バス停の母娘
武 頼庵(藤谷 K介)
バス停の母娘
「またね!!
「うんまたね……」
そう言いながら一緒にいたお母さんと思われる女性が、俺に声を掛けた小さな女の子と共に、バス停に停まったまま俺たちのやり取りを待っていたバスの中へと乗り込んでいく。
俺はそんな二人の姿を、手を振りながら見送っていた。
ただ、この時もそうだけど、俺の方を見て首を傾げたままの運転手さんには、まったくと言っていい程気が付いていなかった。
昇降口のドアが閉まり、プシュッ!! とバスから音が聞こえると、そのままゆっくりとバスは進み始める。
俺はそのバスの後ろ姿が見えなくなるまでずっと眺めていた。
中学時代までは慣れ親しんだ地元の普通の公立学校へ通っていたが、自分の学力に限界を感じていた俺は、地元で有名な進学校へと通う事を諦め、二つ隣りの市内にある普通の公立高校へと通う事にして、無事に合格することが出来た。
中学時代の先生には、地元にも俺に合う学力の学校が有るからと勧められていたけど、今のままの現状では自分の『先』が見えている気がしたし、何よりも地元に通うとなると知り合いもいるから怠けてしまいそうで、その事で今以上に『勉強』が苦手になる事を恐れた結果、男手一つで育ててくれた親父と、担任の先生を納得させるだけのものを提示して、晴れて通えることになったわけだけど――。
高校2年生になった俺、
俺が住んでいる場所は、新しいとは決して言えないアパートで、築何年かは知らないけどちょっとガタが来ているんじゃないか? と思える箇所がある建物である。
中学校へと上がる前には既に住んでいたので、今ではそれが普通になってしまっていた。
「ただいま……」
開けたドアがギギッ!! ときしむ音を廊下へと響かせながら、一人小さな声を出して中へと入る。
小さな声で声を出しているのはもちろん、自分の他には部屋の中には誰もいないからで、返事が返ってこない事は知っているから。
――まぁ慣れちゃってるけどな、今更……。
バイト帰りという事もあり、部屋の中は既に暗くなっているから電気のスイッチを探して照明を点灯させる。
親父と二人暮らしにしてはちょっと贅沢にも思うけど、住んでいる部屋の間取りは広い。自分用と親父用に部屋があるし、風呂とトイレは別。狭いながらもキッチンが付いているから、思春期になった自分にとってもプライベートが保てることはとても嬉しい。
自分の部屋でカバンをドサッと下ろして、制服から動きやすい部屋着に着替え、バイト先から帰るときに買って来た買い物袋をキッチンへと下ろす。そしてそのまま夕食の支度をする為に、棚の中から包丁を手に取った。
物心ついた時から――俺の記憶に残っている時から――ずっと親父と二人で生活しているので、一人で夕飯を食べるという事はもはや当たり前。俺の為にと一生懸命に働いてくれる、帰り時間の遅い親父の分まで夕食を作る様になったのは、親父の会社が業績を伸ばした中学生時代から。
自分でも何かできる事は無いかと考えた末でたどり着いたのが、家事全般をする事だった。だから料理もそれなりにできるようになったし、掃除や洗濯も嫌いじゃない。
というよりも好きな方という部類に入るかもしれない。
学校でいつも同じような日常があるわけじゃない。良い事もあるし嫌な事もある。ストレスももちろん抱える事になるけど、それは家事を無心ですることによって発散していた。
――母親……か……。
考えないわけじゃない。俺自身がこうして生きているという事は、俺を生んでくれた母親がこの世のどこかにいるわけで、でもそんな存在は俺の記憶の中には無くて……。
他の家の事を羨ましく思う事もあったけど、親父の一生懸命な姿を見て育ってきた俺には、特に『必要か?』と問われるとどちらでもいいという事が思い浮かぶだろう。
――まぁ、俺には時々会うあの
ふと、通学時や帰宅時に時々会うお母さんらしき女性と、まだ小さな女の子の事が頭に浮かんできて、ちょっと心が温かくなった。
その母娘との出会いは偶然で――。
高校がバス通学するしかない場所にあるので、毎日の様にバス停留所で待っていると、とある日の朝に道路の向こう側からバス停の有る自分の方へ道路を渡って来る、小さな女の子と手を引くお母さんと追われる女性の姿が見えた。
そこへ通勤時という事で、会社へと急ぐスピードを落とさずに近付いてくる車。
「危ない!!」
気が付いた時にはその母娘へ大声を張り上げてしまっていた。
「え?」
「きゃぁ!!」
「うわぁ!!」
ぶつかると思ってしまった瞬間に眼を閉じてしまった俺。
