非常事態対策本部

……………………


 ──非常事態対策本部



 翌日。


 アレステアとゲヘナの化身はリスター・マーラー病の非常事態対策本部が設置されている帝都中心部の首相官邸に向かった。


 近衛騎兵師団がアレステアたち送迎のために軍用四輪駆動車を出してくれたので、その軍用四輪駆動車で首相官邸へと向かう。


「帝都が静かですね」


「そうだな。疫病というものは実質的な病だけではなく、精神もまた苛むものだ」


 いつもならば人に溢れているはずの帝都の街並みはマスクをした僅かな人々が歩いているのみ。他は感染を恐れて外出を自粛していた。


 軍用四輪駆動車は首相官邸のゲートを守る国家憲兵隊に許可された後、首相官邸の正面入り口にて停車した。


「ここが首相官邸……」


 帝国宰相の公邸であり閣議などが開かれる首相官邸は宮殿と比べると歴史が浅い。かつては宮殿が政治の中心であり、帝国宰相にも公邸は与えられなかったがためである。


 そのため比較的新しい建物であり鉄筋コンクリート造りの頑丈なもので、かつ海外からの要人を迎えるために少しばかり華やかだ。


「アレステア・ブラックドッグ卿とゲヘナ様ですね。こちらへどうぞ」


 内閣官房に所属する職員がアレステアたちを出迎え、非常事態対策本部が設置されている会議室へと案内した。


「し、失礼します」


 アレステアは恐る恐る会議室に入室。


「彼は?」


「例のゲヘナ様の加護を得たという少年だ」


 会議室には既に何名かのメクレンブルク内閣の閣僚や軍の参謀長などがいた。彼らが訝し気にアレステアを見る。


「そちらの席へどうぞ」


「はい」


 緊張しながらアレステアが内閣官房職員の案内で席に着く。


 それから数分後、スーツに黒縁の厚いレンズのメガネをかけた背丈がひょろりと長い老齢の男性が入室し、閣僚たちが起立した。アレステアも周りに従って立ち上がる。


「諸君、この苦しい時世の中集まってくれてありがとう。では、会議を始める」


 彼がオットー・ツー・メクレンブルク帝国宰相だ。


「まずは厚生大臣から現在の感染規模の実態を報告してもらいたい」


「はい。リスター・マーラー病の感染者数は増加傾向のままです。既に感染者数は20万人を超えました。死者数は治療方法などが未だに確立されておらず、感染者の5割から6割が死亡しています」


 メクレンブルク宰相が報告を求めるのに厚生大臣が答えた。


 リスター・マーラー病は帝都で猛威を振るっている。


「帝都の外での感染は?」


「数件が報告されていますが、追跡できています。帝都の外に出る際の検査体制のおかげでしょう。駅や主要道路、空港では厚生省職員と国家憲兵隊が感染拡大の阻止のために検査を行っています」


 他の閣僚が尋ねるのに厚生大臣が返す。


「しかし、このまま感染が拡大した場合、現状の医療体制で耐えられるのか?」


「難しいでしょう。既に既存の医療施設は医療従事者が過労に陥っています。さらに病床数も限界に近づきつつあります。そして、リスター・マーラー病に対応するあまり、他の病気などへの診療が困難になりつつあります」


「では、どうするのだ?」


「厚生省としては軍の大規模な動員を行うべきだと考えております。帝都郊外に臨時の収容施設の建設と軍の医療従事者による対応を行えば、ある程度の感染拡大には対応できるという試算が出ています」


 厚生大臣がメクレンブルク宰相にそう提案した。


「ふむ。既に軍は部分的に動員されているが。さらなる軍の動員についてはどう考える、トロイエンフェルト軍務大臣?」


 メクレンブルク宰相が分厚いレンズ越しに気難しそうな表情をしたカイゼル髭にスキンヘッドの初老男性を見る。


 彼がヴァルター・フォン・トロイエンフェルト軍務大臣だ。


「軍務省としては軍の動員を行うのであれば戒厳令を布告すべきであると考えております。今の非常事態を平時の法令に従って乗り切るのは困難であり、そのような状況では軍にも被害が出ます」


「それについてはもう話し合っただろう。これは軍事作戦ではない。敵の軍隊の侵攻を受けているわけではないのだ。あくまで対応を指揮するのは文民であり、戒厳令によって軍政を敷く必要はない」


「これはテロですぞ。宰相も国家憲兵隊の報告をご存知のはずだ。死霊術師が帝都に対して生物テロを仕掛けた。であるならば、対応するのは軍であり、軍事作戦として実施すべきです」


 アレステアはハインリヒから事前に説明を受けていたが、トロイエンフェルト軍務大臣は保守連合で結成された今の保守党において、急進右派の派閥に所属していた。


 そのため元々の保守党の党員であり中道右派の派閥であるメクレンブルク宰相とは意見が一致しないことがあるということも知らされていた。


「私は戒厳令の布告にははっきりと反対する。市民は今非常に不安な状況にあるのだ。戒厳令など布告すれば余計な混乱を生み、感染の拡大に繋がりかねない。軍のリソースを感染対策を行っている文民の下で扱うべきだ」


