30話 ジークハルト様、その手はなんでしょう?

 会議も終えたジークハルトからは、清潔な石鹸の香りがした。その前に入っていた訓練とやらで一汗流したのだろう。


 香りを意識すると妙にどっと心臓がはねそうになる。


「……何をしているんですか、ジークハルト様」


 どうにかはぐらかして、ふてくされた声を出した。


「頑張ったので、飴玉プラス抱擁で」

「はぁ、なるほど……?」


 身長差が大きいのでこっちとしては苦しいんだけど、とエリザは思った。


 それから、触る位置によっては性別がバレそうで、心臓に悪い。


(……でも今顔を上げられないっ)


 実をいうと、やたら美形なので、ジークハルトのこの『ご褒美の抱擁』とかは、やめてもらいたいのが本音だった。


 最近、とくに柔らかく笑うようになった彼からのスキンシップは、鋼の心を持ったエリザも動揺させた。


 膝の上にのせてケーキを食べさせたり、してきたせいかもしれない。


 それを人に見られたことで、ちょっと彼のことを意識してしまっているのかも――。


(治療係がどきどきするのはアウト! うん、だめ絶対! 私はジークハルト様に男だと思われて信頼されている治療係!)


 エリザはどっどっとはねそうになる心臓を、どうにかそう言い聞かせて凌ごうとした。


 ジークハルトは魅力的な美青年である。

 選ぶ女性に困らない理想的な騎士様ぶりは、出歩く王宮内で、全ての女性の熱い視線を集めていることからも察せる。


 なのに、彼は女性達の視線も無視して『小さな少年の治療係』を慕ってくるのだ。


(せっかく呪いが解けても、妙な噂が飛び回ったら彼の結婚が遅れる……!)


 そうなったら、まずい。


 依頼者のラドフォード公爵も、治療が成功したら、跡取り息子に結婚をして欲しいと考えていることだろう。


 しかしながらジークハルトのこの『呪い』の効果による懐きっぷりのせいか、最近王宮の一部の女性達の間で、『彼と治療係が禁断の愛を通わせている』といった噂が出始めているらしいのだ。


 数人の令嬢グループに睨まれたので、なんだろうと不思議に思っていたら、恋の邪魔虫として敵視しているようだと親切なメイド達に教えてもらった。


 さすがのエリザも頭を抱えた。


(男だと思われているのに、女性達の一部に恋敵と思われている状況……)


 早く術が解ければいいのにな、と希望していた。


 あと、そろそろ雇い主の公爵からお叱りが飛んでこないかとっても不安――。


「もう、いいですか?」


 じっとしていると、伝わってくる体温で落ち着かなくなってきた。頬が熱くないことを確かめてから、エリザは身じろぎする。


 不意に、上から、くすりと笑うような吐息が聞こえた。


 気のせいかと思って顔を上げたら、ジークハルトがこちらを見下ろして微笑む。


「――いいですよ?」


 彼が解放してくれたものの、なんだろう、今の間、とも思う。


 掛けられた術のせいだと納得する一方で、これは見せかけなのかと思うと少しだけ寂しいと感じている自分もいる。


(わざと彼がそうしているはずなんて、ないのに)