衝突した音などが越えてこないため、そ~っと眼を開けてみると、いつの間にかその母娘は俺の隣にまできていて、母親と思しき女性はじぃ~っと俺の事を見つめていた。
一緒にいた女の子は恥ずかしいのかずっと女性の後ろへと隠れてしまって顔も見えないまま。
「よ、良かっ……たです」
少し心拍数の上がってうるさい心臓部分へと手を当てつつ、俺はほっとした。
「ありがとう……優しいお兄さん」
ニコッという感じで俺に笑顔を見せる女性を、俺は何気なしにジッと見つめてしまった。
――綺麗な人だな……。この辺の人だよな? でも……こんな人見たこと無いような……。
「あの……」
「え!?」
何も言わないままの俺に、ちょっと困った顔をしたまま声を掛けてくる女性。
「私の顔に何か?」
「え? あ!! い、いえ!! なんでもないです!! なんでも……」
「そう?」
「あ、はい……」
クスッという小さな声が聞こえて、俺は女性の顔を見てしまう。その顔は本当に何かほほえましいものを見ているお母さんみたいな優しい顔をしていた。
――あれ?
俺は得も言われぬ感情が沸き上がってきたのを感じて、咄嗟に顔をそらしてしまう。
そのまま何も言わない時間がしばらくあり、乗り込むバスが到着したので、俺は急ぐようにそのバスへと乗り込んだ。
それがその二人との初めての遭遇となった。
その母娘の事との邂逅から先は、バス停でその母娘に会う度に交流を重ね、初めは俺の事を見てくれる事の無かった女の子は、お母さんの後ろに隠れる事も無くなり、だんだんと仲良くなっていった。
顔を合わせれば話をするし、どちらかが先にバスにのりこんでいけばそれを見送ったりすることが日常になった。
そんな日々を送れば少しずつでもその母と娘に興味が出てくるもので、聞くところによるとその母娘は離婚してしまって、俺と親父のように二人で住んでいるらしい。らしいというのもなんだかその辺を深く聞いてしまうといけないような気がして、それ以上に踏み込んでいけなかった。
ある日、俺は思い切って俺の母親の事を親父に聞いてみた。なんとなく……本当に何となくなのだけど、あのバス停で出会う母娘の事を考えると、自分にとっての母親とはどういう人だったのだろう……という漠然とした思いが湧いてきたのだ。
聞いたばかりの時は、時に言葉を詰まらせるようにしながらも、時間をかけて母親のことを話してくれた。
俺の親父もまた、俺が小さい時に離婚したそうなのだが、体の弱い母は帰りの遅い親父に対して色々と思う事が有ったのだという。親父が言うにはだが、夫婦の仲は決して悪かったわけではなく、逆にケンカらしい喧嘩もしたことが無かったらしく、母から離婚を切り出された時には『何故?』という疑問が一番最初に浮かんできたそうだ。
――それから先は俺を育ててくれた親父の事は尊敬はしている。けど……だからと言って、親父の言う事を全て信じようとは思わないけどな……。だって俺はあまり記憶が無いのだから。
「それにな真人……」
「なんだよ?」
苦虫を噛み締めたような表情をしたまま、親父はぼそりと言葉を紡ぐ。
「真人……には妹もいたんだ」
「え?」
「妹の名前は……娘の名前は
「実里……俺に妹が……」
「あぁ……」
それ以上俺には何も話してくれなくなった。だから俺もそういう存在がいる事は知れても、『だからどうする?』という事は考えずにいた。
――妹か……
最近仲良くなった女の子とのことを思い出しつつ、俺は静かに何か考え事をし始めた親父の元を去って、キッチンへと向かい夕食の支度を始めるのだった。
それからも何回も――いや何回もというよりも定期的に――その母娘にはバス停で会い。少しの時間を一緒に過ごす事が増えた。
しかし、出会いもあれば別れも有るのは仕方のない事で、それから約2年後、俺は高校を卒業し、少し離れた場所にある大学へと進学することが決まった。
慌ただしくも過ぎる時間、進学先に向かう日にも偶然にもその母娘と出会うことが出来て、少しの間住んでいる場所へは簡単に帰ってこれない事などを話した。
母親の方は黙って頷いて聞いてくれていたのだけど、女の子の方は凄く悲しいようで泣きじゃくってしまった。そこは流石お母さんという事なのか、頭を撫でたりする事でしばらくすると泣きやみ、俺に笑顔を向けてくれた。
――何だろう……どうしてか分からないけど、ホッとしてる自分がいる……。
どうしてそんな感情を持ってしまったのか分からないけど、この二人に会えなくなる事を悲しんでいる自分がいる事に、この時初めて気が付いてしまう。
――それだけ仲良くなったという事かな?
