45話 明日、呪解薬が来る
呪解薬について話しを聞かされてから、二日後。
夕食のあと、一緒に食べたルディオがジークハルトと私室でチェスをし、エリザは三人掛けソファを一人占めして贅沢にも読書に耽っていた時だった。
「少々よろしいですか?」
執事のセバスチャンがエリザを廊下へと一人呼び、例の呪解薬が、明日には届けられそうだという知らせを持ってきた。
ジークハルトにかけられている術については、フィサリウスからラドフォード公爵にも共有され、彼から公爵邸の全員に説明がされていた。
女性恐怖症の改善に大きな一歩になると、使用人達はこぞって呪解薬の効果に期待を寄せている。
「完成したものが問題なく魔術研究課の検査を通過いたしましたら、こちらへ早馬を走らせるそうです。早くて日中、遅くても夕刻までには届くかと」
セバスチャンはにこやかにそう報告し、去っていった。
(そっか、それなら明日には……)
明日いっぱいで、今日まで続いた治療係としての〝すべて〟が終わる。
はじめはどうなることかと思っていたが、今や三人でいることが当たり前みたいになっていたせいだろうか。
なんだか、信じられない話だとエリザは思った。
たぶん、寂しい……のかもしれない。
明日までしか見られないかもしれないジークハルトの、師か兄を慕うみたいな子供っぽくて無垢で、信頼感を預けてくれている様子を思い返した。そうすると室内に戻った際に、ルディオから向けられた提案に咄嗟に頷いていた。
「おっ、エリオ戻ってきた。俺そろそろ帰るけど、足りないみたいだからあとでジークのチェスの相手をしてくれないか?」
「いいよ」
どうせボロ負けするのに、と自分でもエリザは不思議に思った。
迎えの馬車があってルディオが帰宅したのち、早めにシャワーを済ませた。そして同じように汗を流してさっぱりしたジークハルトと、二階の共同私室で待ち合わせ、規定の就寝時間にはまだ早い時刻なのでチェスに付き合った。
一生懸命、頭を働かせて挑んだのだが、結果は惨敗だった。
(予想通りではあるけど、顔に似合わず容赦ないんだよね……)
それに少しは付き合えるルディオが、すごいなと改めて思った。
とはいえ寝るにしてはまだ早い。少しでも気を抜くと速攻で負かされるので、心折れることなくジークハルトに付き合おうではないか。
「よし。じゃあ、またやりますか――」
「待ってください」
新しいゲームのためチェスを用意しようとしたら、その手を上から、大きな手にそっと包まれた。
なんだろうと思って見上げると、彼の青い目が穏やかに微笑む。
「気晴らしに、読書はどうですか?」
「読書?」
「あなたも好きでしょう?」
好きか、と言われると戦闘訓練も卒業してからは、確かに食べる以外にハマるのは一人コツコツと楽しめる読書ではあった。
(うん、意外に、すごく高価なんだよね)
それが読み放題、選び放題というのも贅沢な環境だ。
というわけでチェスをいったんしまい、向かい合わせに置かれてある三人掛けのソファを、それぞれ独占して読書した。
ジークハルトはソファの背に持たれて、楽な姿勢で足を組んだ状態で、片手に小説を抱えていた。エリザは肘掛側にクッションを置き、そこに半ば寝そべるようにして先程の本の続きを読むことに集中した。
治療係は、基本的に就寝時刻より一時間前までの勤務だ。
その間はジークハルトと行動を共にする。
最近は彼の泣き事が各段に減っているため、互いがそれぞれ本を読むのも、よくある光景の一つになっていた。
(――でも、これは今夜までか)
ふと、向かいのソファにいるジークハルトの様子を眺めて、エリザは集中力を切らした。
(この光景もこれで、見納めなんだ――……)
そもそも、彼がこれだけ安定しているのなら『住み込みの治療係』の付きっきりも、もう不要だ。
給料をもらっているのが申し訳ないな、となって、そろりそろりとソファの下に足を戻した。ジークハルトが気づき、片手に持っていた本から、ふっと視線を上げてきた。
「何か口寂しくなりましたか? それなら甘いものでも用意しましょうか」
「えっ、いえ大丈夫ですよ」
