9

 二人の会話に聞き入っていたレインの心臓が、破裂するほどバクバクした。突然会話が止まってしまったことに、頭の中が真っ白になる。


 ――もしかして、俺がいることに気がついたんじゃ……


 狼狽えるレインは、後ろで何か小枝を踏むような音がしたことに気がついた。

 しゃがみ込んだ態勢のまま、首を縮めて恐る恐る振り返ると、背後の木々の間に、いつのまにかアレックスが立っていて、こちらをじっと見つめていた。

 レインは驚きのあまり目を大きく見開いて、その体勢のまま固まる。


 ――何でここにアレックスが……


 あやうく心臓が止まりそうになるほど動揺する。どうしようとパニックになるが、樹木の脇にある照明灯のランプがアレックスの姿を照らし出す。その視線は、レインを見てはいなかった。

 アレックスは吸い寄せられたように、垣根の向こうにいるハーツとギルフォードだけを凝視していた。その表情はひどく青ざめ、唇がわずかに震えていた。

 ようやくレインは、アレックスの様子が只事はないことに気がつく。


 ――どうしたんだろう。


 息を詰めながら、そっと身じろぎする。すると、アレックスはその時になってレインの姿が視界に入ったように、軽く視線がさがった。

 レインと目が合う。

 アレックスの青い瞳が、怯んだように揺れた。次には踵を返すと、その場を一度も振り向かずに走り去っていく。

 えっ? とレインはアレックスを目で追いかけるが、すぐさま見えなくなった。

 辺りは、奇妙に沈黙したままだ。

 まだ心臓がバクバクしているレインは、一つでも身動きすれば銃撃されるというように、石像のようになっていた。その耳に、やや憐れむような声が聞こえてきた。


「彼も、君を忘れられないのかな」


 ハーツだ。


「君は本当に悪魔だよ、ギル」


 どこか挑発するような口調だった。

 対して、ギルフォードの返事はない。

 代わりに、その場から歩いていく一つの足音が、かすかにした。人の気配が遠ざかっていく。

 やがて、ハーツの深い溜息が落ちた。何事かを呟くと、ギルフォードとはまた反対方向に気配が消えていった。

 レインは二人がいなくなっても、しばらくの間しゃがみこんでいた。気づかれなかった安堵感と、途轍もなく重い荷物を背負ってしまったかのような不安が、全身を交互に襲っていた。


「……どうしよう」


 レインは無意識に胸の前で両手を組んで、祈る姿勢になっている。


「オレ、どうしよう……」


 隠れて見てしまったということに、激しい罪悪感が湧き起こる。バカだ、オレ。どうして隠れちゃったんだ。あのまま普通にしていれば良かったのに――

 そして、様子のおかしいアレックス。

 この間の件といい、アレックスはギルフォードと何かがあったんだろうと、さすがに確信した。そのアレックスに隠れていた自分の姿を目撃されて、ヤバいと焦るレインである。


 ――いざとなったら、素直に謝ろう。


 性根がまっすぐなレインは、拳を握ってそう決心すると、どうにか力を踏ん張って立ち上がった。周囲に人気はなく、暗い中庭でランプの光が眩しく光っている。

 帰ろうとしたが、部屋にはアレックスがいることを思うと、気まずくなった。


 ――でも、隠れて見ていたオレが悪いんだしなあ。


 正直、アレックスのことも心配だった。

 レインはしょうがないと覚悟して、来た道を戻り、まっすぐに宿舎へ直行した。その途中で、ハーツ監督やギルフォードと出くわさないようにと祈るような気持ちだったが、通りがかったラウンジで、ゲイリー、スターン、テレンスにナイジェルの四人が真剣にポーカーをしている光景を見て、ちょっと笑ってしまい、いくぶん緊張が和らいだ。

 階段をあがり、奥の通路を進んで、一〇八号室の前で立ち止まる。両目を閉じ、静かに大きく息を吸って、肩の力を抜くように深く吐き出し、胸元を手で押さえた。


「よし……」


 気持ちが落ち着いてきたのを感じてから、目を開けて、何事もなかったように――けれども恐る恐るという感じは拭えずに、ドアを開けて室内へ入る。

 部屋は、照明が点いていて明るかった。

 アレックスは、自分のベッドの上に腰を下ろして、携帯をいじっていた。

 レインはごっくんと息を呑み込んだ。何をしているの? とか、まだ寝ていなかったの? とか、何か声をかけようとしたが、舌がうまく回らない。口の中が渇いてきたので、黙ってドアを閉めると、シーンとした空気をぬうように、アレックスと向かい合う形で自分のベッドの上に座った。