俺は自分にそう言い聞かせ、二人に見送られて新天地へと旅立った。
1年というサイクルはあっという間に過ぎていく。
何かあれば俺も地元へと戻り、数日から数カ月過ごす事もあるのだけど、あれだけ会えなくなることが寂しいなと感じたモノも、忙しさや楽しさの中でついつい忘れて行ってしまうモノ。
だからというわけではないのだけど、地元に帰った時に出かける時に使用する移動手段といえば、運転免許証を取得していない俺には限られてくるわけで、やっぱり使う頻度が多いのはバスという事になる。
そして、久しぶりの帰郷という場面ではバス停で待っていることになるわけだけど、そうするとやっぱり出会うのがあの母娘である。
出会えば話は弾むし、楽しい時間なのだ。だからこそ
大学に通っていた4年間、帰郷するときは決まってその母娘には会っていたし、自分には側にそういう小さい子がいるという環境じゃない。
だからこその違和感。
それを感じ始めたのは大学を卒業して、大学近くの企業に就職し、初めて実家へと戻ったちょうど蝉のうるさくも季節感が感じられると時で、その日は特に暑く、夕方になったというのに道路からはゆらりゆらりと陽炎が漂う日だった。
ようやく慣れて来た仕事にも、さすがに彼の色を隠せない除隊で元に戻ってきた俺は、降りるバス停にていつもの母娘ではあったのだが――。
――あれ?
出会って会釈して過ぎに感じたちょっとした違和感。
二人は俺がバス停に降り立った時には既にそこに居たはず。なのに、暑さを感じて居る事が無い様に、涼し気な微笑を俺に向けてくれた。それはまぁ何となく『そういうこともあるかも?』とは思うのだが、この二人は何と汗をかいている様子が無かったのである。
間違いなく乗ってきたバスではクーラーによる冷気がガンガンに車中に流れて居たのにもかかわらず、絞ったら滴りそうなほど着ていたシャツは汗に濡れていたのにもかかわらず、それとは反対に屋根くらいは有っても、小屋とも言えるようなモノしかないバス停に居たはずの二人がである。
更に言うと――。
「今日は妹ちゃんかな?」
「え?」
母親と一緒にいた女の子は、初めて俺と出会った時と同じ様な恰好をしているし、顔もその当時の女の子とそっくりの顔つきをしているので、俺はそう思ってしまったのだが。
「あらあら?」
スッと女の子は母親の後ろへと隠れてしまった。その様子を見て苦笑いする女性と、出会った当時を思い出して『やっぱり似ちゃうものなのだな』と思う俺。そんな些細な違和感だったのだけど、結局は話をしてしまうと忘れてしまった。
それから毎年、同じ頃になると実家に戻る様になった俺。
同じような出来事が続いていたのだけど、30歳を迎えるのに2年残して、俺の隣に一人の女性を連れて実家へと帰省したその年。
それが俺にとっては忘れる事の出来ない出来事となった。
「あ、今日もいたな」
「え?」
いつものように俺は恋人から念願かなって奥さんへとなってくれる女性を伴って、変える時にいつも利用しているバス停へと近付いていくのを、バスの中から見つめていた。
もちろんそれにはあの母娘がいてくれたらなという期待を込めていたのだけど、俺が期待している通りになったので少し嬉しかった。
これから先、親しくなった人には奥さんになる人を紹介しておきたい。そんな想いも有ったので、そこに居る事を期待していたのだけど、二人を見つけてしまっただけで声に出てしまっていたようで、隣りにいる
バスから降りて一息つくと、俺はそこに居た二人に向きを変える。
――あれ? ちょっとまって……。
そこで感じた違和感。
「どうしましたか?」
「え? あ、いえ……その、お子さんです……よね? 妹さんが生まれたのですか?」
俺に向かって微笑んでいる女性に向かって質問する。
「え? この子ですか?」
「はい。あの……大変似てらっしゃるようなので……」
俺は女性にくっついて離れない女の子を見ながら返事をした。
「違いますよ。この子はいつも会っているじゃないですか?」
「え?」
笑顔を崩さないままで俺に向かって断言する女性。
「は?」
――いやいやそんなはずはい。あれから出に数年経っているのだから、
俺は女の子から母親の方へと視線を戻す。
「っ!?」
――そ、そんな……そんなはずはない!!
