4 出発の準備

 高等学院に通い出してから、カミーユは一人部屋をもらった。

 物置の一つを片付けて、私室兼工房にしている。


 二段ベッドの下を外し、カミーユ特注のオルガン調香台を入れた。

 調香台に向かって座ると、カミーユの前と左右を囲むように階段状の小棚があって、香料の入った茶色の小瓶がずらりと並んでいる。

 それはパイプオルガンの鍵盤が並ぶように見え、そのため調香台はオルガンと呼ばれている。

 ベッド下というスペースには、秘密の隠れ家のようなロマンがあった。

 何時間でも籠っていられる ― まあ、実際にクローヴァーに怒られるほど籠った ― お気に入りの場所だったのだけれど。


「とりあえず必要なものっていっても、何だろ。向こうの様子もわからないのに」


 研修にはここから通う予定だったから、荷造りなど全く考えてもいなかった。

 口ではそう嘆きながらも、手はせっせと動かしている。


 研修のために特注した小さなトランクの中は小さな仕切りで区切られていて、持ち運べる『オルガン』になっている。

 一番大事なのはカミーユが抽出した香料だ。

 これさえあれば後はなんとでもなると言いたいものだが、実際には使いやすい道具は必須だ。ビーカーにピペット、攪拌棒やピック、漏斗などの道具も割れないように包んで、収めていく。


「うー、全部は無理かあ。秤は向こうにあるだろうし……。あっ。ムエット試香紙だけはあるだけ全部。向こうでも作ってもらえるかなあ」


 別の小さな鞄に本や調合ノートを詰め込んでいると、開いたままの扉が叩かれた。

 クローヴァーだ。

 

「先生に言われて、手伝いに来たわよ。もう商業ギルドには手紙を送ったみたい」

「早い!」

「ギルドで護衛と会えるようにするそうだから、この後商業ギルドの方へ行くのよ」

「うん」

「口座の件があるから、ギルドでちゃんと引っ越しを伝えなさいって。調香術師ギルドと学院へは、向こうに着いてから連絡を忘れないようにって」

「わかった」


 クローヴァーのため息が聞こえた。


「……ねえ、カミーユ。そうだろうと思ったけど、その鞄だと服が入らないでしょ!」

「ん? ……制服は着ているし、この隅っこに着替えが入るかなって」

「もう! 入らないっ! そんなことだと思って大きいのを借りてきたから」


 クローヴァーはさっさとクローゼットを開けて、服を取り出した。

 カミーユに任せたら、調香道具以外は最低限しか持っていかないのはわかっている。


「下着は多めだけど、普段着と外出着は二枚ずつ入れておくわ。いい? 出かけないからといって、一日中ナイトガウンでいるのはダメよ。朝起きたら、調香台を開ける前にクローゼットを開けるの。着いたらすぐ手紙をちょうだい。他の服を送るから。すぐに夏服も必要でしょうし……」

「うん。ありがとう。あっ、白衣も入れてっ!あっ、できたらこのオルガンも送って欲しい。瓶も大きい物は持っていけないから」

「いいわよ。……はあ、なんだか淋しいわ。カミーユがお嫁にいくみたい」


 ため息をついたクローヴァーに、カミーユはクスッと笑った。


「大丈夫よ。。研修が終わったらすぐ帰るから」

「もう。本当に手紙を書いてよ?」

「うん。わかってる。……そうだ、これ」


 カミーユは取り分けておいた香水瓶を差し出した。


「これはローザ祭りの奉納にでも使って。サンティフォリアの試作で作った残りだから。それからこっちはラヴァンダで、これがカモミール。『ミスト』をエンチャント魔法付与して、軽く、部屋に広がりやすくしてるから。チビたちが眠れない時用」

「これはホント良くできているわ。香り立ちも柔らかいし、広がりもいいし、ちょうど良いのよ」


 ローザハウスに来たばかりの子は不安になりやすいことがある。そしてその不安は子供たちに伝染する。

 小さい子は夜になると泣きだし、怖い夢を見ては飛び起きることも多かった。大きい子のベッドに潜りこんで解決するのだけれど、ルームフレグランスで気持ちをほぐすお手伝いをする。


 カミーユは自分の鼻を人差し指でポンッと叩いた。


「ふふふん。そこは私のよ! 『ミスト』と併せて賦香率ふこうりつを調整したもの。それでね、この大きいのは風邪の時用に調合してあるから」

「あ、これがそうなのね!……ねえ、これ今年ずっと助かってるのだけど、商業ギルドに製法を売れるんじゃない?」


「……実は、考えてたんだよね。『ミスト』と併せるのも、濃度の調整がむずかしくて、いろいろ試したし。研修が始まったら、工房の推薦をもらって調香術師ギルドの方に登録しようと思ってたの。推薦があれば研修生でも登録できるしさ。そしたら正規の調香術師になるときも楽かなーなんて、思ってたんだけどさ……」


 こんなことになっちゃったし、とカミーユは肩をすくめた。


「カミーユ……」

「ま、でね、鼻づまりの改善や、筋肉痛に効きそうな練り香水もあるんだけど、こっちは薬草の効果ぐらいしかないかな。私に光属性があったら、治癒とか浄化とかバンバン付与してさ。きっと嫌がらせどころか、研修や就職も向こうから『来てください』って言われてたかも。ハハハ、残念」


 クローヴァーがカミーユに抱き着いた。

 少し甘い香りは、さっきのケーキだろう。クローヴァーは香りまでも、お腹いっぱいの幸せな気分にしてくれる。


「希少な光魔法がなくたって、あなたはとってもすごいのよ! 商業ギルドに新製品を登録して、お金を稼いで、私たち皆パンがたくさん食べれるようになったのよ?そんな子、他にいないわ。それに、高等学院生でも優秀だって聞いたわ」

「うん。そうだね」


 優しい緑の目が、カミーユを覗き込んだ。


「ねえ、カミーユ。忘れないで。クローヴァーもカミーユも、丈夫な野の花だわ。踏んづけられても、次の日には起き上がってる。ローザのように華やかではないけれど、私はこの名前が好き。いい? 私は知ってるの。カミーユは負けないわ。すっごい調香術師になって、カミーユが言った通り、今度は向こうから『うちに来てください』って言われるのよ!」


 クローヴァーは本気でそう思っている。

 すごいのはカミーユじゃなくて、クローヴァーだ。

 ローザハウスの子には無理だとか、難しいとか、一度も否定されたことがない。

 それがどれだけ支えになってきたことか。


「うん。うん。……ありがとう。クローヴァー」


 大好きな姉を、カミーユはぎゅっと抱きしめた。

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