、ここにいるのだろう。
「ここにいる人々は様々さ」
レイが、初めて会ったときのような説明を始める。
「鎖鎌の少女のように、波乱に満ちた人生を歩んだ者もいれば、凄腕の殺し屋なのに、不慮の事故で死んだ銃士のような人物もいる。今そこで寝ている剣士みたいに罪を裁かれる直前で死んだ者、果ては数えきれないほど人を殺しながら、天寿を全うすることを許された短刀使いのような人間までいる。あらゆる視点から見て、ここは世界の理不尽の具現だよ」
人殺しの割合が多い気がするが。
「言ったろ? 様々いるって。人を殺すどころか、虫だって潰せないような女の子もいる。その子は強盗に殺されたんだったかな。生前、殺人を犯したことのない人は、呆気なく淘汰されているだけで、最初はたくさんいたよ。抗う術もなく、殺されてきた人間は」
ふと、先に人狼の殺気に倒れた人々を思い出す。──もしかしたらあの人たちは、本当は人殺しなどしたことはなくて、ずっと隠れてやり過ごしていたのかもしれない。平和な日常に唐突に訪れた自らの死と、死が訪れたにも拘らず、襲いくる恐怖が決壊しただけなのかもしれない。
「今はもう、一握りしか生きちゃいないけどね。──輪廻転生を巡るこの戦いも、終わりが近い。
だからね、ここを見つめ続けるっていう役目を任された僕は、一度確認しておきたいんだ。生き残りたい理由を──生き返りたいわけを」
そこまで一気に語ると、ふわりとレイは微笑んだ。
「もうすぐ、この世界は終わるから」
悲しげで、儚げで、痛ましげな、笑み。
その顔が一瞬、親友のそれとだぶる。
つきん、と頭から背中へ突き抜ける鈍い痛みがあった。
それが記憶が戻る予兆であることは、すぐにわかった。
だから、ただひたすら祈った。
もう、思い出したくない。やめて。戻らないで。もう戻らなくていいから。もう戻れなくていいから。もう、死んでいるんだから。
苛まないで──
「憐れだな。──こんなやつに兄貴が殺されたなんて」
その声に無言で銃口を上げた。有無も言わせず、額にかしゃりと突き付ける。
相手は動じる様子もなく、淡々と、しかし人並み外れた敵意と殺意は剥き出しに、告げた。
「やっぱり、殺らずにはいられねぇ」
表情は先程より落ち着いて見えるが、殺気は遥かに膨れ上がっている。熱くたぎる、殺意。触れただけで、焼き尽くされそうな。
「そう、だね」
柔らかく微笑んで答える。
いつだって場違いで間違った応答をしている。
戦いを求めているわけではない。──そう言いながら、戦いを避けようともしない行動と言動。
一番暴れ馬な鹿なのは、自分だよ。
心の中で呟きながら、
引き金を引いた。
パンッ
白い空間に銃声が谺する。
しかしそれは確かに捉えていたはずの標的を貫くことなく、空を切る。
「ははっ」
思わず笑ってしまう。
銃口は額に当てていた。もう逃げ場などない、そう確信を持つのは当然と言える場面で、人狼は避けた。
零距離の射撃を、こちらの挙動だけでタイミングを測り、避けたのだ。零距離だよ? 信じらんない。
「他人がやったときはやたら驚いてた割に、自分もあっさりやるし」
「てめえに勝つためだ」
しゃがんで避けた態勢から、人狼は斬り上げる。慌てて距離を取るが、服がはらりと切れた。
「俺はなあ、てめえを絶対に殺すって決めたんだ」
距離を取ろうと退くが、人狼は一足ですぐに詰めてしまう。その突撃に迷いなど微塵もない。こちらの飛び道具など、眼中にないのだ。
「俺が兄貴にどれだけ会いたかったと思ってる」
低く、呪うように。
「会えて、どれだけ嬉しかったと思ってる」
祈るように。
「どれだけ救われたと思ってる!?」
