17 ママンの言葉
カミーユは起き上がると、カーテンを開けた。
こちらがどんな気分でも、朝はやってくる。そしてどんよりとしたカミーユの気持ちとは対照的に、海は穏やかだし、朝の空気はひんやりと爽やかだ。
昨夜はコテージに戻ってすぐベッドに潜り込んだせいか、昨日の失敗がまだ心に引っかかっている。
いくら辺境とはいえ、この大きな街、それも領都に一人しか調香術師がいないのはおかしいと思っていた。
調香術師の間で、この地のことは有名なのかもしれない。
虫除けに興味を持つ調香術師はいないだろう。カミーユはローザハウスで作ったが、そんなものがあると知らない術師ばかりではないだろうか。
調香術が使えない素材と聞いたらよけいだ。
そういう噂の足は速いから、この地に来たがらないのかもしれない。それをカミーユの耳に入れてくれるような友人がいなかっただけで。
もっとも、この地に来る予定はカミーユにもなかったけれど。
「そりゃあ虫除けより、普通の香水や奉納香を作りたいよねえ。はあ……」
考えごとをしながら家じゅうの窓を開け、そのまま工房から裏庭に降りる。
コテージの壁に這っているのはたぶんウィステリアス。季節には薄紫の花房が下がるだろう。
小さな小道を行けばつる薔薇のアーチがあって、その下には小さなガーデンテーブルまであった。この一角はローザが多いだろうか。
大きなゴブレットの形をした石の花台には、カミーユが好きな花を植えられる。
花の季節を楽しみに待ちたくなる庭だ。
庭の向こう側には野原が広がり、その向こうは海だ。降りられるだろうか。
「奉納香を作るなら……」
やっぱりマリンノートを加えるだろうか。先代の、フレッシュなリモーナやベルガモータも残したい。そこに潮風を入れて、そう、ちょうどこの庭みたいに―――。
朝の散歩は重苦しい気分を払うのにぴったりだった。
ウロウロと歩き回っていると、隣の二階の窓がガタガタと音を立てた。
「あ、フィンさん、おはようござ――ー」
手を挙げたカミーユに、フィンは腕をバタバタとさせ、そっぽを向いて叫んだ。
「カミーユ! 君、なんという恰好で歩いているんだっ!」
「キャーッ!」
しまった。今朝は身だしなみをすっかり忘れていた。
◇
ナイトガウンから慌てて着替えて、カミーユは隣家の扉を叩いた。
自分を見下ろし、パタパタと叩く。大丈夫。どこもめくれていない。
少し気まずいが、大丈夫。ちゃんと上からもう一枚ガウンも羽織ってたし、と深呼吸する。
「おはようございます! し、失礼しましたっ!」
「いや、その、……おはよう。ちょうど君に連絡しようと思っていた。私の工房に、調香用の道具を預かっている」
「え……?」
フィンのコテージの作りは、部屋の位置が反転していることを除けば、カミーユの家と同じようだ。
工房も作りは似ているが、見た目と匂いは全く違った。
所狭しと吊るされ、干された草花。部屋をぐるりと囲む、引き出しばかりの戸棚。
どこかほこりっぽい薬草の匂いが混じり合って満ちている。
「いかにも薬術師の工房って感じですねえ……」
香気じゃなくて薬効が大事だからこれでいいのだろう、と、自分の工房との違いに納得した。
「ああ。調香だとフレッシュな草花が必要だろう? 薬術は乾燥して使うものもあるからな。……こっちだ」
フィンが隣の貯蔵庫に案内した。
「これ……?」
「ああ。ジョルジオの、先任の調香術師の工房に置いてあった道具だ」
赤茶色に鈍く光るその道具が、カミーユには何かわかった。
ひょうたん型のポットから鶴首と呼ばれる長い管がでて、それが渦巻状にとぐろをまいた蛇首と呼ばれる管に繋がっている。
「蒸留器、ですよね?」
「そうだ。よくわかったな。ああ、テオドール先生は持っていたか。自分で蒸留酒を作ることもなさっていたから」
それは初耳だ。
でも、カミーユがわかったのは蒸留器だけではない。
それ以外の器具もなんとなく用途がわかる。
見覚えのある道具に、少しほっとした。これなら調香術が使えなくても、カミーユにもなんとかなりそうだから。
「昨日、君に森の素材を扱えないと言ったのは、これらがないからだ。森の素材は魔力での干渉が難しくて、調香術が使えない。いや、使えることもあるが、性質が曲がってしまうというか、素直に行かないというか」
「へえ……。あ! フロストベッリーに
「そうだ。大きく上回る魔力量でいけばできることもある。でも、普通は分析にそこまで魔力を使わないだろう? まあ、森の素材については不明な点が多くて、今も研究中だ」
「なるほど。薬術も同じようですか?」
フィンはうなずいた。
「ああ。ひどく面倒な素材だが、それを上回る効果、効能があると思う。外の素材と違う効能が出るものもあってなかなか興味深い。……さあ、君の工房に移そう」
コテージの裏庭を区切る壁には小さな扉が付いていて、そこから運びこむのが一番近かった。
「ジョルジオは男爵家の出身だったんだが、親族が強欲でね。彼の死後にやってきて、応接の家具やら香料のストックやら、高値で売れそうなものはすべて運び出していったよ。商業ギルドから先に聞いていたから、この道具だけは守ったんだが」
「それで……。預かっていただいて、助かりました。ジョルジオさんのノートもギルドから受け取りましたし」
フィンがふっと笑顔を見せた。
「あの記録を君が受け継いでくれて良かった。ジョルジオが研修生を受け入れたこともあったんだが、その、うまく行かなくてね」
カミーユはコクリと肯いた。
今朝ちょうど、その理由を考えていたところだったからだ。
「あれには君のヒントになることがたくさんあるはずだ」
その時カミーユのお腹がぐぅーと音を立てた。
「ごめんなさい」
「すまない」
恥ずかしさにお腹を押さえれば、なぜかフィンも同じようにしている。
顔を見合わせてクスリと笑った。
「もし良かったら、朝食をご一緒しませんか?」
フィンがためらった。
「いや、その、君の家に上がるのは……」
カミーユはきょとんとした。
「えっと、でも、ここも私の家の工房ですし……」
「そうだったな」
「あ、でも、そうですね。ごめんなさい。そういうのが普通ですよね。私、ローザハウスで、その男の子も女の子も皆一緒に住んでいたので、そういうとこが」
フィンが眉を上げた。
「ん? ローザハウス? 君はローザハウスの出身?」
「そうです」
「そうか。君はじゃあ、もしかしてテオドール先生のとこの?」
フィンはとても珍しいと思った。
調香術師はこの国では特別で、フィンが知る限り貴族の子息、息女ばかりだ。
「はい。テオドール先生係でした!」
得意げに胸を張ったカミーユを見て、フィンは笑い出した。
本当にテオドール先生は相変わらずらしい。
「ははっ。ははははっ。先生係か。たぶん意味がわかる。私もそうだったことがある。くっくっく」
「……探しました?」
「ああ。授業に遅れられては困る」
「では同じ先生係だったよしみで、朝食をご一緒に。ちゃんとスープか卵を付けますよ?」
「いただこう。だが、パンとカフェーがあれば十分だ」
「ダメです」
カミーユは首を横に振り、きっぱりと言った。
「私、脳内のママンの言うことは聞くことにしているので!」
すでに今日は一つ破ってしまった。
「脳内のママン……」
どこか変わった子だと思いながら、フィンはカミーユの後を付いていった。
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