第4話「ある学生の死」🍁

 次の日、俺は、美幸宅での朝を迎えていた。

 彼女の住まいは日比谷線八丁堀駅から徒歩10分、奥まった静かな通りにあるアパートの2階である。俺は早く目が覚めて美幸よりはやく起きると、冷蔵庫を勝手に物色していた。


 美幸は俺より少し遅れて起きると、直ぐに仕事に向かう身支度を始める。 

 俺は気を利かせて、二人分の朝食の準備を始めた。

 美幸の家は何かと整理整頓されているので準備はスムーズだった。冷蔵庫にある少しの野菜でコンソメスープを作った。あとは食パンと目玉焼きとドリップコーヒーである。

 「美幸は、目玉焼きは半熟だったよな」

 「ありがと」

 美幸は既に仕事モードに入りスタッフの配置等の記載された勤務表とスマホの手帳などを交互に眺めている。

 美幸は役職こそないが大きな総合病院の外来医事課がいらいいじかで主任的な役回りをこなしている。今日の仕事の流れを頭のなかでシミレーションしているのだろうか。電機ケトルがふつふつと蒸気を発している。


 「れいさん、お湯」

 「あ、はい」

 「わたし紅茶」

 「あ、はいはい」

 俺はキッチンの前にある棚からリプトンのティーパックを見つけて美幸のミッフィーの白いマグカップに、ぽちゃんと入れると、トースターのタイマー音がチーンと景気よく鳴った。


 「パン焼けてる」

 「あ、はいはい」 

 「私ブルーベリー」


 「あ、はいはい。って俺、美幸のつける量がわからないんだよな。例えば俺はね、ジャムはパンに対してやや薄っすらと塗る。このこんがりとした焼き目の風味が大事なのよ。つまりトースト本来の良さを損なわないようにするのであってだな、だからただ塗ってと言われ…」

 「たっぷり塗って。もう賞味期限近いから」

 言葉を遮って美幸が言う。

 「…わかった」

 俺はジャムをこれでもかという位にこんもりと塗って皿に置いた。

 『サクッ』

 美幸はテレビを見ながらトーストをかじっている。

 うう。ジャムがこぼれてしまえばいいのにと思いながら俺はそれを見つめていたが、美幸は微動だにせず器用にトーストを食べていた。

 しかし、美幸がパンを口にする横顔…やはり可愛らしい。悔しいが何事も絵になる女性なのである。


 いつも朝は、BGMのようにテレビのニュース番組をつけている。


 「ま、しかし、昨日は心配したよ。治って良かった」

 「ラーメン食べて直ぐに走れば、誰でも気持ち悪くなるよね?」


 「…そう。走らせた俺が悪かったよ。すいませんでしたね…」

 俺は美幸にいつも頭が上がらなくて主導権を握られている。平謝りしかない。

 「ホント強引だよね」

 「反省してるじゃん…」

 「そうなの?じゃ今度、行列店みたいな美味しいスイーツ探して買ってきてくれる?」

 「ああ、いいよ。美幸が好きなチョコレート系か?カヌレか、マカロンみたいな?」

 「何にしよっかなあ…」

 美幸が思案しているその時だった。ニュースキャスターが唐突に昨日の事件について報じたのである。


 ―――次のニュースです。昨夜未明、東京都豊島区南池袋2-16-8南池袋公園の多機能トイレで女性が腹部から血を流して倒れている所を発見され救急隊が駆けつけましたが、間もなく死亡が確認されました。死因は出血多量による失血死と見られています。持ち物から、女性は東京都北区在住の専門学生、石川舞花さん20歳と判明。警視庁は、他殺の可能性が高いとして近く特別対策本部を設置して捜査をすすめる構えです――

 

