3 テオドール先生
ローザハウスの裏手には
皆が『先生』と呼ぶが、ローザハウスの舎監でも、子供たちの読み書き計算の先生でもない。
他国の高等学院で植物学を教えていた先生は、カミーユが九歳の時に、国王の招聘でローザハウスにやってきた。
「テオドール先生、起きていますか?」
声をかけるが、返事はない。
「入りますよー」
塔はこぢんまりとしている。
地上階に居間と書庫付きの書斎。上階に寝室、浴室だけだ。その代わり、裏には大きな温室が六つ並んでいる。
書斎のドアをノックしたが、こちらも返事はない。鍵もかかっている。
居間を覗いて、顔をしかめた。
「うっわあ。こりゃこりゃ」
ソファー、テーブル、床、どこも『本来、別に置き場所がある何か』に占領されている。
居間が第二の書斎になっているのも相変わらずで、窓際のテーブルの上は椅子の前だけを開けて、本の壁ができている。
今の『先生係』はこの惨状を放っておくことにしたようだ。賢い選択かもしれない。
「いない」
先生は昼間にベッドで横になることはない。
だから寝室は確認しなくていいのだけれど、問題はベッド以外どこでも横になる。
まあ、今日は寒いから選択肢は限られるけれど。
一番端の温室に、先生はいた。
鉢で占領されたベンチの下に頭を突っ込み、毛布を被っている。
側にノートとペンが転がっているので、これは記録をつけていて力尽きたと見えるが、その毛布はぜひとも下に敷いて欲しかった。
「……先生。……先生。テオドール先生、おはようございます!」
側にしゃがみこんで声をかければ、毛布の塊はもぞもぞと動いて、グレーの頭が覗いた。
「ん? ……カミーユに起こされるのは久しぶりだね」
「今日は特別です。相談があって」
ゴンッ。
「いっ」
這い出した先生は、よれよれで、くしゃくしゃだ。
途中でどこかをぶつけるのは良くあること。
今日は頭らしい。
「上に何もないところで寝ましょうよ……。ところで、先生。これ、今年の?」
ベンチに並ぶ鉢は、どれも小さなローザの芽が出ている。
ここは先生の個人的な研究室だ。
深く濃い色合いをしたミラクルーズは大輪で、香気も濃厚。聖なるローザと言われるだけあって、華やかで印象深い。
先生はこの温室ではずっと、全く違う、色も香気も優しく、柔らかな花を作り出そうとしている。
香りが控えめなローザだって美しいローザなのだから、と言いながら。
香水産業のために、香るか香らないか、が重要なグラシアーナでは異端で、趣味の温室扱いだ。
休日の楽しみとして、山向こうの栽培家を訪れて育種を続けている先生は、本当に植物が好きなのだろう。
「ああ。今年も楽しみだね。一鉢でも思った色が出ると良いが」
起きてすぐ鉢を持ち上げている先生の長い髪は、土屑や葉をもじゃもじゃと取り込み、ひどいことになっている。
「先生、シャワーと着替えをどうぞ。その後で話を聞いてください」
先生の手から鉢を取り上げながらカミーユは、起きたらまず身だしなみ、と己を振り返り反省した。
◇
塔の上階に先生を送り込み、カミーユはせっせと居間に足の踏み場を作る。
シャツや靴下は拾い上げて籠に入れておけば、洗濯係が回収する。マントはマント掛けにひっかけ、ソファーの上にある本や紙類は、ローテーブルの上にそのまま動かす。これを整理すると、永久に見つからなくなるらしい。
ゴミはゴミ箱!
