第4話 quiet《後》

 その一言に、場の空気が凍りつく。

「し、師匠だって……?」

「え、うん」

 何かおかしかっただろうか。

「何か色々納得した」

 絶句していた黒兎がぽつりと呟き、頷く。人狼は兄貴? と不安げに見やる。師匠に羽交い締めにされたままだが、刀を握る手の力を緩めようとはしない。

「この人の弟子だったっていうんなら、強いわけだよ。敵うわけない。刀を退いて」

 弟を真っ直ぐ見つめ返し、黒兎は訴えた。

 人狼は葛藤しつつも、刃を収めた。刀身に先程の黒い鞘が現れる。兄に逆らう気はないらしい。

 さて、思わぬ師匠の登場で色々助かってしまったけれど、疑問は多々ある。最たるはこれだ。

「ところで、師匠は何故ここに?」

「愚問だな、我が弟子よ。面白そうなことが始まりそうだったからに決まっている」

 そういう意味以外もあるんだけどな……

「死んでも相変わらずのようですね」

 師匠のあっさりした一言に溜め息しか出ない。

 そういう人だとは生前からわかっていたことだけど、[面白いかどうか]という観点でしか動かないのだ、この人は。

「見世物じゃないですよ。でもまあ、そこの人狼の相手をしてくれるんなら、非常に助かります」

「心得た。話を続けろ」

 師匠が素直で正直ぞっとした。生前、師弟ということで[上下関係]というものをこれでもかと叩き込まれた。天上天下唯我独尊のような性格の師匠は師匠である自分こそが絶対的に上位の存在で、師と仰ぐ以上、妙な口答えは許さぬ、余計な指図も生意気として締める、というような人だった。ちょっとのナマも許さず、生意気を言った日には体力が尽きようと、足ががたがたになろうと本当に立てなくなるまで、この戦闘狂の相手を延々とさせられた。忘れていたのが信じられないくらい脳髄や脊髄に刻み込まれた記憶である。それが素直に指示を聞いた? もしかしたら輪廻転生のための殺し合いとかやっているうちに元の世界が滅びるのではなかろうか、というくらいの事象だ。

 とはいえ、話の続きは個人的にも気になるところだ。黒兎に先を促す。

 黒兎は微かに笑み、ゆっくりと目を閉じて穏やかに話し始めた。

「弟が親をずたずたに切り裂いたと察したとき、僕は、嬉しかった。やっと、終わったんだ、と。追われる日々が終わったんだ。

 [悪魔狩り]は僕らの親が中心になっていたからね。あとの大人は腰抜けばかり。誰かの指示なしには動けない人たちばかりだったから。僕は安心したんだ」

 でも、と黒兎が続けようとすると

「兄貴、これで全てだ。ここで終わりだろう? 俺はそれから、殺しの愉しさに酔って、殺して殺して殺して、殺人犯として捕まって、投獄中に重病を患い、獄中死した。

 兄貴は施設に入ったけれども、普通に学校に通って、大人になって、普通の生活を送って生きた。事故のせいで早死にだったけど」

 必死にそう訴えた。師匠の手から逃れようともがきながら。

 しかし、話には違和感がありすぎた。

「普通? じゃあ、どうして黒兎なんだ?」

 黒兎は殺し屋だろうに。殺し屋というのが普通だと主張するのなら、なかなかスパイスの効いたジョークだ。

 と、あまりにも軽い調子で言ったせいか、拘束がなければ今にも噛みついてきそうな鋭さで人狼がこちらを睨んでくる。

「五月蝿いっ! お前に何がわかる!?」

「そりゃまあ、何もわからないけど」

 噛みつきそうな勢いでがなる弟にアメリカンなお手上げポーズを返してみる。師匠もがっしり締め付けたまま肩を竦めるという器用なことをして、こちらに同意した。

 どうも、人狼は何かを隠したがっているようだ。微塵も興味がない……というと嘘になる。他人の秘密を暴きたくなるのは人の性だ。そして、殺し屋をやったり、自殺したりする輩は大抵ひねくれた精神性をしているから、その秘密がそいつにとって地雷であればあるほど、踏み抜き、起爆したいと思ってしまう。師匠もそれに違わない。人狼を締める手をきつくしながら、悪い顔をしている。