 アレックスは俯いたまま、携帯をいじっている。

 レインもかける言葉が見つからず、ベッドの脇に置いたボストンバックから携帯を取り出して、とりあえずアレックスと同じことをする。重たい空気を跳ね除けて、声をかけるチャンスを伺うように、アレックスをちらちらと見た。


「――レインは」


 ふいに、アレックスは口をひらいた。


「あそこで何をしていたの?」


 下を向いたままだ。

 レインは素直に白状した。


「散歩だよ……何かここへ来てから、練習でもうまくゴールが決められなくってさ。悩んでんだ、オレ……たぶん、プレッシャーなんだと思う」


 垣根の下に隠れていた理由は言わなかった。レイン自身もどういう言いわけをしたらよいのかわからない。


「……プレッシャーか」


 アレックスは少しだけ顔をあげた。


「レインは初招集が、初代表だからね」


 レインを向いた。その表情は慰めるように優しかった。


「僕がはじめて、イングランド代表に招集されたのは去年なんだ……それまでは、世代別の代表に招集はされていたけど、スリーライオンズに選ばれた時の気持ちは別格だった。ワールドカップに出場するチームだからね」


 スリーライオンズはイングランド代表の愛称である。


「イングランドはサッカーの母国だ。でもワールドカップで優勝したのは、一度っきりだ。だからみんな、期待するんだ」


 レインの脳裏に、家族や友人たちの興奮した姿がよぎる。代表に初招集されたと知った時の、みんなのはち切れんばかりの期待に満ちた笑顔。


「でもね」


 アレックスは続けて言う。レインの目を見ながら。


「レインが前線でゴールを狙っているとき、僕は後方で守っているんだ。何を言いたいかって言うとね、サッカーは一人でやっているんじゃない」

「それは、そうだけど……」

「サッカーは十一人でやるスポーツなんだ。そうだろう? レイン」


 レインが感じている重圧感を魔法で追い払おうとするように、言葉に力がこもる。


「だから、レインが背負っている荷物は僕も背負っているってことだよ。十一人で背負えば、荷物も軽くなるだろう? 誰もさぼらなければの話だけどね」


 アレックスはおどけるようにウィンクをする。


「すごくシンプルなんだよ、サッカーは」


 レインの目が、軽く瞬いた。アレックスが自分を慰めてくれるとは思いも寄らなかった。あの中庭での不審な様子を問い詰められると覚悟していたのである。


「何か言いたいことがある? あと一分以内だったら、僕も質問コーナーで受け付けるよ」


 レインが自分を不思議そうに凝視しているので、アレックスはちょっとだけ苦笑いした。


「えーと、そうだね」


 レインは素直に感じたことを吐き出した。


「すごいね、アレックスは」


 言われた当人は、今度は吹き出した。


「それ、質問じゃないだろう」

「でも、本当にすごいなって。オレ、自分のことばかり考えているから」


 アレックスのように他人を気遣える余裕すらなかった。


「ありがとう、アレックス。気持ちが少し楽になったよ」


 すごくシンプルなんだよ、サッカーは――そのシンプルな言葉自体が、胸の中にすんなりと落ちた。


「褒められるようなことはしていないよ。レインの気持ちは、すごくわかるからね」


 照れたように目を伏せる。茶色い睫毛が揺らいだ。


「僕もはじめて代表に選ばれた時は、それはもう緊張したからね。その時、ある人に言われた言葉なんだ」


 どこか懐かしむ口調だ。


「そのある人って、サッカー選手?」

「そうだよ」

「へえ、誰だろう。優しい人だね」


 きっとチームメイト想いの選手なのだろう。レインはその選手を勝手に頭の中で想像してみた。

 だがアレックスはそれ以上何も言わず、手にあった携帯をベッドの端に置くと、立ち上がった。


「それじゃ、そろそろ寝ようか。明日が最後の練習日だからね。最高のコンディションで、試合当日を迎えないとね」

「うん」


 レインも元気に立ち上がる。中庭での出来事は、もうすっかり記憶の片隅で丸められ、仕舞われてしまっていた。

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