A-side:2-7

 シルバーバレットの三人組との付き合いを話すと、かなり長くなる。まず、店主の高畠みゆきとは大学生時代からの付き合いで、もう少しで十年になるかならないか……だったと記憶している。私が大学で文学の勉強という名の実質的なモラトリアムを過ごす中で、私とこいつとはライブハウスで出会った。その頃の彼女は酷く荒れていて、今でこそライブハウスの店主を務めてはいるが、当時は本当に荒れていて、女だてらに殴り合いの喧嘩をするような有様だった。話によれば彼女は音大で声楽を学んでいて、将来はオペラ歌手になるつもりだったらしい。その夢破れて、何もかもがどうでも良くなった時期に会ったのが私だった、というわけだ。

 その頃の私は既に『穢土』として活動を始めていて、今とは違うメンバー構成でエニドのコピーバンドを目指していた。

 私は彼女の酒浸りと喧嘩を取り敢えずやめさせ、彼女の声を聴いた……それは非常に美しいものだった。何らかの事情があって彼女はその夢を諦めたのかもしれないが、その声は無駄に潰すにはあまりにも惜しかった。

「酒飲んで、叫び声あげてたら……私みたいな声になっちゃうよ」

 既に当時、私はもうブラックニッカと義兄弟の契りを結んでいて、毎日のようにウィスキーを飲んでいたものだから、その声は当時から今に至るまでガラガラで、スレた音しか出てこない。

 当時の彼女はこう言った。

「必要ない。だから、潰さなきゃいけないの」

 彼女が自暴自棄に陥っているのは明らかだった。

 私は言った。

「ねえ、歌おうよ」

「何を? 何を歌えって言うんだよ」

「ルネッサンスだよ!」

「は?」

「知らないかな。プログレッシブ・ロックのバンドでさ。綺麗な高音が出せるボーカリストがメインに座っているんだ。名前は……えっと。えー、そう。アニー・ハズラム!」

 君は和製アニー・ハズラムだ! 私はそう言った。

「誰だよ。知らねぇ……」

「そりゃ知らないよ。マイナーだもん」

 でもさ。

「ルネッサンスのカバーなんて普通出来ないんだ。みゆきはさ、物凄く綺麗な高音が出せるじゃないか。プログレには女性なんて殆ど居ないんだ。音大なんてもうどうでもいい。みゆきのことを評価出来なかった場所に対して意気地になるような必要なんて、どこにもない。音大では灰かぶりでも、プログレにくればみゆきは女王サマなんだ。さあ!」

 一緒に、音楽をやろう!

 そう言って私は『穢土』に彼女を加えた。それから紆余曲折あって彼女は穢土からは抜けてしまうが、ある時にライブハウスを開くことを決めた。それが今のシルバーバレットだった。

「あの頃のみゆきは、可愛かったなあ」

 一杯目の生ビールを飲み干した後、私は彼女の顔を見てそう言った。

「何回その時の話するんだよ。酒飲みに行くといつもこれだ」

「私は好きですけどね、この話」

 音響の伊勢沙羅はワインを飲みながら言って、笑う。

「やめようぜいい加減。私の暗黒期の話なんかされても嬉しくない……」

「でも、和製アニー・ハズラムってのは嘘じゃなかったんだよ~?」

「それにしたって、誰に言っても通じなかったじゃねえか。誰? アニー・ハズラムって。そんな反応だったじゃんか。AQUAのルネ・ニューストロンとかの方がよほど通じるだろ」

「AQUAなんてつまんないグループ、聴く気もおきないね」

「それはお前がプログレッシャーだからだろ」

「プログレッシブ・ロックメインのライブハウス経営してるくせに、よく言うよ」

 私達の会話の応酬を聞きながら、伊勢はやはり、微笑む。一言。

「仲が良いですね」

 とだけ言って。

 彼女……伊勢沙羅との付き合いは五年程度である。ライブハウス・シルバーバレットを立ち上げる際の求人に応募したのが彼女だった。彼女は一部のライブハウスではかなり嫌われていて、メンヘラだとか、サークラだとか言った悪評が付き纏う人物だった。彼女が性質のその片鱗を見せつけたのは、ライブハウス・シルバーバレットで穢土がこけら落としとして最初のライブを行った時の打ち上げでのことだ。

