第39話
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マイケル・ドノヴァンの朝は早い。
今朝は午前三時半に起床。作り置きしておいた
「日本は野菜が高くて辛いデース……」
朝から故郷の味と世間の苦みをいっしょに味わった。
午前四時、家を出る。街灯が照らす薄暗い道を歩いて二階建てのこじんまりした事務所に到着。鍵を開けて事務所の電気をつける。
荷物を置いて一階の車庫へ。親方たちが来るまでの間に今日の現場で使う機材を軽バンに運び込む。
「ドライバーよーし。モンキーよーし。えーと、今日はパイプレンチはいらないデスねー」
昨日のうちにメモしておいた必要工具の一覧を見ながら確認。本当は二人で確認することが推奨されているが形骸化しているので気にしない。
午前五時。事務所周辺の掃除。近隣住民のお婆ちゃんが遠目から監視してくるので早々に切り上げる。
午前六時から午前七時。資格の勉強。
午前七時十五分。先輩方が出社。
「おはようマイケル」
細目のいぶし銀な先輩社員、加藤先輩が軽く手をあげた。
「二人ともはやいっすねー」
年下だが業界のベテランである小峠先輩も少し遅れてやってくる。
「おはよーゴザイマース!」
腹から声をだすマイケル。元気な声をだせば気分も盛り上がる。
ところが午前七時半になって親方が到着すると、マイケルは無意識に体を強張らせた。
「お、おはよーゴザイマース。親方」
「おう」
返事をくれたということは、今日の親方は機嫌がいいようだ。
マイケルはほっと胸をなでおろした。
それから簡単な朝礼を行い、現場へ向かう。今日は加藤先輩と同じ現場なので気が楽だ。
「おい加藤。急ぎの仕事が入った。悪いが頼めるか」
「え? でも今日の現場はマイケルひとりじゃできませんよ?」
「そっちは俺がいく。おいマイケル。オメー、運転しろ」
「は、はい!」
ジーザス。マイケルは心の中で呟いた。
でっぷりと肥えた体を助手席に押し込む親方。マイケルはガチガチに緊張しながらハンドルを握った。
ちょっとした段差で軽バンが跳ね、親方が舌打ちをかます。
「テメェ、もっと上手に運転しろよクソが」
「す、すいまセーン……」
そのくらい許して欲しいデース、と言いたいところだったがクビにされてはかなわない。マイケルはぐっと文句を飲み込んだ。
いまや日本はダンジョンの出現によって世界有数の経済大国。いわゆるダンジョン経済と呼ばれ世界中が注目している。
マイケルは故郷の家族のために出稼ぎしているので、クビになることだけは避けねばならない。
現場の元スーパーだった廃墟に到着。建物を解体する前に機材を撤去しなければならない。今日の仕事はエアコンの取り外しだ。
マイケルが所属している事務所は土木作業の業者だが、稀にこういった設備屋まがいの仕事も行う。
親方含めみんな不慣れなのでこういう日はだいたいトラブルに見舞われるから、マイケルは少しばかり嫌な予感がしていた。
床や壁を剥がす業者や電気関係の業者たちに挨拶しながら目的のエアコンのところに到着。
親方が腕まくりをして解体を開始。マイケルが手際よく部品を外していく親方をぼーっと見つめていると、親方は右手を差し出した。
「おい、パイレン」
「え? 今日はもってきてないデスよー」
「ああん!? なんでもってきてねーんだ!」
「だ、だって、エアコンの取り外しにパイプレンチは必要ないって小峠先輩がいってマシタ」
「人のせいにすんのかテメェ!」
親方がスパナでマイケルのヘルメットを叩きつける。
「アウチ!」
ちらちらと周囲の業者が視線を送ってくる。親方もそれに気づいたのか「へへへ、なんでもありませんよ」なんて腰を低くして弁解していく。
ほどなくしてまわりに人がいなくなり、親方はマイケルの胸倉を掴んだ。
「おい、いいかマイケル。これは教育だ。もし誰かに言いやがったらオメェ、クビだからな!」
「オー……」
「チッ……しかたねぇから溶断するか。おいマイケル! 車までバーナー取りにいってこい!」
「ハイ!」
「走れよ!」
「ワカリマーシタ!」
親方は唾を吐き捨てて作業を再開した。
午後八時半。仕事が終わり帰宅。けっきょくあのあとも取り外しが難航してなんども車まで往復させられた。
お隣さんの部屋の前を通ると「登録者が減ってるううううう!」という絶叫が聞こえた。
先月から入居してきた若い男だ。最近、よく女性を連れ込んでいるところをみかける。
なんだか楽しそうで羨ましい。
「ただいまデース」
誰もいない部屋に到着。出迎えてくれたのは筋トレ用のダンベルとベンチプレスのみ。
