005●第一章③悪の独裁者《すうきけい》と爆笑貧者《ドタバタルンピー》 〈20240915再修正〉
005●第一章③悪の
僕は大通りに面したある建物に注目した。
劇場だった。『悪の
新しい
馬車列を通すために、警備を担当する騎兵が横に並んで前進する。「猊下のお通りだ! 道を開けよ!」と彼らが露払いに励むのを横目に、シェイラが詫びた。
「申し訳ありません、猊下のご降臨を
「いやいや、全然かまわないですよ、ゆっくり行きましょう」と僕はおおらかに応じて、“シモジモ”の
劇場に目をやると、チカチカと輝き始めたネオンサインに照らされて、立派な石造りの劇場の二階部分には、我輩の
停止した馬車はなかなか進めず、俺はその絵柄をじっくりとながめ渡すことができた。
いわば、手描きの巨大紙芝居だ。
最初の登場人物は、
ああ、これが看板に言う「悪の
彼の黄金の椅子の下には、金銀財宝と札束の山、そのまた下には、人間ピラミッドの要領で土台をなす市民たち。
そこにふらりと現れる、破れたドタ靴でボロボロの
なるほどこいつが
激怒した
「ははは……」ギャグマンガそのままに展開する絵看板を指さして僕は笑った。「面白そう、あんな出し物をやっているんですね」
「げ、猊下! 申し訳ございません!」シェイラが意外なほどに狼狽した。うろたえ方がやや大げさに感じたほどだ。「あれは
ここで幕引きとばかりに馬車の開いた窓に黒ドレスの袖をかざして、“下賤な猿芝居”の光景を遮ろうとするシェイラの手首を、俺は軽くつかんだ。
「かまわない。ちゃんと見せてくれ」
「あ、猊下、畏れ多い……」
シェイラが戸惑い、声を震わせた。黒レースの手袋の上からとはいえ、彼女の手首はほっそりとして小枝のように華奢に感じられる。といって骨ばってはおらず、やわらかくも芯のある弾力。
もうしばらく握っていたいと思わせる感触だったが、シェイラがそっと手を引いたので、俺も渋々と、シェイラとの魅力的なスキンシップをあきらめた。
というのは、シェイラの冷たくも端正な
なんといっても大衆の視線がこちらに集中している。馬車の窓越しに美貌の女性補佐官の手を握り続けたら、少なからぬスキャンダルのネタにされかねないだろう。
ということで我輩は、“下賤な
「要するに、威張り腐った権力の象徴を引きずり降ろして馬鹿にして、滑稽な芸で笑わせて、大衆の憤懣のガス抜きを狙った芝居なんだな。それでいいじゃないか。ただの
「え、ええ……しかし猊下、先代の
「しかし、そうはならなかった、だからこうして、首都の大通りの劇場で、我々の目の前で上演されている」
「はい」とうなだれるシェイラ。「宰相のウーゾが、憲法に保障する表現の自由に免じて、当分は上演を許してやるしかないと、取り締まりを渋りまして。
表現の自由。つまり民主国家ということか……と、ほっとした僕は言う。
「まあ、憲法でそういうことなら、かまわないよね。面と向かって誹謗中傷されるわけじゃなし、あくまでフィクションと銘打った芝居なんだから」
そう、それに幸いなことに、絵看板でズッコケている悪役枢鬼卿のその顔は俺ではなく、さきほど国葬の斎場で見た遺影とそっくり……すなわち、先代の
ちら、と俺は横を向いて、馬車の窓枠の横にはめ込まれた小さな鏡を見る。パレードの最中でも自分の姿を確認できるように配慮した工夫だ。
そこに映るのは、顎が細く鼻筋の通った二十代の青年の、男ながらファニーなフェイス。ちょいと塩顔だが笑えば悪くない、少年めいてお茶目に見えるぞ。
鏡に向けて一瞬ニマッと笑い、ああよかった……と胸をなでおろす俺。
「先代には悪いけど安心した。お芝居の
「も、もちろんでございます猊下! 猊下のお顔であんな猿芝居をさせるなど、このシェイラが絶対に許しませぬ。憲法にどう書いてあろうとも、私に下命なさればあの大根役者、スッパリと斬って捨ててご覧に入れます」
さすがに大っぴらには言えず、小声で俺の耳元に囁いてくれたのだが、つまりシェイラは、非公然にして非公式の暗殺も日常業務に含めているということだ。
俺はうなずいて答えた。
「それは心強い、頼りにしているぞ。しかし今は、あのような芝居でも庶民の貴重な娯楽、我輩も一度、観客席に座ってみたいものだ」