 どういじめてやろうか、と弱者を踏みにじろうと舌舐りする獣の顔だ。美人がやっているので目の保養になってしまう。

 若い姿の師匠、顔がいいなー、と呑気なことを考えていると、黒兎はと、と一歩前に出た。

「もう、いいんだ」

 黒兎が静かに言った。少しずつ、弟の方へ歩み寄る。そこに浮かぶ表情は慈愛に満ちた母親のようだ。そちらを見ると、黒兎はその紅い瞳を悲しげに歪めて、告げる。

「もう、いいんだ。思い出したんだ。いや──ずっと、わかっていたんだ。現実を認めたくなくて、目を反らし続けていただけ。お前が救ってくれたんだ、と思うことで、絆にすがることで、僕は僕であることを保とうとしていたんだ」

「どういうこと?」

 黒兎の物言いが抽象的で、理解が及ばない。どうやら、先の弟の言を捕捉しているようだが。

「僕が殺したんだ。父さんと母さんを」

「……はい?」

 思わず首を傾げる。だって、辻褄が合わない。──両親を殺したのは弟ではないのか?

 師匠を見ると、面白がっているような笑みこそなくなっているけれど、なんだか悟りきった表情をしている。

「何、疑問符なんて浮かべているのだ、我が弟子よ」

「だって、おかしいじゃないですか。前後で言ってることが食い違ってますよ」

「ふむ。では、黒兎は何と言った?」

「ええと、[弟が自分を救ってくれた]と。[仕舞われていたはずの刀を血塗れにしていた]──あ」

「気がついたか」

 一言も、弟が殺したとは断言していない。

「まあ、弟が殺った状態のまま放置していれば、[弟が殺した]でも間違いはないが。──要は、止めを刺したんだろう?」

「ええ」

 黒兎はいたって平然と頷く。対照的に人狼はびくんと肩を跳ねさせ、青ざめている。

「何をそんなに恐れているのだ? 人狼よ」

 女とは思えぬほどしっかり締め上げたまま、師匠が問う。人狼がぞくりと身震いしたのは、息が耳にかかったからというだけではないようだ。わなわなと唇も震えている。何かを紡ごうとしては失敗して、声を出せなくなっている。

「もう、いいんだよ。君が狼である必要はなくなったんだ」

 かつかつかつ。黒兎の紅い瞳が人狼に優しく語りかける。黒兎は師匠のテリトリーに躊躇なく踏み入り、弟に眼差しを向ける。人狼は茶色い瞳をゆらゆらと上げた。

 紅と茶色が交錯する。

 紅は柔らかく、

「人に戻って、人狼」

 茶色に宿る獣の光を拒絶した。


「今度は僕が君を守る、獣になるから」


 バァンッ──


 銃声が、谺する。

 信じられないものを目にした。

「師匠……?」

 がっしりと人狼を羽交い締めにしていた師匠の肩から、紅が──黒兎の瞳と同じ色が噴き出していた。


「し、しょう……?」

 信じられない。

 黒兎の射程範囲内だったのはずっとのことで、師匠はそれを承知した上で、黒兎の弟という盾を手にしていた。あそこまで近づいた黒兎は確実に師匠の間合いの中だった。自分の間合いで、師匠が反撃もせず、撃たれるはずがない。

