第35話 地獄 ―Myself―
一歩を踏み出した。
ゆっくりと歩む。体が揺れるように熱く、バランスを崩しそうだ。走り出すつもりだったが上手くいかない。しかし、3歩目で慣れる。玄咲は走り出した。シャルの元へと一直線に。その間に一人の男がいた。
「お、お前なんだよそのオーラ。それにその眼――」
岩下若芽。屑。サンダージョーの仲間。玄咲はそれだけ認識して、足を跳ね上げた。やることは単純。地面を強く踏み込み、反発力を前進力と合流させ体の捻転で足の爪先まで伝達し大きく弧を描いて遠心力を発生させ、さらには望まずして教わり盗み編み出し精錬したありとあらゆる力の増幅技法までもを右足の爪先一点に込めて、インパクト。男のこめかみへと爪先がめり込むまでの0,1秒の間にそれら全ては行われた。車に轢かれたようにはじけ飛んだこめかみが陥没した大男の頭が教室の壁の下部の縁へと激突した。血の華が咲く。
「な、なに、が」
口の端から噴水の縁から垂れ流される水のように、あるいは吐瀉物のように血を垂れ流しながら大男は顔を上向かせる。玄咲はその顔に人差し指と中指を突き立てて拳を振り下ろす。絶叫。痙攣。血に塗れた二本指を引き抜き、眼窩から抜き出したものを捨てて、玄咲は即座に疾駆。サンダージョーの元まで、シャルナの元まであと、数歩。背後で悲鳴が止んだ。予想通り。頭の隅でそう思いながら玄咲は拳を振り上げる。
「武装――ちぃッ!」
ADを展開する暇がないと悟ったサンダージョーがシャルナを手放し素手での迎撃を選ぶ。玄咲はその拳から放たれる赤い線が見えた。死線が見えた。数瞬後に現実となる致死攻撃の軌跡が、サンダージョーの殺人的な威力で放たれるはずの拳の軌跡が既に見えていた。
そして今の玄咲にはサンダージョーを殺すための、自分が辿るべき死線もまた見えていた。
しかし、自分の拳から伸びるそれに玄咲はあえて従わない。思い切り拳を振り上げる。思い切り力を込める。子供のように、乱雑に、乱暴に、原初的に、感情的に、拳を、怒りを、握り締める。
そして解き放った。
拳がサンダージョーの拳と交差する軌道を描いた。
カウンター。
やられた分、やり返す。
相応の報いを。
天の裁きを。
天使の痛みを。
「悪魔は地獄に落ちろ」
玄咲の拳がサンダージョーの鼻っ柱にめり込んだ。骨が砕ける。血が飛ぶ。歯が飛ぶ。肉が裂け、潰れ、抉れる。えげつなく、容赦なく。拳でその全ての感触を濃密に感じながら、一切力を緩めず、玄咲は目標目掛けさらに拳を振り下ろす。
玄咲の机の角にサンダージョーの後頭部がめり込む。拳もさらに奥深くへめり込む。拳がサンダージョーを介して机の悲鳴を聞く。ミシミシギチギチと軋み、たわみ――そして割れた。さらに奥へ。机を破壊して尚玄咲の拳は止まらない。
落下するような微量の浮遊感の中で。
全体重を拳に乗せて。
貫通するつもりで。
玄咲は拳を振り抜いた。
「地獄に落ちろ」
ようやく目標へと辿り着いた。
サンダージョーの顔面が拳と床のサンドイッチになって潰れたトマトみたいになった。ようやく拳が停止する。握り込んだ力と感情の全てをサンダージョーの顔面に放出し終えて。床に放射状の亀裂が入っていた。人間が振るえる、そして人間が振るっていい力のラインを遥かに超えていた。その代償とでもいうように玄咲の拳は骨を剥き出し己の赤い血に染まっていた。歪に歪みながら。
「あ、が、が」
顔面を凄絶に破壊されながらもサンダージョーはまだ生きていた。玄咲にまだサンダージョーを殺す気がなかったからだ。まだ、殺すわけにはいかない。まだ、まだ、まだ、まだ、シャルナの痛みを全て返すまでは――玄咲はサンダージョーの体を見下ろす。高レベルなだけあり丈夫な体。痛みつけるのに丁度いい体。裁かれなければいけないカルマがサンダージョーにはまだまだたくさんある。玄咲は立ち上がり、足を振り上げて、そして振り下ろす――。
どうでもいいものが砕け散る音がした。
「ぐぁあああああああああああああああああ!」
右腕の関節を踏み砕く。左腕、右足、左足も同じように。血反吐塗れの悲鳴がその度にあがった。楽しくない。何も楽しくはない。こんなことを望んでやる人間の気が知れない。サンダージョーの心理が何一つ理解できない。する必要なんてない。シャルの痛みを全て返すだけだ。何倍にも増幅させて。玄咲は再び足を振り上げる。今度は垂直にではなく、弧を描いて振り下ろす。サンダージョーの金玉目掛けて――。
ミシリ。
「ッッッッッッッッッッ――!」
天井を突き破るような絶叫が迸った。何度も、何度も、乱雑に爪先をサンダージョーの股間に叩き込む。技術も糞もないサッカーボールキックを金玉に見舞う。血の潮吹きを伴ったサンダージョーの絶叫は天井知らずにボリュームを上げていく。だが、それでも金玉は割れなかった。サンダージョーは金玉まで高レベルだった。
「丈夫な金玉だな。こっちの方はメッキじゃなかったらしい」
蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。段々と感触が変わっていく。そろそろか。感触の変化を如実に足の先で感じ取った玄咲は、一際大きく足を振り上げて――。
「オ”ッ―――――――――――――――ッ”ア」
パキン、と、くるみを割ったような乾いた音がしたと同時、サンダージョーの眼がぐりんとひっくり返り、そして――――、
「――――イィイィイィ“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア」
サンダージョーが白目を剥いて、本日最大の絶叫を上げた。人の声ではなく獣の声だった。悪魔に相応しい声だった。
「――悪魔は悲鳴まで汚いな」
玄咲は吐き捨てるように言った。
ゴキブリのようにしぶといサンダージョーが血に涙に塗れた顔を上げて言う。
「お、ま、え。なんで、アマルティ、アンの味方を、する。しかも、そいつは、堕天使。世界一、醜い、種族だぞ。それを、なん、で……」
「? お前、鏡を見たことないのか」
「は、ぁ?」
「見せてやろう」
玄咲はサンダージョーの後頭部を両手で挟んで持ち上げ、教室後方の壁に飾られた鏡の前までずるずると引き摺り、中指と薬指で両目を見開かせながら、鏡にその顔を写してやる。
赤い瞳をした玄咲の顔までもが映った。
「ほら――世界一醜い種族がよく見えるだろう?」
ギリギリと、目尻が裂けるほどに目を見開かせる。後頭部を挟む手に力を込める。サンダージョーが喚く。
「や、やめろ。やめ、て。もう、おねが――」
「
サンダージョーの眼球を鏡に叩きつける。
動かなくなったサンダージョーの体を床に投げ捨て、玄咲はシャルナの近くで屈んだ。
シャルナは両手を投げ出し両膝を曲げた姿勢で己の机にもたれかかっていた。そうでもしないと倒れてしまうのだろう。どれだけの痛虐をその身に受けたのか、瞳の端から頬にかけて色濃く残る涙の跡が痛々しい。胸が、引き裂かれそうになった。
「――玄咲」
シャルナが声を発する。弱く、か細い声。涙が、一滴、零れた。それでも玄咲は笑った。笑えていたと思う。笑えていなかったかもしれなかった。
「――もう、大丈夫」
制服の上着を脱いでシャルナへと着せる。上体を隠すためだ。無残なその傷跡を、堕天使の翼を、アマルティアンの証を、そして何より、女の子が肌を晒すものじゃないという、ごく当然の判断に従って。声を震わして、玄咲は言う。
「大丈夫だから。もう、何もかも大丈夫だから。俺が何とかするから」
「その、目」
「ああ、キレると赤くなるんだ。昔、忘れられない事件を起こしてさ、気づいたらこうなってた。はは、漫画みたいだろ」
「悪魔、みたい」
「……そうか」
ほんの少しだけ、悲しくなった。だが、その悲しみはすぐに塗り替えられた。
「でも、きれい」
「え?」
「好き」
――まっすぐ。
躊躇いなく。
シャルナはそう告げた。
玄咲は、泣いた。
「はは、ははは。そんなこと言われたの生まれて初めてだ。この目を、怖いじゃなくて、きれいだなんて、ましてや好きなんて言われたのは生まれて初めてだ……」
「え、っと、そうじゃな――ゲフ!」
「シャル!」
笑いかけて、シャルナが血を咽ぶ。玄咲はどうにかしたいと思うが、どうしようもない。回復魔法のカードがあればと思うが、それがない。貸してくれる、あるいは助力してくれる相手がいればと思うが、こうなっては他の人間全てが敵だ。遠巻きに事態を見守る全ての人間が、玄咲とシャルナの敵だ。カードを貸したり、魔法を使ってくれるとは思えない。おそらくバエルを召喚すればこの学校の人間全て殺せる。だが、そんなことをしても意味がない。いよいよシャルナを治療する手段がなくなるし、そんなことしても後がない。死を近づけるだけ。状況は積んでいた。
逃げ場所がない。
シャルナの治療の当てもない。
玄咲は絶望的な気分になった。
「ぐ、ぐくぅう……!」
玄咲は考える。
だが、しかし玄咲は頭が良い方ではない。考えつくことなどたかが知れてる。そしてその、考えついたアイデアの全てが破滅の導線へと紐づけられていることが、あまり良くない頭でも直感で察せられた。とりあえずバエルを召喚して何もかも殺してから事後策を考えようか――そんな自暴自棄なアイデアを本気で実行しようかと考え始めたその時――、
「――あなたが、やったの」
声がした。
知ってる声だ。
一番好きだったキャラの声。
クララ・サファリア。
かつて最愛だった、天使。
その人が、入り口に立って、玄咲を見ていた。
化け物でも見るような瞳で。
「――俺がやった」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
「なにか文句あるか」
クララ・サファリアさえ、今の玄咲には敵に見えた。
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