律の風

イゼオ

第一章

第1話 イスカとミズカ

 イスカとミズカが出会ったのは、ふたりが数えで七歳の時だった。

 村を一望できる丘に立つ、大きなお屋敷。清められた専用の座敷で正座するミズカは、村に住む同年代の少女の誰よりも肌が白かった。

 生気が欠けているように見えるのは、あるいはその肌のせいなのか。

 顔も、上衣の袖から覗く手も、じろじろ見てはいけないような気がして、イスカは目を伏せた。

 座敷に漂う、嗅ぎ慣れぬ香の匂いが鼻にくすぐったい。真新しい畳は落ち着かない。

「ミズカ様、こちらがわたしの息子のイスカでございます」

 隣で胡座をかいていた父親がイスカの肩に手をかけた。

「イスカと申します」

 固い声で名乗り、イスカは頭を垂れる。

 言葉が続かない。本当はもっと色々言うはずだったのに、用意していたはずの堅苦しい言葉は、どこかに消え失せていた。

「顔を、もっとよく見せてくれますか」

 ミズカは言った。落ち着いた、よく通る声だった。

「ほら、イスカ」

 父親に促され、イスカは顔を上げる。ミズカと目が合う。

 少女はおっとりと微笑んだ。心臓が跳ねる。初めて武器を持ったときでも、これほど緊張はしなかった。

「イスカ、わたしはミズカです。よろしくね」

「は」と言ったきり、イスカは黙りこむ。するとミズカは悲しそうな目をして、「天代あましろは、やはり恐ろしいですか?」と言った。

「恐ろしくなんてありません!」

 思ってもいなかった大声が出た。自分でも驚いたが、ミズカも驚いたようだ。目を丸くする。まずい、これでは後で父親の雷が落ちる。イスカはあたふたと、

「えと、あの、ただ……」

「ただ、なんですか?」

 ミズカは首をかしげる。

 長い黒髪に眼を奪われながらも、イスカは頭を必死に回転させる。しかし気のきいた言葉など、何も浮かばなかった。あるのはたったひとつ。しかしこれを口にしてもいいものか。

 少し悩んだ末、イスカは思ったままのそのひとつを言うことにした。

「ミズカ様があまりにきれいなので、緊張しているのです」

「な……な」

 ミズカの白い頬が、見る間に朱に染まる。もしかして怒らせてしまったのか。

「あ、あなたの息子は、口がお上手ですね!」

「さて、誰に似たのやら」と父親は苦笑した。

「嘘ではありません」

 おずおずとイスカは言う。ぷいと、怒ったようにミズカは顔を横に向けた。

「今日はもういいです。二人とも、下がってください」

「かしこまりました」

「……かしこまりました」

 初対面でいきなり機嫌を損ねてしまった。これから、長い付き合いになるかもしれないというのに。

 もやもやした気持ちを抱えたまま、イスカは父親に連れられて屋敷を出た。

 夕暮れの中、門を潜り二人は村へと続く長い石段を下りていく。両脇の燃え立つように紅葉した木々が夕日に映え、目に眩しいくらいだった。

「ごめんなさい」

 父親の影を見つめながら、イスカはぽつりと言った。

「何を謝る」

「ミズカ様のこと、怒らせてしまって」

「いや、ミズカ様はお怒りになどなっていないぞ。照れていたのだ」

「照れる? なんで?」

 イスカが尋ねると、父親はいかつい顔を崩して笑う。

「おまえにも、そのうちわかるさ」

 よくわからないけど、どうやら怒らせたわけではないと知ってひとまず安心した。

「にしても腹が減ったな。今日の夕餉はなんだろうか」と父親が腹をさする。

「釣れていたら、魚じゃないかな」

 朝、祖父と妹が村はずれの河に釣りに行くと言っていたのを思い出して言った。

「ほう、釣果に期待することにしよう」

 イスカの家では、家族揃って食事を取るのは当たり前だ。

 だが、ミズカは違う。特殊な方法によって選抜されたミズカは家族から引き離され、あの屋敷に押し込められた。

 だだっ広い屋敷で、ミズカが誰かと食事をしている光景を想像するのは難しかった。

 天代は年に一度ある特別なお役目の時を除き、人前に姿を見せることはない。それでは友達をつくることもできないはずだ。自分だったらとても耐えられない。ミズカは寂しくないのだろうか。素直に、父親に訊くことにする。

「お父さん。ミズカ様は寂しくないの?」

 イスカの問いに、父親は様々な感情が入り交じった顔をした。

「……ミズカ様のお身体は、ミズカ様のものであってミズカ様のものではないのだ」

 意味が理解できない。どういう意味か訊きたい、けど。

 父親の表情の中に、かすかな苦しみの色を見たイスカは、追求の言葉を飲み込んだ。

 どうやら自分は訊いてはいけない類の質問をしてしまったということだけはわかった。

 そこでイスカは、追求の代わりにこう言った。

「ぼく、ぜったいに天代守あましろのもりになる。がんばってミズカ様をお守りするよ」

「そうか」と父は口元をほころばせ、大きな手でイスカの頭をなでた。

「なら、おれもそのつもりでおまえを鍛えよう。強くなれよ、イスカ。どんなときでも、人としての誠実さを忘れない人間になれ」

 父に気を遣わせまいという思いで口にした言葉だった。しかし、あのひとりぼっちの女の子を守りたいという気持ちは、決して嘘ではない。ひとりは寂しいから、せめて自分が側にいて、やわらげることができたらと思った。イスカは村の外、鎮守の森に目をやる。 

 一際目を引く大きな木が、夕焼けの中にそびえ立っていた。

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