第25話 愛壌 ―Electrical fairy―
バエルは最強のカードだった。
小学生の頃、両親に連れて行ってもらったジャパニーズホビーフェアというホビーイベントで通信ケーブルを使って配布された限定カードで、その出自ゆえかゲームバランスというものを端から無視した性能をしていた。次強カードの最大30倍の火力、にも関わらず全体攻撃、ついでに防御力無視のおまけ効果付き。要するに相手は死ぬと書いてあるようなもので、スマホで得た情報によると対人戦では使用禁止になるのが当たり前だったらしい。玄咲は対人戦などしたことがないがもし対人戦で使用したらクソゲ―になるだろうなというのは容易に想像できた。それくらバエルは強かった。
バエルは最強だった。だが完全無欠だった訳ではない。その超火力の代償に一つだけデメリットがあった。EPとMPを必ず全消費しなければ発動できず、火力はその消費したEPとMPの量に応じて増減するのだ。
EP――EREMENTAL POINTの略。エレメンタル・カードの発動に必要となるポイントで、3つまで溜めておける。アイテムやカードでの回復手段はなく、睡眠でしか回復できない。通常のカードと比べて強力なエレメンタル・カードに使用制限を設けるシステムだ。エレメンタル・カードはEPの消費のみで発動可能。しかしMPは消費しない。使用制限はあるがいつでも使える切り札。それがCMAにおけるエレメンタル・カードのポジションだった。
バエルはそのポジションに収まらない。MPまで強欲に全部奪っていき、その対価とばかりに敵を殲滅する様子はまさに悪魔神。太古に封印された禁忌の神というストーリ上の設定に恥じない悪魔的かつカリスマ性に溢れた性能をしていた。
ただし実際の所バエルのデメリットは大したデメリットではなく、EP・MPともに1でも残っていれば発動可能で、最低火力でもそれまでの最強カードの5倍の火力を発揮でき、EPとMPをほんの少しだけ残しておけば僅かなコストでボスキラーとしての役目を果たせると、むしろ殆どメリットと化していた。火力最強などの部分的な最強ではなく、総合的に最強のカードとされる由縁だった。
バエルは玄咲のマイ・フェイバリットカードだった。天使と同等か、あるいはそれ以上に愛していた。その圧倒的な強さと、家族と出かけたイベントで手に入れたカードという思い出が、玄咲にバエルへの異常な愛情を抱かせていた。もちろん、イベント用カードだからかやたらとデザインに気合の入ったその美少女グラフィックに魅了されたという側面もある。だが、もしもバエルの姿が悪魔の王らしくサタンのように醜悪な悪魔の姿だったとしても、玄咲はバエルを愛していた自信があった。それくらいバエルを愛していた。
そのバエルがごく至近距離であまりにも美しい裸体を晒していた。大きいおっぱいをあますところなく玄咲に見せつけていた。ゲームと同様の、ゲーム以上に美しい顔で。
そんなの、叫喚しない訳がなかった。
「う“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ!」
叫喚せずにはいられなかった。刺激が、強すぎた。
バエルは美しかった。
黒い髪。星なき夜を束ねて垂らしたかのよう。赤い瞳。血の宝石を嵌め込んだかのよう。鼻梁。驚くほど簡略化されているのに違和感がない。無粋を理想で研ぎ落している。唇。神の血でも塗ったかのように鮮烈な色合い。耳、尖っている。丸くなる必要などないと言っているかのようだ。顎。完璧なラインで頬を繋げている。顔立ち。美しい――美しいのに、完成されているのに、成熟しきれない危うい年頃の少女の薔薇のような美を顔の全てのパーツを花弁として見事に咲かせていた。
体はとても肉感的だ。エロスに満ちている。しかし下品な印象の一切が足切りされていた。白い肌をコーティングするむせぶほどの色気。しかしとてもナチュラルで媚びの香りはただの1mmたりとも混じらない。純粋で、尊かった。
なのに死ぬほどいやらしかった。おっぱいにいっぱい夢が詰まっていた。華奢で小さな体躯。それからしたら犯罪的な大きさをバエルのおっぱいは有していた。目に毒なんてレベルではない。目に核弾頭。脳髄で炸裂したおっぱいの大爆発に玄咲は意識を吹き飛ばされた。足が重力を掴み損ねて――
「がっ!」
衝撃。背を壁に無様に打ち付ける。反動で体が前傾し、四つん這いになり、顔を上げた玄咲の視線の先に。
花――。
「う“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ! うっ!」
吹き飛ばされるような速度で体を跳ね起こし後ずさった玄咲の背が再び壁にキスする。そのままディープキスへと移行。背で壁をずるずると舐めながら玄咲はベッドに尻をついた。
それからどうすればいいか分からない。もはやなにがなんだか分からない。想定外の状況に惑うことしかできない。人外の美しさを持つ美少女。玄咲の専門外の極北、苦手分野の最奥、心と思考を狂わす興味と関心の最先端。憧れの究極――玄咲はただバエルに魅入ることしかできなかった。
バエルが接近してくる。
「我、汝と契約を交わさん」
そんな意味の分からない台詞を口にしながら悪魔的に美しい顔を寄せてくる。唇を迫ってくる。心拍数異常増大。肉体末端痙攣。呼吸喘息症状。鼻血微々噴出――今までの人生の中でもたまにしか経験したことのない症状が一気に溢れて出てくる。愛するバエルの顔で視界が一杯になる。鮮烈な色の唇が迫る。5センチ、3センチ、1センチ。
そして――。
バンッ!
