[2] 下山

 額祭は目の前の空間をにらみつけるとその場所に指先ほどの大きさの炎を発生させた。

 暗闇の中に生じた炎の塊は空気のかすかな揺らぎに伴い球体に近づきながら離れていく。まるで自分の心を映しているようだと思う

 術とは何か?

 念じ奉ることによって、遍在する巡の力を借り、この現世に奇跡を呼び起こす、その体系である。額祭はそう教えられてきたし、そう信じてきた。

 果たしてそれは本当なのだろうか?


 山洞は巡系教機縁宗の本拠地として知られる。その場所ではたくさんの僧侶が洞穴にこもり日夜修行に励む。

 巡系教、その中でも機縁宗はとりわけ術によって人々に現世的な利益をもたらすことで、その勢力を拡大してきた。現存する術者のうち上位のほとんどは山洞がその席を占めている。

 額祭は自己を顧みて思う。謙遜は美徳であるが、自身の能力を正確に測ることも必要だ。

 彼は公家に男子として生まれた。といっても母の立場は弱く、成人前に山洞に放り込まれた。体のいい厄介払い。彼自身、無駄な争いに関わりたくないと思っていた。

 けれども自分には才覚があった。そのまま目立たぬ存在で終わるはずが、術者としての腕を伸ばしていった。

 気づけば、最高位には届かずともその一歩手前のところまで上り詰めていた。


 学ぶことが単純におもしろかった。

 今にして思えばそれは当然のことだ。過去の自分は何も求められていない存在だった。

 誰かの邪魔になることさえなく、ただ呆然と生きていて、そして生きるとはそういうものなのだと考えていた。子供のことだからそこまで明瞭に意識していたわけではないけれど。

 あるいはそれは周囲の人間のおかげかもしれなかった。山洞に来たことで額祭ははじめて目的というものを与えられた。生きることを自覚した。

 光のささない洞穴の奥底、一人の老人が座っている。じっとして動かない。決して死んでいるわけではない。そこにいて静かに存在感を放つ。


 額祭は師に呼びかけた。返事はない。けれども聞いていることはわかっている。彼は言葉をつづけた。

「巡とは本当に存在するものなのですか?」

 きっかけは忘れた。術を行使しながらふとその疑問に突き当たった。

 本当に私たちは巡の力を借り、それによって奇跡を起こしているのか?

 最初は何をバカなことを考えているんだと自分を笑った。けれども術の体系を見直していくうちにその疑問は次第に大きくなっていった。

 そうした疑いを抱きながらも、額祭は変わらず術を行使することができた。

 術は不可思議な現象を引き起こす技術の集積にすぎず、そこに巡の存在が介入する余地はない。それを行使すればするほどに疑念は確信へと接近していった。

 だとすれば自分たちのやってきたことはなんだったのか? これからどうやって生きていけばいいのか?


 そうしたすべての問いを一言にひっくるめて、額祭は師へと投げかけた。

 沈黙がどれほどの長さであったかわからない。それは感覚において無限に隣接していて、正確に計測することに意味をもたない数字だった。

「山を降りろ」

 師が告げたのはたったそれだけだった。

 山洞において師の存在は絶対であった。一方で弟子もまた師を見限ることはできたが、けれどもそれは師弟の不可逆の離縁を意味していた。

 額祭は礼の形をとる。

 踵を返した。問いを放つ前からとっくに覚悟はできていた。

 疑いを持つこと自体が師弟のみならず、山洞そのものとの決定的な破局を意味していたから。


「かつてお前と同じ問いを持った男がいた」

 洞穴に師の声が響く。

「名前は額篇、私の兄弟子だった。彼は山洞を追われた。今は篇業を名乗っているという」

 額祭は立ち止まることをしなかった。一方ではっきりと師の言葉を自分の中に刻み込んだ。

 篇業、その名なら聞いたことがある。自分が山洞に入る前のことだ。おもしろい坊主がいると都で話題になっていた。大人たちの語るその噂には侮蔑の色が濃かったように思われる。

 坊主崩れの詐欺師、そんなような扱いだった。

 けれども今もなおその名前は根強く残っている。閉鎖された山洞にまで届く。機縁宗とはまた別の勢力を彼は立ち上げようとしている。それに危機感を覚えているものも山洞には少なくない。


 持ち出すものはほとんどなかった。

 この身ひとつとそれにまとう衣服、あとは当座の食糧ぐらい貰っておこう。それだけそろっていれば十分に人の集まるところまでたどりつける。

 その次のことはそこまで行ってから考えればいい。

 人生の半分を暮らした山洞から一歩外へと踏み出す。半分か――年数で言えば確かにそうなのだけれど、残り半分が空っぽだったことを思えばそれよりもっと大きい。

 自分のほとんどすべてであるように感じられる。その場所から離れていく。耐えがたいほどの痛みがあるかもしれないと考えたがそんなものはなかった。


 師は額祭に破門を言い渡すことをしなかった。ただ山を降りるように言っただけだ。額祭の抱いた疑問を否定することすらしなかった。

 空を見上げる。真っ暗闇がどこまでも広がっている。ぽつんぽつんと星あかりがかすかに見える程度だ。夜明けにはまだ遠い。

 この広大な世界の中でひとりで答えを見つけなくてはならない。その道のりは問いそのものを棄却されるよりずっと厳しいものかもしれない。

 それでも額祭は一歩ずつ着実に進んでいくことにした。

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