エリザは慌てて片手を振った。
(というかそれ、私の仕事なんじゃ……)
そんなことを思った時、ふと屋敷が静まり返っていることに気付いた。
時間を確認すると、もう就寝時刻を少し過ぎている。思った以上に読書にのめり込んでしまっていた自分に驚いた。
「さて、もうお休みの時間ですよ。セバスチャンさんに怒られる前に、ご移動されませんと」
エリザは本を閉じ、立ち上がって、仕事着のごとく羽織った魔術師団のマントコートの膝部分をはたく。
それを見届け、ジークハルトもぱたんと本を閉じ動き出したエリザに続く。
書棚のそれそれの位置に本を戻した。
「眠気が来ないので、本を読み聞かせてくれませんか?」
エリザよりも上の段に本をしまった彼が、見下ろしざまにそう言ってきた。
「読み聞かせ、ですか……」
エリザは困ってしまった。それはクリスティーナとの茶会以来、約一週間ずっと要求されている『寝るまでそばにいて』のおねだりだ。
(お願いの仕方を変えてきたけど、間違った方法だと思う)
エリザは普段、彼が難しいたぐいの小説を読んでいることを知っている。
読み聞かせという言い方をされると、それは彼やエリザが先程まで呼んでいた本ではないのは確かだ。
ジークハルトは今、呪いの効果で、聖女の血を持っているエリザに対しては精神年齢が幼い感じになって甘えてくる。
とはいえ見た目が立派な好青年だ。しかも、令息で、騎士だ。
まさかそんな彼が絵本を思ってそう言い出したわけじゃないよねと、呪いのせいで発生している目の前のギャップに、つい戸惑ってしまうのも事実で。
「どうしました?」
いや、黙っていてもなんにもならない。
(うん、治療係である私が、ジークハルト様を不安にさせてどうするのっ)
彼は呪いの副産物で自分がこんなことになっている、という違和感さえ抱いていない。呪いは自覚できないのだ。
もしかしたら目の前の棚に入っている小説かもしれないし――。
「……あの、いったいどのような本をご所望なんですか?」
エリザは、意を決して尋ねてみた。
「童話です。つまり、絵本です」
「ど、――」
エリザは言葉が詰まった。
童話、つまるとろ彼がばっちり口にしてくれたように、まさかの『絵本』だった。
確かに書庫の一角には、幼少の子供向けの内容らしき本も並んではいた。でも――。
(それを果たして十九歳の男性が読みたくなるだろうか……)
いや、聞きたくなるのかも分からないし、そもそも読み上げられるそれを楽しめるのか?という疑問も止まらない。
けれど――明日には、呪解薬が届く。
夜、眠るまでそばにいてというおねだりは、あの茶会からずっと続いていたことだった。
(彼の子供っぽい甘えも、今日で終わりだとしたら……最後くらいは付き合ってあげてもいいのかもしれない)
女の子としては、夜に男性の寝室にいるのはどうなんだろうなと思うもの、そもそも自分は彼にとって『男の治療係』だ。
「分かりました」
エリザは覚悟を決めつつ、諦めたように息を吐いた。
「いいんですか? 嬉しいです、ずっと断られていましたから」
それはそうだ。一人で寝室に、なんてさすがのエリザでも気が引ける。
でも、今日まで全然性別がバレていない。こうなったら最後の最後まで『男の子』としてジークハルトに付き合おうと思った。
「あまり遅くならないうちに私は引き上げますけど、それでもいいのでしたら。さすがに夜は眠くなります」
「それで構いませんよ。無理はさせないつもりです」
本当に、彼はすんなり寝てくれるのだろうか。
エリザは少しだけ心配になる。じっとしていると眠たくなるので、どうか自分の限界がくるまでに寝付いてくれるといいけれどと思いつつ、要望を聞く。
「ご希望の絵本はありますか?」
「あなたが読みやすいものでいいですよ。この国のよくある童話も、あなたには初めてでしょうから楽しめると思います」
それならあとで寝室に向かうとエリザは言って、ひとまず先に廊下へと出た。
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