「さっきからうるっっっっっっっっっさいのよっっっっっっっっっ! あんたキチガイィ!? 今日は朝っぱらから嫌なことまみれでイライラしてるんだから今くらいゆっくり休ませて――」
勢いよく開け放たれた施錠を忘れたドアの向こうから現れた神楽坂アカネと。
重なり合ったバエルの顔越しに。
目が、合った――。
「「 」」
驚きに目を見開いて絶句。こちらも同じ。例えようもなく醜いもの、例えばうんこと交わる蛆虫でも見たかのように神楽坂アカネは口をへの字に曲げ顔をぐりんと背け、そしてそのまま流れるような動きでUターンした。
「待て! 誤か――」
玄咲はその背に手を伸ばし釈明しようとする。しかし神楽坂アカネは玄咲の釈明を最後までどころか最初から聞かず、声どころか存在をシャットダウンするような勢いでドアをバタンッ!!! と閉め、そして廊下をドタタタッ! と走り去り、バタンッ!!! と閉じられたドア越しにも聞こえる程大きな音で隣室のドアを開け放ってそしてまたバタンッ!!! と閉じた。
沈黙が訪れた。
玄咲はドアに手を中途半端に伸ばした姿勢のまましばらく固まっていた。だが、現実が脳に染み思考が柔軟性を取り戻していくにつれてその手は下がっていく。手・顔共にうな垂れさせて玄咲は呟いた。
「絶対誤解された……何もしてないのに……」
本当に何もしていなかった。ADを介さない簡易召喚はアストラル体に憑依させる形で精霊を召喚する低燃費の召喚方法。大した力は振るえないが地上を見物したり会話を行うことができる。メタ的に言えば会話コマンドで精霊と会話するための召喚方法だ。
アストラル体はカードに刻まれた魔法陣が生み出す実体なき仮初の依り代。実体がないから物理的接触は行えない。唇を重ね合わせてもただ悪戯にすり抜けるばかりでいかなる官能的感触も発生しない。完全に誤解され損だった。
ふと、玄咲の胸に疑問がわいた。
(待てよ。そもそも簡易召喚した精霊は基本的に召喚者にしか見えないはず。なぜ神楽坂アカネにはバエルが見えたんだ……?)
その心の声が聞こえていたわけでもないだろうが、ハイトーンの中に弧峰の凛とした威が張り詰めた、しかし少しだけあどけなさの混じる美しい声で、バエルが頭上から答えてくる。
「玄咲の心配しているような誤解はされてないと思うわよ」
「なに?」
「だってあの子には私の姿が見えてないもの」
「なんだと!? それはどういう――」
思わず顔を上げかけた玄咲の眼に四つん這いで迫る魅惑的な曲線の狭間が飛び込んできて――玄咲は慌てて顔を下げてバエルに突っ込みを入れた。
「な、なんで裸なんだ! ふ、服を着ろ! 精霊にとって服は体の一部だから自由かつ一瞬の内に着脱できるはずだ! た、頼む。とてもじゃないが今の恰好では会話どころじゃない……」
「ん? 喜ばないの?」
「な、なんでだ」
「こういう不可抗力かつ受動的なHシチュエーション、好きじゃない?」
「……」
好きだが?
大好きだが?