「では、軍事について知らない素人の文民の指揮によって軍人に被害が出ることは考えないのか! 帝国軍人もまた皇帝陛下の臣民であるのだぞ!」


「何故軍事作戦だと言い張るのだ。これは感染症に対する防疫作戦だ。決して軍事作戦ではない。我々が軍に求めるのは魔道式銃や榴弾砲ではなく、軍人という組織されたマンパワーだけなのだ」


「魔獣猟兵が関与してるとしてもですかな?」


 トロイエンフェルト軍務大臣の発言に閣僚の何名かが狼狽えた。


「魔獣猟兵が事件に関与していると? そのような報告は受けていませんぞ」


「混乱を避けるために情報の開示は慎重に行われています。また情報保全の観点からもむやみに公開するわけにはいきません」


「内務大臣! それは隠蔽ではないのか?」


「断じて違います。ちゃんと公開する予定は立てておりました。時機を見て皆さんにお伝えするはずだったのです」


 ラムゼイ大佐のテロ・暴動対策室とその上位組織である国家憲兵隊を管轄する内務省が槍玉にあげられるが、内務大臣は意見を固持した。


「諸君。どこからマスコミに情報が漏れるか分からないのは知っているだろう。この疫病に加えて魔獣猟兵の活動まで一緒に公開すれば混乱は避けられない。今は無用の混乱は絶対に避けるべきだ」


 メクレンブルク宰相が列席者たちを落ち着かせようとそう語る。


「では、魔獣猟兵の関与は事実なのですね?」


「その通りだ、ヤクブ・シコルスキ元帥。国家憲兵隊は魔獣猟兵の部隊をこの件に関係している施設にて確認している。カーマーゼンの魔女であるセラフィーネ・フォン・イステル・アイブリンガーについても」


「あの“人形の魔女”を、ですか? どうなったのです?」


 陸軍司令官のヤクブ・シコルスキ帝国陸軍元帥が尋ねる。


 ヤクブ・シコルスキ元帥は皇帝の軍事顧問である帝国元帥府のメンバーでもあり、帝国陸軍のトップだ。その大柄な体に帝国陸軍のフィールドグレーの軍服を身に着け、白髪交じりの頭を軍人らしい短髪に揃えていた。


「それを説明するために紹介しよう。アレステア・ブラックドッグ卿だ。彼がセラフィーネ・フォン・イステル・アイブリンガーを退け、死霊術師の拠点のひとつを確保した。同時にゲヘナ様の眷属でもある」


 そこでメクレンブルク宰相がアレステアを紹介した。


「この少年があの旧神戦争最強の魔女であるセラフィーネを……」


「信じられん」


 シコルスキ元帥が目を見開き、他の閣僚たちも知らされた事実に驚いた。


「葬送旅団という奴ですな。皇帝陛下の兵隊ごっこにも困ったものです」


「言葉を慎みたまえ、トロイエンフェルト軍務大臣。不敬であるぞ」


「失礼」


 メクレンブルク宰相が注意するのにトロイエンフェルト軍務大臣が軽く返す。


「今回は現場の意見を聞くために彼に来た貰った。彼は葬送旅団の一員として死霊術師との戦いも行っている。知っての通り、帝都教区で起きたアームストロング司祭長の事件を解決に導いたのも彼だ」


「よ、よろしくお願いします」


 メクレンブルク宰相の紹介を受けて、アレステアが頭を下げる。


「さて、アレステア卿。君はこのリスター・マーラー病の前にアームストロング事件を解決し、死霊術師に対応している。そして、今回の事件にもまた死霊術師が関わっている。そうだね?」


「はい。その通りです」


「それを踏まえた上で尋ねるが死霊術師を相手にするのにはどの程度の戦力が必要だろうか? 君はアームストロング事件を解決したときにどの程度の戦力を用いた?」


「え、えっと。国家憲兵隊の人たちと、神聖契約教会の武装異端審問官であるシャーロット・スチュアートさん、レオナルド・サルマルティーニさんに助けてもらいました。それからゲヘナ様にも」


 メクレンブルク宰相に問われてアレステアが返す。


「なるほど。つまり現状の警察力で対応できたということだ。次は現場の指揮官であったラムゼイ大佐に尋ねよう。事件解決に軍事的な治安作戦は必要だろうか? 軍主導による軍事作戦としての警察活動は必要かね?」


「いえ、閣下。不要です。我々国家憲兵隊はこの事件に対応可能です。適切な政策決定が行われれば問題は生じないでしょう」


 ここに来てアレステアは自分がメクレンブルク宰相に使われたことに気づいた。


 強固に戒厳令の布告と軍による軍事作戦を主張するトロイエンフェルト軍務大臣の意見を封じるために、アレステアとラムゼイ大佐からアームストロング事件が警察力によって解決され、今回もまた同様と示したのだ。