 肩を撃ち抜かれた師匠の緩んだ手を振り払い、そこから脱する人狼。人狼は迷いなく逃れたものの、戸惑い顔だ。

 師匠は肩口を押さえ、とさりと崩れる。無表情で止血を始めた。その姿に違和感を拭えない。

 師匠の肩を貫いた凶弾を放った人物を見る。まだ硝煙の上がる銃口を真っ直ぐ定めたまま、黒兎が立っている。

 その銃口は既に、師匠から外れ、真っ直ぐこちらを向いていた。

「どういうつもりかな?」

 どうにか動揺を拭い去り、黒兎を見つめ返す。

「決まっているじゃないか。君を殺す」

「さっき勝てないって言ってなかった?」

「減らず口だね。今の君になら負ける気がしない」

 断言され、内心苦笑いする。隠せなかった動揺を弱みと見なされてしまったのだろう。

 師匠がやられるとは思わなかったから、結構情けない声を出してしまった。

「ふっ、これしきで動じるとは、まだまだだな、弟子よ」

 いつも通りの調子だが、声に覇気がない師匠が立ち上がる。

「師匠、大丈夫ですか?」

「これしきで私が倒れるとでも? 耄碌したな、弟子よ。というかそもそもお前が言ったんだぞ? [師匠は殺しても死にそうにないですね]と」

 覚えていないが、確かに不敵に笑い、何事もなかったかのように立ち上がる師匠は殺しても死にそうにない。

「では、引き続き、人狼の相手をお願いします」

「さすがに人使いが荒くないか、弟子よ」

「殺しても死にそうにない人が言いますか」

 軽口を叩きつつ、黒兎と対峙する。

「どういう心境の変化?」

 先程の攻撃について再度問い直す。黒兎の紅い瞳は揺らぐことなくこちらを射抜く。

「もう、いいんだ。僕は、弟を守る。そのために、君を殺す」

「うん」


 バァッキィン──


 銃声と凶弾を弾く音がほとんど同時に響く。近すぎて耳がイカれそうだが、この際これは気にしない。音が聞こえなくなっても、肌で感じればいい。感覚器官は五つもあるんだ。一つ潰れたところで、他の四つで補えばいいだけの話。まずは目を見開く。集中すれば、肌の感覚が研ぎ澄まされていき、疾走による風の流れを感じ取れた。

 黒兎に肉薄しながら刀を横薙ぎに一閃。そう簡単に間合いに入らせてはくれないが、そもそもの間合いが他の銃士と比べて近い黒兎だ。切っ先は指先を掠める。

 つ、と人差し指に紅い筋ができる。それに敏感に反応したのは背後の殺気。

 ぶわりと悪寒がうなじを撫でる。ひゅっ、と刃が空を切る音がする。背後から斬りかかってくる──

 しかし、こちらだってそうそう簡単にはやられない。何せ今は心強い味方がいる。

「だから水を射すなよ、人狼」

 背を向けていて、表情はわからないが、師匠はにやりと笑ったに違いない。

 安心して背中を預けられるっていいなあ、と呑気に微笑んでみる。

「何、笑ってんの」

「ん?」

 紅い目が不機嫌そうに細められる。

「いつも楽しそうだよね。呑気に笑いながら、楽しそうに、愉しそうに、あんたはいつも地獄にいた」


「働き者だね」


「へえ」

 こちらの生前の話を教えてくれるとは、なかなか親切だ。その銃口が脳天を狙っていなければ、握手でもしたいくらい。

 それに、また親友の声がした。どういうことだろう。今すぐ心臓を取り出してかきむしりたいような気分だ。愉快か不愉快かよくわからない感情。

 よくわからないものに振り回されている場合ではない、と話の矛先をずらす。

「地獄、かぁ。生前は死神とでも呼ばれていたのかな?」

「くくっ」

 背後から噴き出すような声。

「師匠? なんで笑うんです?」

「お前、覚えていないのか?」

「記憶喪失ですもん」

 そういえば、師匠にはまだ言っていなかった。事実を告げると師匠は尚のこと笑った。解せぬ。

 それはさておき。

「で、なんて呼ばれていたんです?」

 紅い瞳を見据えて訊くと、答えるより先に黒兎は引き金を引いた。


 パァンッ


「なっ……!?」


 銃声の後には絶句。その場にいたほとんどの者が信じられないといった様子で目を見開いていた。驚いていないのは師匠と当の本人である自分くらいなものだろう。

 やったことは単純。

 ひらりと半身を返して銃弾を避けただけ。

 完全に意表を衝かれて固まってしまった黒兎に肉薄、斬りかかるが、器用に銃で受け止められる。指を切り落とすつもりだったんだけど、器用に指の合間を縫っていなされてしまった。拳銃という中距離武器を持ちながら、接近戦を厭わないだけのことはある。器用というより手慣れているな。