名前はチャッピー&グローリーだ。寂しさを紛らわすために筋トレ器具に名前をつけたがいまとなっては虚しいだけである。
カップ麺を啜り空のカップを握り潰してゴミ箱へ放り込む。
それから筋トレをして、流し台でタオルを濡らして体を拭き、頭を洗った。
たまには銭湯にでも行きたいところだが、金のないマイケルにとって入浴は娯楽だ。
それでもまったく潤いがないわけではない。
彼は敷きっぱなしのせんべい布団の上に寝転がって枕元のノートパソコンを起動した。
「ハロー、マリリン」
「ハロー、マイケル」
画面の向こうには愛する妻が白い歯を見せて笑っている。
このひとときだけがマイケルにとってゆいいつの癒しだ。
「
「ええ、もちろんよ。まいにち地獄のように大忙しだわ」
「ははは。そいつはけっこうだ。君はさしずめ地獄の看守ってところだね」
ふと、マイケルはモニタの景色がうす暗いことに気がついた。
時差を考えると向こうはまだ昼間のはずなのだが。
「ところでマイケル。次はいつ帰って----」
マリリンが話している最中に、彼女の後ろのドアが開いた。
現れたのは腰にバスタオルを巻いたケビン。マイケルの親友だ。
「ヘイ、マリリン。俺のパンツはどこにあったかな?」
「ワオ!」
マリリンが短い悲鳴をあげると、突如としてパソコンの画面が暗転した。
「……オーマイガ……」
マイケルはのっそりと立ち上がり、お隣さんの壁に額をつける。
「最悪デース……もうなにもかも最悪デース……」
仕事は辛いし親方は厳しい。しかも最愛の妻は自分がいない間に親友に寝取られていた。
この苦しみを少しでも吐き出すために、マイケルは壁に向かって恨み言を呟き続ける。
もしかしたらお隣さんに聞こえているかもしれないがそんなことはどうでもよかった。
マイケルにこの習慣ができたのは一昨年の冬からだ。
申し訳ないとおもいつつも、先住民である自分にあわせてもらいたかった。彼はそんな無言の我儘くらいしか、自分の気持ちを表に出すことができない状況なのだから。
道路側の壁は冬場になると非常に冷たい。
額を押し付けるなら冷たい壁より冷たくない壁のほうがいい。
どちらも暖かくはないけれど。
「親方ー……全部あなたが悪いデース……休みがないカラ……ホームに帰れないカラ……マリリンはケビンに……。シンデクダサーイ……オヤカタ……シンデクダサーイ……オネガイデース……」
あらゆることに鬱憤が溜まっていた。いつもどおり親方への恨み言を呟いていたが、彼はふと疑問を抱いた。
本当に親方だけが悪いのだろうか。
自分の帰りをまたなかったマリリンも、自分がいないことをいいことに妻に手を出したケビンも、上がっていく物価も、働きすぎな社会も、なにもかもが悪いんじゃないだろうか。
その悪い部分には、壁に向かって愚痴ることでしかできない自分も含まれている。
「わかりマシタ……いま、ようやくわかりマシタ……悪いのは世界デース……。親方も世界の一部デース……わたしも世界の一部デース……マリリンも、ケビンも、みんなみんな世界の一部デース……そして、世界中のすべてがわたしに牙を剥くのデース……」
今日も額をぐりぐり壁に押し付けていると、スマホがピロンと鳴った。
もしやマリリンだろうか。
マイケルは淡い期待を胸にスマホを開く。
メッセージの送り主はマリリンではなかった。
”おい知ってるか?”
”なにが?”
”なんでもダンジョンの十層には最強アイテムが置いてあるらしいぞ!”
”なんだよそれ”
”どうせ嘘”
”本当だって! ほら、前に防衛省が九層まで攻略したってニュースあったろ? でもあいつらは十層を攻略せずに引き返した。あれは、最強アイテムが発する魔法結界に適応できなかったかららしいんだ。”
”本当かよ”
”本当だって。並みの人間じゃ十層にいるだけで体が崩壊しちまうらしいぞ。ま、体がぶっこわれる覚悟があるなら使ってみろよ。”
”そもそも十層までいけねぇしw”
”俺ならそんなアイテムを手に入れたら売るね”
メッセージは、副業で所属しているギルドのオープンチャットだ。
大勢の会員たちが十層について話している。
「サイキョーアイテム……欲しいデース……人生変えたいデース……わたし、無敵になりたいデース……」
ほどなくして十層の話題は終わり、オープンチャットのメッセージは次の話題によってどんどん流れていく。
マイケルは虚ろな目で、いつまでもスマホの画面を見下ろしていたのだった。
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