 「まだ学生さんだったんだね」

 「ああ、間違いなく昨日の事件だな。やっぱり美幸のいうとおり、すぐ亡くなってたんだな」

 「私達より全然、若い人が亡くなるって寂しいよね。まだこれからだったのに…」

 「そうだよ…」

 その瞬間、急に回転するような目眩めまいがした。身体全体から血の気がすーっと引いて行くような感覚がする。気持ち悪い、目眩と共に吐き気に襲われる。


 「れいさん、どうしたの?なんか、顔色悪くない?まさか亡くなってたのがそんなにショックだった?」 


 「いや…大丈夫。ちょっと吐き気がして…。それもあるけど多分そこじゃない」

 「……」

 「…昔の記憶かな」


 「大丈夫?あっ…そっか学生さんって。思い出しちゃったんじゃない?」


 「多分、そうじゃないかと思う…」


 「まだ忘れられないんだよね…」


 「…いや、忘れちゃいけないことだから。忘れなくていいんだ」




 ――――蝉が鳴いていた。蝉の声の記憶と共に、その日の空気感が蘇ってくる。まだ覚えている。良かった…。ゆらゆらと視界が揺れるような暑さの夏だった。人間は辛い記憶を自ら消す能力を備えているという。それは人間が生存していくための防衛本能なのだ。でも俺はその記憶を決して忘れたくない。いや忘れちゃいけないと思っている。でも…少しづつ忘れていく。あの日、放課後の教室の空気感、夕暮れの景色。以前は、記憶の中に、はっきりと焼き付いていたのに。俺はかつて都内で私立高校の教諭をしていた―――


 その日の放課後、俺は教壇の引き出しにちょっとした忘れ物をした。教室に取りに戻ると、複数の生徒がまだ教室に残って話しをしていた。学生らしいハツラツとした笑顔がちらほら見える。いつもの教室の風景なのだ。


「ね、先生今日遅いの?」

 男子生徒が不意に声をかけてきた。

 松島悠太まつしまゆうただ。松島は俺が新学年の四月から担任していた二年一組の生徒だ。ウチはまあまあの進学校だったが、その中でも成績は、中の上のくらい。ただ、少しデリケートな部分がありフォローが必要、一年次の担任から引き継ぎを受けている生徒だった。


 「そうだな…。ちょっと帰れない。なんか話?」

 「別に…。先生も、さっさと仕事終わらせてかえんなよ。先生が疲れた顔してっとみんなどんよりすんじゃね?」


 「そんな疲れて見える?担任が生徒に心配されてちゃダメだよなあ。すまんすまん。いや、先生、学生時代から持病あってスポーツとかあんまり出来なかったから、そもそも基礎体力がないんだよな。体も弱いけどメンタルも弱いしな…ははは」

 

 「…先生はすげえよ。先生なんだからさ。でも、大変だよな先生って……てか、おれいま、超ビッグマック食いてえ〜~!」


 悠太ゆうたは屈託ない笑顔を見せた。少し馴れ馴れしい言葉遣いが気になるものの、明るく素直、現代っ子といった雰囲気を持つ少年だ。今思えば、彼がこんな風に声をかけてきたのは間違いなく話したい事があったはずだ。

 俺は前任者の引継ぎに忠実に、彼の悩み事を時折、面談して聞いた。彼との面談は、校外にも及んでいて、二週間程前も駅前のマクドナルドでコーヒーを飲みながら話したばかりだったのだ。とは言うものの悠太は何かこれといった深い悩みを俺に打ち明けることは皆無で、話すことはいつも他愛ない話ばかりだった。

 寧ろ悠太には、逆に自分の愚痴を聞いて貰っていた部分もあったし、彼と俺は良いのか悪いのかプライベートのような付き合い方をしていたと思う。

 ただその甲斐あって、最近、悠太が打ち解けてきた。俺は信頼されているし、彼を受け止められている。そう思い込んで疑わなかった。


 「なんだよ急に…。悠太は、いつもビッグマックビッグマックって、言ってないか?そういやこの間も食べてたよな?」

 「おれさ〜、朝昼晩ビッグマックでもいいって思ってるよ」

 「そんなもんか。食べざかりだからわかるけど、なんでもバランス大事だぞ。ドリンクは野菜ジュースにしとけよ」

 「そうだよね…。わかったよ先生」


 ―――いつもと変わらないような会話。しかし、それが俺と悠太が交わした最後の会話になったのである。


 俺は、その時に話を聞けなかった自分をその後責める事になる。そして今も尚、悔やんでいる。

 一体、彼はあのとき俺に、話したかったんだ??お前は、抱えていた??


 あの日、教室の外から聴こえていた蝉の声、悠太の人懐っこい笑顔、今はっきり思いだしたよ。ごめんな、悠太。でも俺は、お前を、、忘れない。

 俺は、美幸を仕事に送り出したあとしばらく物思いに耽った。





優しい探偵RE

2023.7.4


 

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