 銃弾を避けられたことにはびっくりしていたようだけれど、刀を払って、いなしてと、対応を一切間違えない精密さ。集中力は切れていないようだ。

 そう簡単に殺らせてはくれないか。

「今、何をした?」

 黒兎の鋭い声。

「何をって、避けただけだよ?」

 そうとしか言い様がない。ちら、と見やった師匠が肩を震わせている。この上ない隙をついて人狼の凶刃が牙を剥くが、短刀であっさりといなしてしまう。立て続けの剣閃。肩、胴、頭と各所を狙う人狼だが、それを利き手じゃない方に持つ短刀で、かちんかちんと軽い音でいなされてしまっている。まあ、師匠にとって利き手がどちらかなどさしたる問題ではない。ただ、片手でぶんぶん刀を振り回す膂力を持つ人狼が、両手で刀を振るっているのに、赤子でも相手にしているかのような余裕さ。さすが、死んでも鬼のような強さだ。

「あの人の弟子だからと油断すまいとしていたんだけど、さすがにあれを避けられるのは予想外」

「うーん、こっちも結構ぎりぎりだったよ」

 一刹那でも反応が遅かったなら、今こうして口を動かすこともかなわなかっただろう。

 引き金に移る指に合わせてタイミングを測ったのだ。正に綱渡りのようなスリリング。今後は御免被りたい。

「ま、そこは執念ってことで。──情報を持ち逃げされるのは嫌だからね」

 ぎちぎちと刀が銃を押す。黒兎の顔に焦りが滲む。

「──天使」

 不意に、黒兎が呟いた。その意図が読めず、首を傾げると、パァン、という音が鳴り響く。銃口はあさっての方向を向いているが、反射で身を引いてしまう。

 黒兎は銃を構えることよりも間合いを取ることを優先した。切っ先が届かないぎりぎりの間合いへ。

 さすがに戦い慣れている。

 近づこうとすれば牽制で足元を狙ってくる。牽制というには狙いすまされているが──じりじりと後退させられている。

 遠い。ならば武器を変えるか、と思ったが、やめる。

 この人は刀で斬り捨ててやらなくてはならない。そうしないと命も未練も断てない。

 だから、変えない。

 根拠は、先程の言葉。


「人に戻って」


 その言葉を聞いて、確信したから、斬る。

 思いを断ってあげよう──


 牽制をものともせず、駆け出した。大丈夫。黒兎の精密射撃はその目から来ている。やっぱり髪を切って正解だったんじゃないか、と思うが、髪で目を隠すのは忌み色以外の理由もあった。

 立て続けに放つために、次の着弾点を見てしまう癖がある。それは常人なら追いつけないスピードの目の動きと射撃であるため、相当な手練れでなければ、予測はできても、対応するのは難しい。

 だが、前髪が切られたことで自分にはよく見える。黒兎は連射のために一瞬一瞬射撃位置を計算している。長丁場になればなるほど、敵が追い込まれていくように。その演算能力は凄まじいものだ。

 いくら位置を読めても、避けようのないタイミングがある。だからそのときは刀で銃弾を斬ったり弾いたり。きん、きん、と耳鳴りのような音を奏でて銃弾が転がっていく。

 何発も見ていれば、だんだんと相手の思考の癖、やりやすさに流された動きが見えてくる。その狭間に一歩足を踏み出せば、相手の書き上げた楽譜を崩すことは容易だ。

 冷静に断じる。今だ。

 一気に迫り、得物を振り上げた。


「次は幸せにね」


 ザッ──


 そして、戦いは終わった。


「勝負あり、かな?」

 す、と振りかぶった刀を相手の脳天直前で止める。

「どうかな。僕が撃つとか考えないの?」

 銃口は心臓を冷たく見つめていたが、へら、と笑って答える。

「弾切れだろう?」

「…………」

 黒兎が黙って引き金を引く。──耳を焼く銃声はない。

「弾切れだってよくわかったね」

「だっていつまでも撃ってこないんだもの」

 これまで銃口を向ければほぼ即撃ちだった彼が撃ってこないのだ。いつまで経っても、というのは一瞬で断じたことだが。気づけば敵意も失せて、諦念へと変わっている。──そう、この人は途中から、生き残ることを諦めていた。

