第34話 現実 ―HellOlleH―

「あいつの目、絶対おかしいよね」


 13段×2セットの折り返し階段。ラグナロク学園の2階層と3階層を繋げるその階段の1セット目を登りながら、神楽坂アカネは隣を歩く水野ユキに話しかけた。


「う、うん。絶対おかしいよ。気が狂ってると思う」


「私が思うにあいつは薬で脳と心がやられてるんだわ」


「薬?」


 神楽坂アカネは頷いた。


「私、あいつと隣の部屋になったんだけどね」


「可哀そう……」


「うん。夜中、隣の部屋で壁を何度もぶっ叩きながら狂い叫んでる奴がいてさ。最初は怖かったから無視しようと思ったんだけどあんまりしつこいから段々イライラしてきてね。怒鳴り込みに行ったらベッドの隅で鼻血出して震えながらぜーぜー息吐いてるあいつがいたのよ。私には見えない何かが見えてるのか目の焦点もおかしかったわ。けど、私の入室に気付いたら驚き目を見開いて私を見てきて、目が合ってね。あんまり怖かったから何も言わずに逃げたわ。全力で」


「ひぃぃぃぃ……! こ、怖かったよねそれは。私なら気絶しちゃいそう……」


「うん……そうね。怖かったわ。そうね、怖いのよ。おかしいというより、目つきが悪いとかそういう次元を超越して、怖いんだわ。あいつの目。特に、目が合った時なんか、まるで、そうね、まるで――」


 そこで一旦言葉を切り、数秒間言葉を探してから、神楽坂アカネは言った。



「まるで、地獄を覗き込んでいるような、そんな錯覚さえ覚えるわ」



 気が付いたら足が止まっていた。階段の踊り場に差し掛かったタイミングだった。


「う、うん。確かにそんな感じだった。あ、ああ。思い出したらまたちびりそう……」


「大丈夫ユキ? でも、強くなるしかないわよ。だってここはそういう場所だから……ん?」


 階下から激しい足音が聞こえる。1階からあっという間に登ってくる。音の間隔からして段差を数段飛ばしで駆け上がってきている。音はあっという間に近づき、そして神楽坂アカネの立つ踊り場の直下の曲がり角を回り込み、音の発生源が姿を現した。


「げ」


 天之玄咲だった。


 階段を4、5段飛ばしで駆け上がり、一瞬で距離を詰めてくる。尋常じゃない速度、身体能力。水野ユキが尻もちをついて悲鳴をあげた。


「ひ、ひぃやぁあああああああああああああ!」


「な、何よ! やる気!?」


 神楽坂アカネは水野ユキの前に立ちはだかる。天之玄咲が階段を登りきる。正面に、顔が来た。


 そしてそのまま神楽坂アカネを見向きもせず一瞬で次の階段を駆け上がり、渡り廊下の中途点で左側、G組の教室の方を見て一瞬止まった。


 その目が見開かれる。


「――シャル!」


 そして誰かの名前を呼びながら猛烈な速度でG組の教室へと向かって行った。


「……? G組の方でなにかあったのかしら」


 その、昨日以上に異常な天之玄咲の様子が気になって、神楽坂アカネもまたG組の教室へと向かった。





 走る。走る。走る。早くシャルに会いたかった。


 冷静に考えれば朝数分数十分遅れた程度で何か致命的なことが起こるとは思えない。気にしすぎ。考えすぎ。心配しすぎ。よくある強迫性障害。極大化した不安強迫観念を取り除くための強迫行為を行わざるを得ない。そういう精神状態。それに違いないと思う。だが、不安で不安で仕方ない。だから仕方ない。自分は常に不安で不安で仕方ないのだ。シャルが、愛する天使が、脅威に晒されている。その考えは自分を決して落ち着かせてくれない。何かせずにはいられない。もしかしたら昨日夜遅く郊外まで遠出しにいったのもそのせいだったのかもしれない。何か、シャルのための行動をせずにはいられなかったのだろう。不安を取り除くために。シャルのために。自分のために。そう、自分の不安を取り除くために。一連の行動は自分から不安がる心の余裕を奪ってくれて、結構落ち着いた。それでよかった。そう思った。だがそのせいで今さらなる不安に陥っている。結局不安の種がシャルのもとにある以上シャルと会わなければこの不安の種は消えないだろう。シャルさえ見れば不安は消えるはずだ。ずっと一緒にいて守れば一生安心だ。そうだ。自分はシャルを一生守るべきだ。玄咲は今新たな真理に目覚めた。生まれる前から授かった大事な使命。俺はそう信じ込んだ。


 シャルと会いたい。シャルと会いたい。シャルと会いたい。シャルと会いたい。不安など抜きにしてもシャルと会いたい。天使を目にしたい。天使と会話したい。天使と触れ合いたい。そんな巫山戯た考えは起こすな。天使は触れられざる光輝だ。自分のような穢れた存在が触れてはいけない。ただ、見るだけでいい。それだけで満足だ。慈愛の欠片を目にすれば満足だ。アガペーを授かれたら天にも昇る。天使は天使で天使は天使だから天使を天使しなければいけない。つまり自分が天使を守らなければいけない。綻び一つない。完璧な理論だった。俺は満足した。


