A-side:2-5
錦糸町駅から徒歩十分圏内に私の住むアパートはある。月四万円弱のトイレ・シャワー共同、築七十二年のそのアパートは名称をグラン・セノーテと言う。アパート設備のうちシャワーとトイレのみがリフォームされた中途半端なその家はキッチン付きの四畳半。キッチン周辺に少しスペースがあるが、部屋の大半と同様、物で溢れ返っている。……元は和泉荘と言う名前だったそうだが、トイレのリフォームとシャワー室の増設を気に名称を変え、現在のグラン・セノーテを名乗るようになったという。この経緯が如何にも詐欺的で、美しい泉をその名の由来としながら、実態は汚く埃まみれの物件であることから、他人に話す時にはマルセル・デュシャンの泉のようなものだ……と言って回っているが、このネタが通じることはあまりない。
部屋にあるものの大半はゴミで、ゴミの山の中に幾らかの本と大量のCDが詰め込まれた棚と、音楽活動で使う機材が幾らか置いてある……年がら年中不規則な生活をしていて、例のシルバーバレットでバイトがある日はバイトのこと以外何も考えられなくなるため、ゴミ回収の日を完全に忘失していることが多い。――今は足の踏み場があるだけまだマシだが、シフトが重なったり、忙しかったり、体調が悪かったりした時には殆どゴミ屋敷の様相を呈する状態にまで悪化することもある。もし仮にゴミが綺麗すっきり全てなくなればそれなりに広く感じるのであろうこの部屋も、常にゴミが溜まっている以上、入居時に見たような綺麗な畳を見ることはかなわないであろう。万年床と化した就寝スペースもたまには掃除しなければならないが、恐らく一年以上は敷かれたままであろうそれをめくる勇気が私にはない。埃積もった部屋に一人眠るシンデレラと嘘ぶくにも、その実態はゴミ屋敷に住む怪物であり、まだ"おばさん"と呼ばれる歳ではないにせよ、染めた髪に手の甲のタトゥーを見ればせいぜいが魔女の形容が相応しいものである。
そうして二日酔いの迎え酒に買ったブラックニッカのポケットサイズを錦糸町駅のホームで飲み終え帰宅すれば、いつもの汚部屋が私を出迎える。冷蔵庫の中にある発泡酒を取り出し、一口飲んで息をつく。
「あっ」
そこまでやってようやく気が付く。キーボードをどこかに忘れてしまった。命の次に大事なキーボード……購入した時に、ゴドフリーかエマーソンかで悩んだ末に、ゴドフリーではあまりに畏れ多いと言って"エマーソン"と名付けたあのキーボードがどこかに行ってしまった。
私はまたバンドのグループチャットにコメントを書き込む。
<エマーソン>
<どこ>
既読1。
<打ち上げの時点で店に忘れてたのでシルバーバレットに置いときました>
山崎からの返信。
<よかったーーーー>
そう書き込んで喜びを示す私を無視するかのように、山崎はコメントを繰り返す。
<三回に二回ぐらいなくしますよねキーボード>
<お酒ほどほどにしないと死んじゃいますよ。マジで>
<今後は程々にしますよー>
そうコメントしながら私は発泡酒を飲み干している。これも、いつものことだった。
<ヤマザキも甘いものはほどほどにね>
山崎も下戸で酒を取らないというだけで、実際には甘いものを大量に食べる悪癖がある。男子の癖してケーキ屋巡りと喫茶店巡りが趣味で、SNSを見れば洒脱な喫茶店でこれまた洒脱に村上春樹などを読んでいる始末なので、SNS上の彼を女だと勘違いする奴が跡を絶たない。……SNSにアップしていないだけで、裏では業務用スーパーで買ったパウンドケーキを一本丸ごと、大量のカフェオレと煙草で消費しているのが彼の実態であるが、そんなのは見ぬが花、言わぬが花の聞かぬが花である。
<そりゃお互い様ですよ笑>
彼はグループチャットでそう言葉を返す。会話は、そこで終わる。
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