「はい、落ち着かれたら手配いたしましょう」
にっこりとほほ笑むシェイラ。彼女もこの猿芝居はそれなりに面白いと感じているようだ。
しかしこれで、我輩に関わる一つの状況が読み取れた。
さきほど葬式を出された先代の
だから、先代が死んで我輩が降臨したことが、今、国民に大歓迎されているのだ。
そして先代の
観客だ、よく見るとシェイラがいうところの
というのは、この劇場は首都エリスを貫く大通りに面している、一流の公的施設だからだ。我輩のもやもやした前世記憶では帝劇とかオペラ座に相当する。チケットの値段は高く、貧しい庶民が気軽に利用できる大衆的な場所のはずがない。
劇場のチケットブースに集う観客たちは、みな、上流っぽい小ぎれいな服装をしている。
一般市民の貧富の格差は、そのコスチュームにわかりやすく表れていた。貧しい
対して富裕層の
我輩がかつて転生していた異世界で“メイジ”という元号を使っている国があったが、その国の風俗や大衆文化に似ているようだ。
この劇場を訪れる
それどころか、個人所有の馬車か、小型ながらも金属製の
だからこの高級劇場の出し物は、貧しい庶民に見せるための“下賤な猿芝居”のはずがない。
ハイソサエティな高級ミュージカル・コメディなのだ、それが真実の姿だ。
では、何が面白いのだろう?
並んでいる絵看板の最後の一枚に、答えがあった。
悪しき
それでも本人はめげずに立ち上がって、酒瓶片手にフラフラとよろけながら千鳥足のタップダンスを披露する。彼の正体は正義の反骨者ではなく、ただの酔っ払いだったのだ。しかしそれでも本人は幸せそうに、酩酊者のグネグネ踊りを続けていく……
ということで、この芝居は、「貧しい庶民が権力者をバカにする」というガス抜き作品であると見せかけながら、その結末は「豊かな人々が貧しい愚者をバカにできる」演出に帰結しているのだ。
だから宰相のウーゾは、この芝居を気に入って、上演を許している。
だが、謎が残る。
猊下が気に入らなかったら、主演の役者を暗殺して差し上げます……と、シェイラは請け合った。それならどうして、先代の
ということは、なにか理由があるのだ。主演の役者を、あえて暗殺せずに生かしておく理由が。
「あの役者さ」と、僕はシェイラに尋ねた。「凄い名優みたいだね。国民的スターなの?」
シェイラは穏やかな表情でうなずいた。
「リーチャー・プッチャリンですね。今、人気絶頂です。演技がとても上手いんですよ。このお芝居では悪の
「あ、そういえば顔もそっくりだね」
絵看板に描かれた
「でも、これ、舞台演劇でしょう? 二人が同時に顔を合わせることは、物理的に不可能なのに」
「そこなのです」とシェイラはここぞとばかりに解説した。「主役のリーチャーは
「あ、そうか」と我輩は納得した。なるほど、あっさり暗殺するには惜しい才能を持つ
「オワラーイぐらんぷり?」
「あ、いやいや我輩の
「そんなものが、どこかにあるのですか?」
この世界ムー・スルバからしたら、転生しなくては行けない異世界のイベントだ。不思議に思われても当然……とか考えたところで、ようやく車道に広がった群衆を左右に分けることができたらしく、車列が進み始めた。
そこで、我輩は気付いた。
シェイラのやつ、わざと、ここで停止するように仕組んだのではないか?
俺が演劇の内容に興味を持った時、「げ、猊下! 申し訳ございません!」とうろたえたシェイラの態度に、かすかながら、わざとらしさを感じたのを思い返す。
彼女はさりげなく偶然を装って、劇場の前でしばらく馬車を止めた。
そうすることで、『悪の
そして芝居に対する我輩の反応を観察したうえで、自分が
そこでさらに我輩の反応を再観察して、判断の材料にしているのだ。
どのような判断を?
それは明白。
突然にポッと降臨した
シェイラと言う美貌の補佐官、見た目だけでなく、なかなかのやり手とみた。
さて、俺は彼女の上司として、合格に値するのかな?
いずれ、わかるだろう。
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