 どきどきするのは不毛だ。


 だからこそ、勘違いしてしまう前に術が解けて欲しいとも思っていた。


 すると、続いて待ち合わせ場所にルディオが顔を出してきた。


「よっ、エリオ。マクガーレン隊長の、狐に包まれたみてぇな顔を見せたかったぜ。ヘタレ野郎がなぜここにいる、そっくりの影武者じゃないのかって目をしてた」

「…………えっと、来たことにすごくびっくりしたんだろうね」


 ルディオの言いようから、意見がはっきりした女性であることだけは分かった。


「今度、俺達のいる隊と合同で動くんだ。『治療係には期待してる』とマクガーレン隊長も言ってた」

「うわー。まさかの名指し」

「ジークだけずっと欠席だったからな。そのご褒美制度?で頑張れ、て応援してた」


 軍人の方々の一部にも知れ渡っているのか。


 そう思っていると、ジークハルトが腰を屈めて顔を近付けてきた。いきなり美貌を寄せられて、エレザはちょっとたじろぐ。


「なんですか? ジークハルト様」

「僕もこからは参加すると約束してきました。逃げずに、参加していきます。ご褒美はありますよね?」


 大きな課題だったから、キャンディーではなく彼の希望を叶えることになる。


「まぁ、そうですね。何がいいですか?」


 するとジークハルトが、ふにゃりとした笑みを浮かべた。


 まるで子供が、信頼しきった親や兄弟に見せるような笑みに、エリザはつい目を奪われた。


 ジークハルトは、王子フィサリウスに次いで見目が麗しい。実に強烈である。通りすがり居合わせた女性達が、ほぅっと熱のこもった吐息をつくのが聞こえてきた。


(くそっ、無駄にキラキラした顔しやがってっ)


 一瞬思考が止まってしまっていたエリザは、慌てて自分を取り戻す。心臓がまた変になりそうで心の中で平常芯と何度も唱えた。


「それなら、時々でいいのでチェスの相手をしてくれませんか?」

「チェス? まぁ、いいですけど」


 それくらいであれば問題ないと思い、エリザは頷いた。


「ただ、私はあまりやらないのでルールがうろ覚えになっているかもしれませんが」

「構いませんよ。ルディオというアドバイザーを付けてもいいですから」


 ジークハルトが、そこにいたルディオを示す。彼は「こいつめちゃくちゃ強いよ?」と同情の声をエリザに投げてきた。


「まぁ……うん、大丈夫。一緒に頑張ろう」

「俺もかよ」


 というわけで、次のスケジュールに合わせて移動する。


(次は、彼らの隊の部屋で書類仕事、だっけ)


 歩きながら、最後にチェスをしたのが二年以上前だったことを思い返す。


 師匠のゼットとは、たびたびチェスをした。彼が魔術で小さくして持っていた自前の道具の一つだ。


 ルールが覚えづらかったし、負かされっぱなしでつまらなかった。


 けれどそのチェスが、勇者の父が送ってからハマッたものだと知ってから、エリザは代わりのようにゼットの相手をつとめた。


(でも子供相手だからといって、容赦なしの人だったなぁ)


 もう二年も過ぎたのに、鮮明に思い出させるものだなと苦笑する。


 その時、ふと手を握られた。それがジークハルトの手だと気付いて反射的にびくっとしてしまった。


(あ、そうだ。私が触っても聖女の体質で大丈夫なんだっけ……)


 でも、確実ではないはずだ。彼にかかっている呪いの方が、エリザの中に半分だけ流れている聖女の浄化の体質を上回ったら症状が出るということで――。


 リスクを回避するのなら、素肌に長らく触るのはやめた方がいい。


「ジークハルト様、手を――」


 外させようとしたその時、ジークハルトがエリザの指の間を撫でてきた。それは絶妙な触れ具合で、なんだかとてもくすぐったい。


「……あの、ジークハルト様?」

「ん? どうかしましたか?」


 輝く笑顔を向けられた。手を握っていることをとぼけられているみたいだ。


 首を伸ばしてきたルディオが、ようやく二人が手を繋いでいることに気づいて「え、大丈夫なのか?」と呟いてくる。


(私、もしかしたら弟か親として見られているのかも……)


 エリザは悟りを得た目をした。つまり女として勘繰られる以前に、ジークハルトはエリザを本当に男だと信じきっているのだ。


 ジークハルトが手を握っているのは、親鳥に雛鳥がついていく感じなのかもしれない。


 なんだと納得したエリザは、すれ違った令嬢達の「まあっ、見て」「噂通りご執心なのではっ?」という小さな黄色い声に、がっくりと肩を落とした。


「とりあえず、手を離してくださいね……」


 呪いによる蕁麻疹が出る可能性はあるので、親切心から離させることにした。なぜかジークハルトは満足そうに「いいですよ」と言って、今度はあっさり手を離してくれた。

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