8 辺境へ

 カミーユは王都から出るのは初めてだ。

 いや、おくるみに包まれた自分が見つかったのは、海の側だと聞いている。その時のことをクローヴァーは覚えているそうだけれど、さすがにカミーユには記憶がなかった。

 その後、どういう経緯かはしらないが、王都にあるローザハウスに引き取られ、それからずっとそこにいる。

 昨日までは。


 カミーユの乗った船は王都と辺境の定期船だ。

 五日ごとに往復し、商人が大量の荷と共に利用することが多いらしい。

 部屋らしい部屋はほとんどない。荷物を積むスペースに、皆がごろ寝をする大部屋が二つ。

 女性が利用することがあっても、大抵は家族と一緒に大部屋を使う。目隠しとして、申し訳程度の布を吊ることもあるそうだ。

 それ以外は、船長室の隣に一室だけ個室が用意されている。

 カミーユはその部屋を使っていた。

 滅多にあることではないが、身分のある者が自船ではなく定期便を利用せざるを得なかった時や、カミーユのような女性の一人旅用に準備されているらしい。


 一昨夜はカフェーで眠気を誤魔化しながら夜更かしをし、昨日は朝から大忙しだった。

 思ってもみなかったことへの対応で、気を張っていたのだろう。

 頭の芯が重く、昨夜ベッドに入ったカミーユは、早々に眠りへと引きずり込まれた。


 船室の小さな天窓から日の光が差し込み、ベッドの端からじわじわとカミーユに近づく。

 顔に当たれば、さすがにカミーユの目が開いた。

 ローザハウスの自室の窓は北向きで、太陽に起こされたことはない。


「そうだ。船だった」


 ぐいーっと伸びをして、ベッドから降りる。

 思ったよりも深く眠ったらしい。頭はすっきりとしている。

 用意してあった水差しで顔を洗い、身支度を整えた。


 朝ごはん代わりにフルーツケーキを食べていると、扉が控えめにノックされた。


「はいっ!」

「あ、起きてるっすね?」


 ジャックの声だ。

 慌てて立ち上がり、扉を開ける。


「おはようございます」

「気分転換に、甲板に出ないっすか? 今日は波も穏やかで、いい天気っすよ」

「ぜひ」


 聞けば、もう昼に近い時刻らしい。

 朝方に扉を叩いたらしいが、カミーユは気づかなかった。


 空は青く、海の上は遮るものがなく、光でいっぱいだ。

 潮風は冷たく感じるが、届く光は蜂蜜のような柔らかい色合いで、花の季節が近いのを感じる。

 帆がまあるく膨らみ、船は力強く進んでいた。


 カミーユは大きく深呼吸した。


 前世の香水では、マリンノートという香調ファセットがあった。

 その名の通り、海水や湿った海藻といった水っぽさや、潮風の爽やかさ、海辺の草花といった海の自然を表現した香りだ。

 夏にぴったりなイメージから、特にメンズ向けの香水に用いられていたと思う。


「みずみずしく、透明感があって、空と海を感じさせるファセット、か。良くわかるわね。心地いいもの」


 海の向こうを見つめ、潮風を感じていると、ジャックが肩を叩いて舳先を指す。

 向こうでアルバンが手を挙げた。


「良く眠れたみたいだな」

「はい。とても静かで、ぐっすり。寝過ごしました」


 ローザハウスでは部屋の前を通る足音が聞こえていた。

 それで皆の存在を感じて、安心感にも繋がっていたのだけれど。


「船は順調だ。さっきフロースウィック河が見えたし、予定より早く到着できそうだ」


 アルバンがちょうど中間地点にある河の名前を出した。


「……えっ? フロースウィック? ええっ⁉ なんでっ?」


 カミーユはうろたえ、突然キョロキョロと周囲を見回し始めた。


「あっ。そうだ。陸は右手だっ! なんでーっ?」

「おい、突然どうした?」


 見かねてアルバンが声をかけた。


「えっ。ちょっと、何がどうなったのか……。陸が右手に見えるってことは、この船、南に向かってますよね?」

「もちろん、そうだが?」


 何を当たり前のことを、といった調子で、アルバンが答えた。


 グラシアーナ国は、半島に位置している。

 王都から東へ向かって河を下った。半島の東にある海沿いを定期船は進むのだ。

 どう考えても方向がおかしい。陸は左手に見えなくてはならないのに。


「あの、私、北の辺境に行くはずなんですけど……」

「は? なんだって?」

「北あ?」


 アルバンとジャックが同時に声を上げた。


 カミーユは二人に昨日からのことを説明した。

 さすがに王城での勢力争いについては触れなかったが、ローザハウス出身で、採用取り消しに合ったということを。


 一つ一つ思い出すようにして、間違っていないことを確認しながら。


「じゃあ、その教え子って人が、先生に手紙を書いたんだな?」

「そうです。確かに北の辺境だって言ってたと思うんですけど……。夏の避暑で行くっていったら、北ですよねえ?」

「南ではないわな」


 三人とも困惑して黙り込んだ。

 

 グラシアーナのある半島は、ブーツの形をしている。

 つま先がヒョイっと上を向いた、道化師が履くようなブーツだ。

 

 半島を大きく分けると、ブーツの足首部分から上がグラシアーナ。

 その南、足の部分には二か国あって、一つがヤスミーナ第二妃の祖国、サウゼンド公国。

 足首の曲がる辺りにある小国が、もう一つのシャンブリー公国。

 グラシアーナの北、大陸側にも三か国が並んでいる。


 つまり辺境と呼ばれる場所は、北と南にあるのだ。


 アルバンが顎をさすりさすり、考えながら口を開いた。


「南の辺境ということなら、心当たりはなくもねえんだ。去年まで、長い事街にいた調香術師が亡くなってね。高齢のじいさんだったが。それから調香術師がいねえんだ。だから、その教え子が手紙を出したってのも、あり得ると思う」

「教え子って人の名前は聞いてねえっすか?」

「うーん、聞いてないと思います。先生、北の国で教えていたんですよ。それで、そのまま北の辺境と覚えていたのかなあ……?」


 ありえない話ではない。

 だが、本当に北の辺境での募集だった可能性もある。


「時間があったら、どこかで気づいたと思うんですよ。準備とか、手紙のやり取りの途中で。でも本当に急で。『あっ、二十五日だ。ちょうどいい。急いで出発を』って、来ることになったから……」


 だから確認を怠ったのだ。

 カミーユは、ハアッと大きなため息をこぼした。

 

 高等学院ではグラシアーナと周辺諸国の地理も勉強した。

 それでフロースウィック河の名前にも気づけたのだ。


「なるほどなあ。……ま、今のところ、できることはねえな。到着してから考えようぜ。本当に北へ行くはずだったら、また船で送ってやれるさ。まあ、俺たちは、そのまま南にいて欲しいがな」


 アルバンが言えば、ジャックは大きく頷いた。

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