「現場の意見を聞いただろう、諸君。軍主導の作戦も、戒厳令も不要だと現場は言っている。我々はその意見に耳を貸すべきではないかね?」


 メクレンブルク宰相が非常事態対策本部のメンバーに告げる。


 トロイエンフェルト軍務大臣は太い眉を歪め、唇を固く結び、まさに見るからに不機嫌そうだった。


「会議中、失礼します!」


 そこで帝国陸軍の制服に大佐の階級章を付けた女性将校が入室し、他のメンバーを避け、シコルスキ元帥の席に向かうと彼に何かしらの書類を渡し、耳打ちして去った。


「よろしいでしょうか? 陸軍としての意見を述べたいと思います」


「聞こう、シコルスキ元帥」


 ここで女性将校から何事かと告げられたシコルスキ元帥が発言を求めた。


「帝国国防情報総局からの報告です。同局によると魔獣猟兵側に不穏な動きがあるとのことです。特にアイゼンラント領にて軍用飛行艇が多数離着陸を繰り返していると」


「まさか帝都の混乱に乗じて停戦破棄を……?」


「まだ向こうの事情は分かりませんが、このような動きがあるのは鉄血蜂起以来初めてです。よって陸軍としては帝都での防疫作戦に過剰な戦力を当てることには警戒すべきであると意見させていただきます」


「なんということだ」


 シコルスキ元帥の発言に列席者たちが呻いた。


「仕方ない。我々が今使えるリソースだけで解決を目指そう。まずはとにかくリスター・マーラー病の原因菌の特定、そして治療手段の確立だ。厚生省は帝国感染症研究所にそれらを急ぐように厳命してほしい」


「分かりました」


 メクレンブルク宰相の指示に厚生大臣が頷く。


「それから死霊術師の捕縛とこれ以上の攻撃の阻止だ。国家憲兵隊を主力とし葬送旅団を加えて対応に当たる。よろしいか、トロイエンフェルト軍務大臣?」


「私としては敵の見るからな戦力の拘置には対抗すべきであると考えます。帝国軍の部隊を動員し、アイゼンラント領に侵攻すべきです。攻撃される前に叩けば被害は最小限で済むでしょう」


「アイゼンラント領との停戦協定を我々から破るようなことはしない。もし、君がそのような主張を繰り返すのであれば軍務大臣の地位から更迭せざるを得ない。そして、私は任命責任を取って辞任する」


 トロイエンフェルト軍務大臣の提案にメクレンブルク宰相が強く応じた。


「そうなればどういうことなるかは分かるな? この非常事態において帝国宰相が辞任するということの意味は」


「……分かりました。同意します」


 メクレンブルク宰相が辞任すれば保守党党首としての地位も退くことを意味する。次の宰相を決めるのに党首選挙が行われ、そして皇帝ハインリヒによってその選ばれた党首が帝国宰相に任じられ組閣が命じられる。


 それには2週間から2ヶ月の時間がかかるだろう。一刻を争う非常事態においてそれは危機的なタイムロスだ。


「では、以上だ。各自の役割を果たし、帝国に平和を」


 メクレンブルク宰相が席から立ち、他のメンバーが続き退室する。


「アレステア卿。少し時間をいいだろうか?」


「はい、宰相さん」


 だが、メクレンブルク宰相は会議室に残りアレステアに声をかけた。


「まずは謝罪する。エドアルド侍従長から皇帝陛下の意向は聞いていた。だが、今回は君を利用せざるを得なかった。すまない」


「いえ。確かに僕としてはちょっと困惑はしますが、この危機を乗り切るのに必要なことだったのですよね?」


「そう考えてくれると助かるが、あまり政治家というものを信用しない方がいい。私を含めてね。政治家は自分の責任を回避し、権利だけを行使しようとする。君はこれからも様々な利権のために利用される可能性がある」


「そうですか……」


「それに対抗するには君自身が権力を振るうことだ。権力には権力で応じるしかない。政治の世界はそういうパワーゲームが繰り広げられている。敵を出し抜き、自分が信じる意見への利を得るために我々は権力を行使する」


 メクレンブルク宰相がアレステアにそう語る。


「君は騎士に任じられている。君が35歳の誕生日を迎えたら保守党から貴族院議員に立候補しないかね? 私がそのとっき生きていれば君を支持しよう」


「え? いや、そのそういうことは……」


「ははっ。冗談だよ。だが、覚えておくんだ。君を守れるのは君自身だけだ。皇帝陛下も、私も、他の誰も君を守ることはできない。守ると称して利用することはあってもだ」


 長身のメクレンブルク宰相が屈み、アレステアと視線を合わせる。


「君は神々の眷属として英雄となることが決まっている。それを果たせることを帝国宰相としてではなく個人的に祈るよ。辛いだろうが頑張ってくれ、アレステア卿」


「はい。ありがとうございます」


 メクレンブルク宰相が政治家としてではなく、ひとりの年長者として言うのにアレステアは力強く頷いて返した。


……………………

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る