女性の顔を見た瞬間に現実では考えられないようなモノをてしまった感覚に陥る。
――変わってない!? 何も変わってないだと!? 歳を重ねて居るはずだし、お子さんも生んでいるはずなのに!?
女性の姿は初めて俺があった当時と全く変わらず、いや少しばかり顔色が色白い位のままなのが信じられずに言葉を失う。
「そちらの方は?」
「え? あ、その……つ、妻になる
「あら!! おめでとう!! そう……真人もそんな歳になったのねぇ……」
「い、今……何て?」
フフフっと笑顔を見せた女性は、側にいた女の子をスッと抱きかかえ上げた。
「ほら、み~ちゃん。お兄ちゃんがお嫁さん貰うらしいわよ?」
「え? お嫁さん!?」
抱きかかえられて俺の方を振りむいた女の子の表情はとても嬉しそうだ。
ちょうどそんな話をしていると、次のバスがバス停へと近づいてきて、俺達をヘッドライトの光が包み込む。
「なっ!?」
――な、なんだ!? 何が起こっている!?
俺の目の前にいるはずの二人の姿が、ちょうど光が重なると同時に、俺の視界からスッと消えた。
しかし、バスが移動してバス停へと停まると、また二人の姿がスッと戻って来る。
「真人……もう大丈夫そうね……」
「え?」
そう言うと女の子を抱えたまま、女性はバスの方へと歩いて行く。
「真人、誰と話しているの? 電話しているの?」
「え?」
俺の方へと近付いて来る慶子が、不思議そうな顔をしながら声を掛けてくる。
「いや、今ここにいた母娘と……」
「親子? 誰もいないわよ?」
ぷしゅー!!
がこん!!
大きな音と共に停まるバス。同時に開き始める乗車口のドア。
開いたと同時に乗り込もうとする母娘の姿が俺にはっきりと見えている。
「真人……もう大丈夫ね。奥さんを大事にして上げなさいね……」
「へ?」
「お兄ちゃん。
「は?」
バスに乗り込んでいく二人は微笑みながら、優しく俺に声を掛ける。
「お客さん。お乗りになられないのですか?」
首を傾げたままの運転手の声にハッとする。
「あ、はい。俺達は……乗りません」
ガタンという音を残して閉じるドア。そしてそのままバスは走り出す。その姿が見えなくなるまで俺はその場から動けずにいた。
「え? ちょっ!? どうしたの真人!?」
「なに?」
「何って……泣いてるわよ、あなた……」
「そうか……泣いているのか、俺……」
そのまま俺がきやむまで、バス停にて休むことにした。
――どうして? いや、あの女性はたしかに俺を真人って呼んだ。そして女の子はみのりって……実里って……まさか……。
一遍に色々あって分かんねぇや……帰ったら親父に聞いてやる!!