激情の下、放たれた言の葉とともに、切っ先が突き出される。
身を捻って避けながら、思い至る。
犯罪者として捕まり、牢の中でその短い生を終えた人狼。
数多の人間を殺してきた罪は重く、外部との面会時間などろくになかったに違いない。その上、人を殺すことに快感を覚える愉快犯罪者。精神病棟行きでもおかしくない人物だ。
ましてや、たった一人の兄は殺し屋。警察に足を踏み入れるなど、もっての外だ。
ただ一人の兄を守るために、実の親に手をかけ、壊れ、狂い、関係のないたくさんの人々を殺してきた弟の支えは、兄以外にない。けれど、会えない──それが、どれほどの苦しみか、完全には理解できないだろう。
けれどきっとこちらに向けられる呪詛のような叫びが祈りに聞こえるのは、それだけ兄を思っていた、ということなのだ。
だからこそ、断たなくては。
その覚悟なくしては勝てない。
非情に、冷酷に。
譬、人でなしと蔑まれても──
「あはは」
「何がおかしい!!」
突然笑い出したのを聞き咎め、射抜かんばかりの目で人狼が睨んでくる。
ごめんごめん、と悪びれもせずに答える。
気づいてしまったのだ。
「働き者だね」
結局、[天使]なのだ、と。無意識に思うほど、[天使]としての自分は浸透していたのだ、と。
「殺ればいいさ。簡単に倒れてはやらないけど」
死にたかった思い出を忘れて、どうでもいいことばかり思い出す。
どこまで行っても逃げられないのは、むしろこっちだ。
パァン
引き金を、引く。
銃弾が人狼の頬を掠めた。
その頬に紅い筋が走るのを、凪いだ気持ちで見つめる。
「っ──やっぱ、てめえは気に入らねえ!!」
「獲物に気に入られてもね」
乾ききった声が零れる。紡いだ言葉は風に乗ってきた砂を噛んだような、ざりざりという不快感で苛んでくる。
「軽口ばかりぼざきやがって」
嫌だ。
「兄貴の願いには薄々気がついていた。でも!」
聞きたくない。耳を塞ごう。
パンッ、キィン──
銃弾は即座に斬り捨てられる。
「それでも俺は、俺の願いを叶えたかった! だから今まで、兄貴と一緒に戦ってきたんだ」
「へえ」
人狼の言に反応したのはレイだった。
「気になるなあ、君の願い。よかったら教えてくれない? 僕、状況に置いてかれ気味でわかんないからさ。僕、結構気になってたんだよね。復讐者の気持ちって」
その隙に、そっと心の耳を閉ざす。
「言われなくても言うさ──俺は」
研ぎ澄まされた一閃は、熱を持たない刃の輝きとともに振りかざされる。
大丈夫、もう。
何も、聞こえない。
「俺は、本当は、兄貴を生き返らせてやりたかった……っ!」
「そう」
がちっ
砕器が奇妙な音を立てて刃を受け止める。しかしこれは先程のような予想外の事態ではない。
砕器は元の黒い棒に戻っていた。
そして、先程は起こらなかった事態が発生している。
砕器に刃が食い込んでいるのだ。──砕器は鋼の刃を弾く丈夫な謎物質ではなく、木材のような脆い物質に変わったのだ。
完全に虚をつかれた人狼の隙を突き、砕器を振り回して乱暴に得物を取り上げる。
からん、と乾いた音を立てて砕器から外れた刀が落ちる。咄嗟にそれを取り戻そうと動いた人狼の鳩尾に膝蹴りを一発叩き込む。
「かはっ」
「もういい。死になよ」
バァン──
耳をやく轟音が、白い地獄に響き渡った。
「……何故」
低い問いが耳朶を打つ。
「何故、外した?」
それは、人狼からの問い。撃ったはずの、人狼からの問い。
人狼は、生きていた。銃弾は人狼の眉間を貫かず、軽くこめかみを抉るだけに止まった。それでも充分に重傷だ。どくどくと流れる血液がそれを物語っているが、人狼はものともしていない様子だ。