ソファー近くの床に四つ並ぶカフェーカップのコレクションを見て、ため息をついた。これは後でキッチンに持っていこう。クローヴァーに怒られるといい。
一番片づけたいテーブルの上には一切触れない。これにも先生なりのルールがある。
シャワーを浴びた先生が、ミントの香りを纏って降りてきた。
顔が見えれば、先生はなかなかの美オジである。顔にかかる濡れ髪をかき上げる仕草も、艶やかで良い。
入浴後の数時間でインクやカフェーの染みが付き、時には土や葉をまといだすのが残念なところだが。
最初から話をすると、テオドール先生は一つポツンと言った。
「リヴァスガルドも、大人気のないことだ」
「やっぱり! リリローザは知らないって言ってましたけど!」
カミーユの鼻息は荒い。
「入学の時からずっと、人を見下すヤな奴でしたけど、研修が決まってからネチネチとひどくって! あんなんでも伯爵令嬢だなんてっ!」
「公爵だろう? リヴァスガルドは」
「いえ、伯爵のはずですよ。今日も伯爵夫人って言ってましたし。あ、そういえば、オジさんが公爵って聞いたかも?」
先生の眉がギュッと寄る。
「なら、公爵家を出された兄の方の家か。前リヴァスガルド公爵に息子は二人。跡を弟が継いだ。兄の方は素行が悪いと聞いたことがある。そうか伯爵に押し込めたか」
「じゃあ、その子供がリリローザってことですか。素行の悪さを受け継いだんですね、きっと」
ズケズケと言うカミーユを、先生がチラリと見た。
「前公爵には、もう一人娘がいてな。それが王妃陛下だ。つまり……」
「ういぃぃ」
喉から変な音がでた。
「わー、わかっちゃいました。私、第二妃殿下派ってことになってますもん。リリローザに目の敵にされるわけだ。敵対派閥ってことですよね?」
カミーユは頭を抱えた。
「カミーユにそんな気が全くないのは知っているが、周囲はそう見ないだろう。それに、授業で『ローザ以外の花をメインにした調香もしてみたい』って、発言したんだろう? そりゃあ警戒もされるさ。第二妃殿下の思惑に一致するからな」
確かに言った。
「ローザだってもちろん好きですよ? 当然じゃないですか。でも、香水の構成と香りの変化をもっと試したくて。あっ! もしかして私が研修を断られたのって、王城政治がらみっ⁉」
ガバリと顔を上げたカミーユだったが、またしょぼんと肩を落とした。
「今、王城は勢力争いが激化中だ。ずっと第一王子を産んだ第二妃派が優勢だったが、王妃の長子である第一王女の婚約が決まって、王妃派が勢いづいている。残念ながら、王城の勢力争いにお前さんでは力不足だし、巻き込まれぬ方がいい」
「巻き込まれたくもないですよ! ドリス工房の方針変更って、優勢な方に付きたいんですね……」
「なんとも素早いことだ。まあ、王城で認められなければ、教会に奉納する栄誉は受けられぬから、仕方のないことかもしれんが」
カミーユが目を見開いた。
「そういえば、ドリス工房の香りが変わっていました。教会の奉納香も。今までより重く濃厚で。新種のサンティフォリアがベースのようでしたけど……」
先生が嬉しそうに肯いた。
「そうそう。サンティフォリアは、今、一番人気だそうだよ」
「ええ。でも、どうしてあんな香水にしちゃったんだか。確かに甘くストレートな強香品種ですけど、もっと上品な香気のはず。ホント残念すぎる」
天まで香りが届くようにと突き進んだ結果、グラシアーナでは、香水は強いほど好まれる。
そしてとりわけ好まれるのはローザの香りだった。というより、ローザしか認めない者もいる。
さすがに聖なるミラクルーズは生産量が限られるので、特別な機会にしか使われないけれど。
先生がミラクルーズから改良した新種のローザがサンティフォリアだ。
ミラクルーズの高貴で艶やか、そして深く複雑で、野性的な香気と比べると、サンティフォリアはフレッシュでフルーティ、ストレートにわかりやすい香気を持つ。
「カミーユはずっと交配を手伝って来たからね。サンティフォリアの名付け親でもあるし。思い入れも強いのだろうが」
プリプリと怒るカミーユに苦笑しながら、先生は立ち上がった。
「それよりもまず、研修先をどうするかだな。こういう時勢なら、王都で見つけるのは厳しいかもしれないね。さて、どこに入れたか……。書斎で見たのではなかったと思うんだが」
先生はローテーブルの上をチラリと眺め、テーブルに向かうと本の壁を崩し始めた。
「ついこの間、北の学院で教えていた時の生徒から手紙をもらったんだよ。今は辺境にいてね。街で調香術師を募集してるんだが、なかなか辺境まで来たがらない。心当たりがあれば紹介して欲しいとね」
「辺境?」
不安より、少しだけ新しい土地への興味が勝った。
カミーユは王都以外を知らない。
「なに。北の辺境は、言ってみれば他国との境で重要な交易地だよ。それに夏の避暑地だから、王都からも人が出向いて華やかだ。悪くないと思うよ」
「正規の調香術師じゃなくても、いいんでしょうか」
「カミーユの実力なら大丈夫。だいたい研修は、就職とほぼ同義だよ。あちらだって調香術師ギルドじゃなく、私にまで言ってくるぐらいだ。人材不足は切実なんだと思うね。カミーユがいいなら、紹介状を書くよ」
良いも悪いもなかった。
新たな研修先がこんなにすぐ見つかるなんて、幸運でしかない。
これなら他の生徒からも遅れず、研修が始められる。
「よろしくお願いします。先生」
カミーユが深々と頭を下げた。
「そうなったら。ん、今日は何日だったかい? 二十四?」
「二十五日です」
「二十五! カミーユ、すぐに荷物を作りなさい。さすがに辺境に一人で行くのは無謀だからね。護衛がいないと。五日ごとに定期便がある。二十日に王都に来た便が、また辺境に向かうんだ。必ず護衛がいるから頼んでみるよ」
「えええっ! そんな急な⁉」
「夕刻に出発だ。今なら間に合う。さあ、急いで。すぐ必要なものだけでいい。大きなものは後で送れるからね」
カミーユはソファーの脇に並ぶカフェーカップのことはすっかり忘れ、慌てて自室に戻った。
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