「そこまで、わかったの?」

「だって、人狼に言ったじゃない。[人に戻って]って。その言葉の意味を理解するのは、この世界初心者でもすぐわかるよ」

 人に戻る。それは人殺しの狼から、人に、という意味もあるが、裏に含むニュアンスとしては[輪廻転生の資格を得て、人の世界に戻って]という願いだったのだろう。

 それは、この世界で生き残ることを諦めたことを意味する。輪廻転生への切符は一枚しかない。殺し合いを勝ち抜いた一人にしかもたらされないのだ。

 諦めた、というよりは譲ったの方が正しいだろうか、この場合は。自分より弟を優先したのだ。

「それでわかるなんて……憎たらしいくらい、聡い人だね、天使さんは」

「……天使?」

 そういえば、さっきも言っていたが、まさか。

「あんたの呼び名だよ、[天使]って。本名は知らないけどね。その手の人の間では、僕より有名だった」

 ああ、やっぱり殺し屋だったんだ。

「何度か仕事で一緒だったけど、それは覚えてないんだね」

「え、そうなの?」

 まあ、そうでもなきゃ顔を知らないか。

「あはは、今のあんたは面白いな」

「そこ、限定するのか」

「前のあんたは──生前のあんたは、ちっとも楽しそうじゃなかった。いつも笑ってたけど」

 こくり、と自分が唾を飲む音を聞いた。もう少し、聞いてみたい。

「働き者ではあったよ。まさしく仕事人って感じだった。淡々と、確実に仕事をこなす、誰もが恐れる仕事人だった。

 まるで、神から与えられた使命を果たす天使のようだ、と──人々が恐れ、敬い、つけた名だよ。[天使]って」

「勿体ないくらいありがたい名前だね」

 苦笑いしか浮かばない。なんて名前だ。

「お望みどおり、僕が知ってるあんたの生前については全部話した。後はお好きにどうぞ」

「兄貴っ!!」

 弟の悲痛な叫び。見ると、師匠を掻い潜ってこようとしている。もちろん、師匠がそんなことを許すわけもなく、妨害されている。刀を握る指を切り落とされそうなのを、人狼は刀の柄をくるくると回し、照準をぶらすことで凌いでいる。ただ、手負いのためか、師匠には疲労の表情が見て取れた。

「おっと、まだ行かせんよ。弟子よ、そろそろ終わらせたらどうだ? さすがに私も疲れてきたぞ」

「あはは、師匠ともあろう人がご冗談を」

「……軽口もほどほどにせんと、この切っ先をお前に向けるぞ」

 おお、怖い。久々に師匠から本気の殺気を向けられた。確かに、もう引き出したい情報もないから、殺ってもいいのかもしれない。──でも、好奇心と呼ぶには胸を刺すような感情が過り、浮かんだ問いを舌に乗せる。

「一つ、聞いていい?」

「何?」

「何のために、戦ってきたの?」

 訊くと、黒兎はふ、と笑った。

 紅い目が柔らかく細められたその顔は見たことのないような、本当の笑顔だった。

「それはもちろん──弟のためさ」

 言葉を、失った。

 理解できなかった。どうしても理解できなかった。あの少女と同じ答えだ。その理由で、生きたり、殺したりを判断できる、そんな彼らの思考回路が、理解、できなかった。

「あんたが、哀れに思えるよ」

 がしっ、と刀身を掴まれ、はっと我に返る。まずい、逃げられる、と身を固くしたが、刀身を握った黒兎の手からだらだらと紅いものが流れるのを見、目を疑う。

「な、何をやって……」

「本当、哀れだね。強いのに、守るものがないあんたは」

 ぐぐ、と刀が引っ張られる。切っ先は黒兎の手に導かれ、その首筋へ。

 逆らわなかった。

 ザッ──


「ごめんね、──どうか、次は幸せにね」

 それが、黒兎の最期の言葉だった。


 びしゃあっ!!

 紅いものが飛び散るのも構わず、刃を振り抜いた。

 生温かいものが手に、足に、顔に降り注ぐ。

 雨よりも短く、優しく、残酷に降り注いだそれは、やがてその[雲]であった人物を覆った。


「働き者だね」

「五月蝿い」


 また親友の声が聞こえて、思わず呟く。誰の耳にも届かなかっただろうけど。

 静かに、その戦いは終わりを告げた。





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