放った銃弾は、逸れた。いや──当たらなかった。
そう、相手のこめかみを抉っただけ。
だめ、だった。
大丈夫なわけ、なかった。
「天使に、戻りたくなかった」
ぽつりと零れた一言。
それが全てだった。
「天使になりたくなかった」
ぽつり、ぽつり。
倒れた人狼の上に雨が降り注ぐ。人狼がこちらを見て、不思議そうな顔をする。初めて見た、殺気のない表情。けれど、雨に滲んでよく見えない。
「天使、お前も」
「五月蝿い、撃つよ」
「泣くんだな」
脅しを完全に無視して、人狼は言い切った。
けれど、引き金を引こうとはしなかった。──人狼も、こちらに引く気がないのを呼んだ上でだったのだろう。
引けるわけがない。[天使]になりたくないのだから。
「兄貴が、こんなやつに殺されて、悔しいよ……お前が噂どおり、無情な天使なら、どれだけよかったか」
雨が人狼の頬を濡らす。
もう、はっきりと見える。けれども、雨は止まない。
「こんなやつに俺が負けるのも、悔しいっ!!」
ぎりっ、と歯軋りの不快な音が響く。濡れた顔にはもう殺意など残っていはしない。
「兄弟して、おんなじ考えだったんだね」
妙に明るいレイの声が掛かる。
「兄は弟のために、弟は兄のために、この世界で生き残ることを諦めた」
「諦めたんじゃねぇよ」
いささか覇気を欠いた声で──しかしながら、はっきりと人狼が反論する。
「戦ったんだ。守るために、生かすために」
「ははっ」
左右の三編みを揺らしてレイが笑う。
「面白いね。殺人鬼だった君たちが、人を殺すしかできなかった君たちが、この殺し合いの地獄絵図の中で──互いを生かすために戦っていた、なんて」
「違うね」
人狼は憐れむような視線を黒翼の天使に向けて、真っ直ぐ言った。
「俺も兄貴も、ずっとそうやって戦ってきた。武器を手にしたあの日から、俺は兄貴のために、殺した。兄貴はどうだったか断言はできないけど、きっと、同じだ」
「充分断言してるじゃない」
「お前に何がわかる?」
その言葉に、最初口にしたときのような激しさは残っていなかった。あるのは静かでどこか誇らしげな微笑みだけ。
「お前に何がわかるよ? 異端だと周囲から爪弾きにされても、すがれるものがなかったお前に、この救いの意味が、わかるかよ」
よろよろと人狼の腕がレイの翼に伸びる。レイがはっとして、じりりと退いた。ふわり、と一羽根が舞い落ち、人狼はその羽根を掴まえた。
黒い羽根。宝石のように煌めく羽根はとても美しいが、異端とはどういうことだろうか? そういえば、黒兎も似たようなことを言っていた。
けれども、今はそれを訊くときではない。
「ねぇ、人狼。救われたかった? 黒兎と一緒に帰りたかった?」
口に乗せた疑問に、問われた人狼が苦笑する。過去形かよ、と。
「全く、意地の悪い天使ばかりだな。さすがは地獄」
「輪廻の道だってば」
「変わりないだろ」
一蹴される。
レイが面白がって笑っている。ちょっといらっとするが、それは後だ。
人狼が問いに答える。
「俺は、兄貴と一緒なら、どこでもいいさ。天国だろうと地獄だろうと、元の世界だろうと」
つきん、と胸が痛んだ。
人狼は続ける。
「俺にとっては兄貴が救いさ。だからもう、救われてる」
「そう」
パァン……
やけに物悲しく、その音は響いた。
人の形をしていた狼が、事切れた。
その口端には殺人への愉悦など一切ない──純粋な笑みが浮かんでいた。
「次は、幸せに」
その兄が言ったのと同じ台詞を口にして、彼を静かに見送った。
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