最終話 人間は心ある故に弱い生き物だ。
「高瀬莉乃さん?よね。」
40代後半から50代の髪の長い女が抑揚のない声で突然そう話しかけて来た。
自分の浅はかな行動で悠太を傷つけた。
もう悠太の心を取り戻す事はできないかもしれない。そんな悲しみに明け暮れていったいこの先どうして良いのかわからず途方に暮れていた莉乃……。
その女には全く見覚えが無かったので答えずに黙っていた。
「いいわ答えなくても分かってるし。今日は主人を送ってくださってどうもありがとう。」
「え?」
「主人がね。会社でどんな事を言ってるか知らなくもないわ……。でもね、私が彼を束縛するのはね彼がフラフラと他のメスに誘惑される人だからなの。わかる?わかるわよねあなたなら。」
女は髪の毛をかきあげながら悲しみに満ちた目でそう言ったかと思うと……突然攻撃的な狂気に満ちた目で莉乃を睨みつけて鞄の中に手をかけた。
そして恐ろしく冷たい声で
「あなたみたいな雌豚にね……」
と言い放った。
顔の血の気の引くのを感じた。
なんで?
「なんでここに私がいるかって思ってるでしょう。さっきね主人が帰ってきた時ね、他の女の匂いがしたのよ。甘い果実が腐った匂いがね。だから直ぐに表に出た。そうしたらあなたがいたわ。だから何も考えずにあなたを追いかけたわ。それで家を突き止めて帰るはずだった。けれどあなたは直ぐにまた家を出たわ。それでまた追いかけた。そしたら……あなたも結婚されてたのね……そうしたらなおのこと許せなくなっちゃった。人の主人を誘惑して自分はのうのうと自分のご主人を迎えに行く……。殺意ってこういう時に湧くのね。」
そうして女は包丁を手にした。
莉乃は恐怖と絶望で立ちすくんでいた。
それ以上女はなにも話さなかった。
そうして刃をむけて莉乃に向かってきた。
「莉乃ーーー!!」
僕は急いで莉乃を庇って立ちはだかった。
何が起きたのかちっともわからなかった。
ただ僕の目の前に
悲しみにくれ泣き崩れた彼女の顔を見ながら「そんな顔するなよ。」って心の声で言う。
そのうち立っているのも辛くなってその場に倒れ込んで道端に寝転んだ。
そうしたら大きな満月が僕にスポットライトを当てるように光を放っていた。
良かった。
どうやら僕は莉乃を守れたみたいだ。
それで死ぬなら本望だ。
普段は都会のネオンの光が
ここが木々に囲まれた神社だからだろうか?
そうか今日は……満月か……。
今宵の黄金色の月は赤みを帯びたまるで良く熟れた果実のようで……目が霞んできたせいか、甘く熟した金色の果物の雫が滴り落ちるように都会の闇に
。。。。。。
病院のベットの上というのは、
いつでも無機質で色気なんてない。
ただベットの横で莉乃がきれいな赤い林檎の皮を剥いている事がこの部屋に彩りをあたえた。
「莉乃…俺あんまり果物好きじゃないんだ。
知ってるだろ?」
「知ってる。でもダメよ。悠太ビタミン足りてないんだから。」
気がついたら僕は病院のベットで寝ていた。
女は……吉村の奥さんはあの後駆け付けた警察官に取り押さえられた。おそらく僕に話しかけてきた警察官だろう。
彼女が言うには夫を誘惑する女が許せなかったらしい……けれど莉乃の言う事を信じるならば、誘惑してるのはあなたの旦那のほうだよ。と思うのだが。
僕の腹の傷は浅く(心の傷はまあまあ深いけど。)少し縫合する程度ですんだ。
あの日は精神的にも、肉体的にも疲れ切っていてそんな、浅い傷でもすっかり意識を失ってしまったようで、僕は丸一日目を覚まさなかった。
「なー莉乃。」
「うん?どうしたの?」
「結婚生活が長いというだけで、こんな40過ぎても俺は莉乃の事をわかっているようで、あまり、わかっていなかったのだろうね。」
莉乃がりんごをバッサリと切り込んだ。
「そうね……。私はいつだって寂しいよ。悠太を大事に思ってるし悠太と一緒に過ごしたいしそれに……。」
「それに?何?」
「笑わないでね。」
「笑わないよ。」
「もっと悠太に可愛がってほしい。」
切実な言葉に思えた。
夫婦ってやつは時がたてば
愛情が友情に
友情は同情に近い物になりがちだ。
結婚するまでのプロセスでは、
愛を囁きあい、想い、求め、
相手を愛する事で、
自分の存在を
自分が必要とされている事を確認しあえた。
けれどもそれが無くなった時、
あるのが当たり前になってしまった時、
きっとその愛に満たされた事を忘れてしまっていた時に甘い果実は心を乱すのだろう。
「最近会話少なかったね。」
「悠太忙しそうだから。なんか、悪いなーって…でももっと話しがしたい。たわいもない、どうでもいい、知らなくてもいい事、
自分たちとは違う世界の事、昨日見たテレビの事、それから私に対する気持ち、私の悠太に対する気持ち……いーーーっぱい話したい。」
そんな莉乃の気持ちに気が付かなかったダメな俺。
もしかしたら俺を刺したあの女も、そして吉村という男も本当は夫婦の話し合いが足りないだけなのかもしれない。まー同情の余地はないけどね。
「莉乃……俺たちもう一度やり直せる?」
「でも悠太は許さないでしょう?」
「いや……えっと…莉乃好きだよ。」
「何よ急に……。」
「急にじゃないよ。いつもそう思ってる。それを口に出さない俺も悪い。」
ボロボロと莉乃が涙を流す。
「莉乃は可愛いよ。笑顔が好き。でも泣いているところも可愛い。小さな目、かわいい鼻。その小さな手を繋ぐと満たされる。それからあれをすると幸せな気持ちになる。」
「もう!!恥ずかしいでしょう。」
「へへ……イタタタ。」
「大丈夫?あんまり調子にのると傷口開くよ?!」
。。。。。。
人間は心ある故に弱い生き物だ。
自分という存在を必要とされると、
それに答えようとしてしてしまう。
人間は心ある故に弱い生き物だ。
乾いた心に滴る甘い果実は、
わるい虫を寄せ付ける。
熟れた果実が甘いのはその時だけだ。
甘い果肉は時が経てば熟熟に腐敗して、
見るも哀れに朽ちていってしまうのだから。
腐敗した果物に
人間は心ある故に弱い生き物だ。
でもその弱い生き物を支える物のもまた
人間なのだ。
弱さを吐き出せる。
弱さを舐め合える。
弱さを
弱さを認め合い、
弱さを受けいれあう。
人間は心ある故に弱い生き物だ。
それ故に甘い匂い引きよせられる。
ちゃんと向き合わないとそれを忘れてしまうのだろう。
甘い果実 雨月 史 @9490002
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