実家に着いた時にはすっかり疲れはてていたけれど、先ほどあった事を無かった事にはできないと、既に慶子を連れて帰る事を連絡していたので実家にてまっていた親父に、先ほど起こった事と、以前からその母娘に会っていた事などを話した。
初めの頃は何の話をされているのかからない様子だったが、途中から親父の表情は堅くなっていた。
慶子はその間もジッと話を聞いていてくれたけど、時折俺の背中へと手を回してくれたのが、凄く優しさを感じたし、何となくあの女性と同じ様な感じがした。
「そうか……そんな事が……」
「あぁ……」
バス停で先ほどあったことまでを話すと、それまで黙って聞いていた親父がスッと立ちあがり、自分の部屋へと歩いて行った。
数分の間は慶子と二人きりでいたが、親父が何やら手にして戻って来る。
「これは?」
目の前に置かれた一つのアルバム。親父は黙って中を見るようにと促す。
パラリ
パラリ
初めの方には親父と小さい時の俺の姿が写された写真が会って、その先へとめくっていくと――。
「こ、このひと……は?」
「母さんだ……」
開かれたページを埋め尽くしていた写真には、女性の姿と赤ん坊の姿が有った。
「そうだ……妹の実里だ……」
「これが……実里……」
「真人……バス停で会っていたのはこの二人か?」
「そう……だと思う」
少し進んだページには少し大きくなった実里と、それを抱いている母さん。そして少し大きくなった俺と思わしき姿が写された写真が有った。
――いやでもおかしい!! 俺が会った二人はこの姿をしていたぞ!!
「この二人は……今どこに?」
「…………」
「分からないのか?」
「いや……。もう居ない……」
「は? 何を言って……」
「死んだんだ……。もう何年も前にな……。だからもうこの世には居ないんだ」
「な!?」
あまりの事にその先の言葉が出てこない。
静かになった俺に向けて、そして俺の妻になる慶子へと向けて、親父が静かに話し始める。
離婚が決まった親父と母さんは、共に住んでいた場所から離れることにした。母さんは実家のある二つ隣りの県へ、親父は会社に近い場所へと引っ越しをする事になったのだが、運が悪く親父の出張が重なり、しばらく家を開ける日が出来てしまったという。
母さんはその間に俺と実里を預ける為、実家へと自動車を運転して向かう事にしたのだが、その道中に居眠り運転をしてきた大型トラックと正面衝突し、母さんと実里は潰れてしまって隙間の無くなった車の中へと取り残された。俺は衝撃により車から放り出されてしまったようで、道の路側帯にある草むらの中で倒れていたらしい。
直ぐに救急隊とレスキューによる救助が行われたが、母さんと実里は助け出された時には既に息が無く、その後病院に運ばれたがそのまま亡くなった。そして俺もまた病院へと運ばれたのだが、打ち所が悪かったのかそれとも事故のショックからなのか、その当時の事を全く記憶していなかった。
そして母さんと実里の葬儀を済ませても、二人がいたという記憶もまた俺の記憶から無くなってしまっていた。
それから親父が男手一つで俺を育ててくれたのだが、そこからの事は鮮明に覚えている。
「あ、じゃぁいつもお盆になるとお参り行く所って……」
「そうだ。代々の墓でもあるが……母さんと実里が眠っている」
「そっか……じゃぁ、俺が会ったのは……話していたのは……」
「きっと……お前の事を見守ってくれていたから、姿を見せてくれていたんじゃないか?」
「そうか……母さん……実里……」
俺は自然と溢れだす涙を止める事が出来なくなっていた。
そんな俺を後ろから優しく包んでくれる慶子。その温かさにまた涙が溢れだすのだった。
「……ここ?」
「あぁ……」
目の前には俺が小さい頃からお盆になるとお参りをしていた一基のお墓がある。
親父と話をした次の日、慶子は何も言わずに用意を始めていたようで、こうして二人でお墓参りをする事にした。
お墓周りを綺麗にして水を変え、お墓へ水を流す。
持ってきた花束やお供え物をしっかりと供え、静かに線香へと火をつけた。
「俺……元気だよ。ありがとう……見守ってくれて……」
「…………」
お墓の前で二人手を合わせる。
「今まで忘れててごめん!!」
「真人……」
「俺……幸せになるから……二人の分も……」
「私も……」
そのまま静かに、ただただ静かに手を合わせ続ける。
「さ、帰ろうか……」
「そうね……」
立ち上がり、もう一度お墓に向けて礼をして、荷物を持って歩き始める。
『真人……幸せになってね。慶子さんよろしくお願いします』
『お兄ちゃん!! またね!! バイバイ!!』
夏にしてはとても涼しい風が俺と慶子の間を吹き抜けていく。その風に乗ってそんな声が俺に聞こえた気がした。
俺は立ち止りお墓の方へと振りむくと、同時に慶子も振りむいた。
「あぁ……二人共……またな」
「任されました……」
フフッと二人微笑みあう。
そして――俺達は新たな家族としての一歩を踏み出した。
バス停の母娘 武 頼庵(藤谷 K介) @bu-laian
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