嫌いな男などいるはずもないが。
が、それはそれ。これはこれだ。ちょっと、いや、かなりドキドキしながらも玄咲は強い意志で断じた。
「好きじゃない。だから服を着てくれ」
「……見栄っ張り」
「見栄じゃない」
「じゃあ顔上げて」
「…………」
上げない。
「意気地なし」
「……………………」
上げないったら上げない。
「……はぁ、分かったわ。ちぇ、喜んでるはずなのに――」
少し拗ねたような声。さっきから妙に口調が幼い。違和感。ゲームでのバエルはもっと尊大で気位の高い話し方をするキャラクターだったはず。なのに、さっきからまるでいたいけな幼児か何かと話しているような気配がある――これはこれでありではある。バエルの美しい声と姿とのギャップにクラクラくる。とても魅力的だ。が、素直にその魅力を受け入れられない。これじゃない感がぬぐえない。まるでバエルの姿をしたバエルではない何者かと話しているかのような違和感がどうしてもぬぐえない。なぜなのか――。
「ちょっと待ってて。すぐ済むから」
ちょっと舌っ足らずな口調でバエルがいう。思うことは色々あれど、とりあえずは言われた通りに大人しく、頭を下げたまま少し待つ。頭上、視界の上方から、髪のカーテンをかき分けて差し込んだ紫色の閃光が閉じた瞳にまるで目薬でも差し込んだかのように眩く染み入る。バエルはどうやら服を着たようで、閃光が立ち消えると同時、それを合図として声をかけてきた。
「もういいわ」
恐る恐る、玄咲は顔を上げてゆく。視界の端に黒い布切れが見えたのを端に、一気にガバっと――
「っ――!?」
想像以上の美しさに。
一瞬でバエルが身を包んでいた。
ゲーム通りの衣装。だが存在感が桁違い。夜空の色と広がりを連想させる黒で彩られた裾広のドレススカート。バエルのイメージをよく反映させている。幅広の袖から覗く、傘膨らみしたスカートから伸びる、大きく開いた襟元から曝ける、白い肢体が白夜の輝きを纏っている。まるで危険色のように目を魅く。バエルの肢体が鮮やかに白澄んだ分だけその衣装もまた艶やかに黒澄む。黒と白。相克の2色が互いに互いを引き立て合っていた。バエルの美を魅き立て合っていた。
「う……」
美しい。衣装を纏ったバエルはあるいは裸のときよりも美しいかもしれなかった。衣装の存在意義とはかくあるべき。バエルの体を隠すのではなくより魅力的に彩っている。心の底から、玄咲はバエルに見惚れた。
「美しい……」
「ふふ。そうよね。私は美しいわよね。だって、あなたの大好きなバエルなんだもんね」
バエルがくすくすと笑う。体が微振動する。その微振動だけで緩めの襟元から零れそうなサイズのおっぱいがふるふると揺れる。おっぱいだけは相変わらず目の毒。だが裸に比べれば遥かにマシ。視線を一所に置かなければ普通に会話出来そうだと玄咲は一先ず安堵した。
(あなたの大好きなバエル、か。まぁ、自信家な性格だからな。それくらいのことは言うだろう)
そんなことを思いながら玄咲はバエルに尋ねる。
「その――さっき言ってた神楽坂アカネにバエルの姿が見えていないって言葉はどういう意味だ?」
「そのまんまの意味よ」
「しかし、現に神楽坂アカネは俺たちをみて逃げて行った。すさまじい逃げ方だった。俺一人を見ただけではああはなるまい。その、俺たちが、キ――その、誤解されたとしか思えない」
なぜか、少し憐れむような眼をバエルが向けてくる。
「いえ、玄咲しか見えていなかったわ。断言する。間違いない。だから神楽坂アカネは玄咲を見て逃げて行ったの」
「俺を見て、だと? しかし、そんなはずは――いや、あるか。俺は神楽坂アカネに嫌われているもんな……なにせ朝から散々と失礼なことをしでかしまくった。嫌われていない訳がない。現実を見よう。そりゃ顔を合わせるなり激走して逃げ去っていくわけだよ。はは、随分な嫌われ方だ。神楽坂アカネとのフラグはもう完膚なきまでにべキバキだ……」
「……」
「どうした」
「それだけが理由じゃないと思うけどね……」
「? どういうことだ。おっと」
顎から落ちかけた鼻血を拭う。バエルに迫られたときに流したものだ。もう止まっているかと思ったが口を動かすだけで垂れてくる程度には残っていたらしい。手の末端にこびりついた鼻血を見ながら息をつく。
「さっきのがまだ尾を引いてるな」
「……」
「どうした」
「……いえ、なんでもないわ。まぁでも結局は嫌われていたから逃げられたのよね。好きな相手なら逃げるはずないわ。例えどんな醜態を目撃したとしても」
「そうだな。好きな相手なら逃げるはずない。つまり俺は神楽坂アカネに嫌われているんだ……はぁ」
「でも、嫌われた相手が他のヒロインじゃなくて神楽坂アカネで良かったわね」
「なにも良くは――」
ない。
そう言いかけた玄咲の口がピタリと止まる。
(他のヒロイン、だと――!?)
――心胆が、ぶるりと震える。
バエルは明らかにCMAを知っている。そうでなければ絶対に言えない台詞。バエル。いや、このバエルの姿をした何かは一体何者なのか――。
「君は一体」
何者なのかと。
そう玄咲が問おうとした矢先。
「だって――」
バエルはさらなる爆弾を投下した。
「玄咲、神楽坂アカネのことそんなに好きじゃなかったでしょ?」
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