 穢土メンバーのみならず、シルバーバレット開業に関わった複数の人々を呼び込んだ飲みの場で彼女は唐突に。

「一発芸やりま~す」

 と言った。場が盛り上がり、全員にそれなりに酒が回っている頃合いだった。

 彼女はいつも着ている長袖の服の袖をまくった。そこにあったのは多数のアムカ跡。――そこに醤油を垂らして、一言。

「イカ焼き~」

 一瞬、飲みの場が凍りついた。今まで彼女について悪評を漏らしていた人々が言っていたのはこのことだったのか……と、後で理解した。しかし私はそれを見て――爆笑した。

 理由は簡単だった。……もし誰かが、この場で笑って、笑ってやらなければ彼女はまた同じことを繰り返してしまう。同情と軽蔑の混合物ジャムに塗れて、誰も彼女の本心に迫ろうとしない。そうしてまた以前と同じように、このシルバーバレットの中でも孤立してしまう。そう確信したからだ。だから……私は笑った。大いに笑った。頭がおかしいんじゃないかと思われるぐらい、思いっきり笑った。何人かがつられて笑う。こうなればもう誰も彼女が実行した蛮行を思い出すことはあるまい。

 事実、彼女は何人かに本気で笑われたのを恥じたのか、すぐにおしぼりで醤油を拭き取り、その傷跡残る右腕を袖の中に隠し戻した。

 飲み会のあと、みゆきは彼女を呼び出してこう言っていた。

「お前のそれは自傷行為だ。みっともないから、もうやめにしろ」

 以後、彼女は……このシルバーバレットの主な従業員が女性だけだったのも幸いしたのか、そうした行為を控えるようになった。……時おり、彼女の被害者らしき人物に出会うと、彼女がシルバーバレットで何か粗相をしてはいないかと問い質してくるが、私はいつも。

「何もないよ。別の誰かと勘違いしてるんじゃない?」

 と返す。そう返された相手はいつも釈然としなさそうな顔で私を見るが、事実、シルバーバレットにおける彼女は実におとなしいもので、時おり乱暴な仕草を見せる高畠や、常に適当な私と比較すれば、シルバーバレットで相対的に見て一番マトモなのは彼女である、と言えないこともないのであった。

「そう言えばさぁ、妹ちゃんは元気してるの?」

「お前の顔は見たくないって」

「そういう意味じゃなくて」

「あ? まあ、そうだな……元気、なんじゃねえかな」

「なんかハッキリしないね」

「最近はなんかバンドやるとか言ってさ。ドラム始めたらしいんだよな」

「血筋を感じますね」

「別に、うちは音楽家の血筋でも何でもねえよ……親が成り上がり者だからって、文化資本がないのをコンプレックスだと思っているだけの、中途半端な上流家庭だよ。ウチなんて……」

 面白くも何ともない。そう言ってみゆきはジン・トニックを飲み干した。

「でもさぁ、高校でバンドやるっていいことじゃない? 青春って感じでさあ」

「普通にやってりゃいいことだよ? でもな、なんつうかアイツはバランス感覚を欠いているというか……何か、焦っているような気がする」

「女子高生なんてそんなモンじゃん」

「そうかぁ?……まあ、そうなのかもな。でもなんか見てて心配」

「でもさ、それって、やっぱ、あれじゃん」

「おい……廣川。テメエ今シスコンって言おうとしただろ?」

「言ってない」

「言おうとした!」

「言ってない! 疑わしきは被告人の利益に!」

「私に法が通ずると思うてか!」

「この野蛮人! 北京原人!」

「プログレオタクよりはマシだろ……」

「なんですとぉー!」

 結局、この日の夜。私が二人に誘いをかけた根本的な理由。ある質問を投げかけるという目的は、達せられることがなかった。

 私は二人に、こう質問したかったのだ――シルバーバレットで、私達はいつまで遊んでいられるんだろう? って。

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