 守りたい。愛したい。一緒にいたい。もしも天使が幸せならその傍に自分がいなくたっていい。ずっとそうだった、俺はずっとそうだった。俺が傍にいなくてもいい。それでも天使は笑う。だからなんだってできる、天使のためならなんだってできる。手だって穢せる。人だって殺せる。目ん玉だって繰り抜ける。地獄だって泳げる。化け物にだってなれる。なんだってなれるんだ――天使さえせ傍にいればなんにだって。だって、天使さえ傍にれば俺は俺でいられるんだ。俺のままで。昔から続く俺のままでいられるんだ。俺のままでいるべきなんだ。


 それにしても胃の淵にわだかまる焦燥が消えない。なぜだ。それだけ天使に会いたいのか。天使を希求する心を不安と勘違いしているだけなのか? 分からない。分からない。分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない。俺には何も分からない。もう何も分からない。俺はいつだって間違えてる。俺はいつだって失敗する。だから何も分からない。何もかも失敗するから何も分からない。何が正しい答えなのかまるで分からない。天使を愛する心だけは間違えない。だから愛するんだ。心のままに間違えないんだ。心のままに天使を求めるんだ。俺は天使の元へと愛するんだ。天使の元へと走るんだ。


 しかし何故だろう胸騒ぎが止まらない昨日からずっとなぜか嫌な感じが収まらないまるでクロマルから逃げだした時のようなまるでクロスケを殺された時のようなまるで家族の新鮮な死体に立ち会った時のような。



 まるで大事なものを喪う前の――よう……な……、





























 G組の前に人だかりができていた。


 思考が真っ白になった。なぜ? そんなイベントはない。起こるはずない。起こっちゃいけない。こんなこと現実の訳がない。こんなイベント、怒っちゃいけない。だってこんなタイミングで、そんなことがあったら、それじゃ、まるで、まるで――。


 シャルになにかあったみたいじゃないか。


「シャル!」


 叫んだ。真っすぐ、走った。G組の教室へ、人込みを振り払い、入り口へ――――。









 シャルが、壊れていた。







 ぷらぷらと揺れる右腕、吊られてうなだれた血塗れのシャル。玩具のように折れ曲がった四肢。右肘が青い。左ひじが蒼い。みぎひざが青い。ひだりひざがあおい。そして、あらぬほうこうへとまげられてい          た。


 現実の認識に溜めを要した。地獄の釜湯はそうそう飲み込めない。だから飲み干した時、気が狂うかと思った。もう狂っているのかもしれなかった。これ以上何も見たくなかった。飲みたくなかった。でも、一度認識した現実はアイスピックの先端よりも鋭く脳を抉った。脳の中身が零れ出た。正気と一緒に間違いなく零れ出た。口から零れ出なかったのは単なる慣れの問題でしかなかった。この程度の肉体の損壊など、いくらも作り上げてきた。だから、悲しいことに、泣けなかった。吐けなかった。凛然とした正気のままあるがままの現実を受け止めざるを得なかった。その事実にこそ玄咲は自分という殻の中身を全て何もかもぶちまけたくなった。


 背中が鮮烈な赤に染まっていた。一直線に切り裂かれた制服のあとは地獄模様が渦巻いていた。渦巻いているのは自分の脳内か。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。ぐるぐるする。腹の中がぐるぐるする。赤くて、黒い、蛇が、糞が、斑が、栓が、水が、蛙が、蛆が、蛭が、蛇が、虫が、虫が! 地獄の虫が体中に散布される。不快感と、気持ち悪さと、気持ち悪さと、気持ち悪さ、と、怒り、と。怒りが赤く体を燃え上がらせる。


 切り開かれた背中。それは隠されたものを暴く過程の付随に過ぎない。堕天使の翼を暴く過程の。双肩の下に血塗れた黒い痣が二つある。翼を切り取った跡が。切って尚いかなる手段によっても取り除けぬ絶対的なる堕天使の――浄滅指定種族アマルティアンの証。それを曝け出す過程の。シャルを殺す過程の。付随。にも拘わらず深々と切り裂かれた背中はただの趣味だろう。シャルを嗜虐したのは、サンダージョーの、シャルの右手を持ち上げ吊し上げ晒上げている人間の、ただの趣味。悪魔の悪趣味。


「聞け! この女は堕天使族! アマルティアンだ! この穢れた黒翼の跡がその証拠だ!」


 悪魔が人語を発す。人の振りをして、人を傷つけるための言葉を。


「この女はエルロード聖国へと煉送し浄滅する! これは国法により定められた義務である! 歯向かうもの逆らうものは死罪だ! いいな!」


 殺す。


 俺が間違っていた。


 こんな屑は最初から殺すべきだった。


 そうだ、俺はいつも間違える。俺はいつも失う。俺はいつも手遅れになる。 


「この世界はゲームの世界楽園なんかじゃない」


 

 この世界は現実だ。


 この世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だこの世界は現実だ。つまり、


「この世界は地獄だ」


 この世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だこの世界は地獄だ。


(あなたの本質を発揮すればきっと何もかも上手くいくわ)


 バエルの言葉が脳裏によみがえる。そうだ。その通りだ。俺はいつもそうしてきた。


 この世界は地獄だ。


 ならば。




 自分の地獄で塗り潰すだけだ。















 視界が赤く染まった。

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