地獄編

第23話 叫喚 ―Summoned Skull―

 ラグナロク学園学生寮【ラグナロク・ネスト】。CMAの主人公の大空ライトの生活拠点。つまり玄咲の生活拠点だった。自分と同じように一日を終了した生徒達の人波に混じって入り口の自動開きのガラス戸を通り、玄咲は疑うことなく当然のように大空ライトの住まう6階の66番室へと向かった。


「ここか」


 黒色の扉。その取っ手下のカード錠のカード挿入口に生徒カードを突っ込み解錠。玄咲は入室した。


「おお」


 明るい、白色の部屋。過不足なく生活用品が揃っていて過ごしやすそう。独房のような陰鬱さが常時沈殿していた地球の玄咲の部屋とは雲泥の差だった。


「いい部屋だ」


 呟き、部屋を眺める。タンスの上に玄咲は目を付けた。移動。玄咲はタンスの上にシャルナからもらったカップラーメンを置いた。空腹と引き換えに持ち帰ったシャルナのアガペー。カップラーメンの蓋を撫でる。


 シャルナの頭を撫でているような錯覚を玄咲は覚えた。


「ああ、シャル。俺の天使……」


 幸福感。だが玄咲は満足しなかった。何かが足りない気がしてならなかった。


「なにか、物足りない。そうだな、写真とか隣に飾れるといいんだがないしな――あ、そうだ!」


 いそいそと部屋に備わったテーブルの前に移動。そして玄咲はテーブルの脇に置いてある紙とペンを手に取りシャルナの似顔絵を描いた。紙を目の前に広げて顔をほころばせる。


「うん! シャルの天使性がよく表現できてる! いい出来栄えだ!」


 幼稚園児並に下手糞な絵。だが、朗らかで笑顔が素敵ないい似顔絵が描けたと玄咲は自画自賛する。満足。サティスファクション。絵心のなさをパッションで補えている。少なくとも玄咲はそう信じた。


「これを――」


 再びタンスの前に移動し、玄咲はシャルナの似顔絵をカップラーメンの前面に立てかける。今日幾度も見たシャルナの笑顔がその向こうに幻視された。


「うん、これでいい。神棚に相応しくなった」


 自分の中でピースがカチッと嵌る。足りないものが埋まった感覚。玄咲はようやく満足した。


「さて」


 ベッドに移動する。部屋の隅、ベッドの角、それらが重なり合う場所で玄咲は壁を背に押し付けて膝を抱えた。寝る時とCMAをする時の姿勢だ。この姿勢・ポジションがもっとも落ち着くのだ。幼少の頃からの習慣だった。


「落ち着く」


 安息が心を包んでいた。驚くほど安らかな心地。シャルナだ。シャルナが心の中にいるからだった。翼を広げて玄咲を体ごと、魂まで後ろから包み込んでくれているからだ。無論幻覚だ。それくらいのことは分かっている。でも、それでも良かった。シャルナが天使の羽で自分を包んでくれるのなら。天使が弱く醜い自我を守ってくれるのなら。


「シャル……」


 今日は久しぶりに楽しいと思えた日だった。何年振りか、あるいは何十年ぶりか。大好きな世界にこれたからというのも勿論ある。けど一番はシャルナが隣にいてくれたからだろうという気が玄咲にはしてならなかった。


 一日中、遊園地を巡るみたいに一緒に一杯楽しいことをした。憧れの、そして生まれて初めての高校生活はシャルナのおかげで華やいだ。一緒に授業を受けた。一緒に試験を受けた。一緒にペアを組んだ。一緒に廊下を歩いた。一緒にADを買った。一緒にカードを買った。一緒に対戦相手を探した。挫けそうになったら励ましてくれた。一緒にバトルセンターに行った。一緒に説明を受けた。不安がらせた。だからシャルナのために頑張って戦った。笑顔を見せてくれた。それからしばらく別れて、また会って、たくさん稼いだポイントを見せたら喜んでくれて、一緒に会話しながら教室に戻って、また別れて、ラグマで再会して、そこで見てはいけないものを見てしまって、それでもシャルナはアガペーをくれて。


「ああ、シャル。愛してる……」


 でもそんなシャルナは。


 攻略対象じゃないから一生自分と結ばれることはなくて。


「……」


 シャルナの幻覚ががらがらと崩れていく。途端、恐ろしい寒さが玄咲の体を包んだ。現実がシャルナの代わりに玄咲を包囲しおぞましい温度でしがみついてくる。それから逃れる術はたった今失われたばかりだった。天使はたった今死んだばかりだった。


「あー……ダメだ。駄目だ。俺は、だめだ」


 寒い。寒い。寒い。体が寒い。心が冷たい。魂が凍てつく。それを温めてくれる存在はもういない。シャルナはもういない。死んでしまった。シャルナのガラクタが脳裏に転がっている。視界の端っこにこびりついて離れない。無垢な無表情の無生命。シャルのそんな顔を見たくなかった。なのにこびりついて離れない。顔を背けても、目を閉じても。温度をなくしたシャルナの亡骸がこびりついて離れない。


「う、うぅ、シャル。だめだ。死んじゃ、光が、なくなってしまう。俺の光が――ああ、俺のじゃなかった。あ、ああ光を、光をくれ。俺に光を――!」


 シャルナの亡骸が天へと昇っていく。光が遠ざかっていく。なのに輝きが強まっていく。影を、己を置き去りにして、はるか遠くへと。あるべき天へと還っていく。影とは交われないという太陽の宿命を思い出して――!。


 太陽が落とした絶望が玄咲の心を包む。シャルナという太陽が輝けば輝くほど絶望という影は色濃くなる。無視できぬほどに。大きくなる。逃げ場がないほどに。玄咲の中で大きくなりすぎたシャルナの存在が、さっきまで自分を支えてくれていた全てが反転して重荷となって玄咲の心を暗がりへと引きずり込もうとする。


「だ、大丈夫。シャル以外にも天使はいる。神楽坂アカネ……ダメだ。嫌われかけている。クララ先生……ダメだ。嫌われかけている。ほ、他の天使も、もしかして会ったら俺を嫌いになるのか? お、俺は一生天使とエンディングを迎えられないのか? 所詮俺は大空ライトくんではなくて天之玄咲ということなのか? 天使と一緒に学園生活を送れるのはゲームの中だけなのか? お、俺は、結局地獄に落ちるのか!? も、もしかしてこの世界は天使のいる楽園ではなく、地獄に落ちるまでの泡沫の夢なんじゃないのか? 俺は地獄に落ちている真っ最中なんじゃないのか? あ、ありうる。こんな都合のいい転生が俺の人生にあるわけがない。だって俺の人生はいつも地獄だったんだから」 


 この世界が地獄に落ちるまでの泡沫の夢。その想像はなんだかすごくしっくりきて、玄咲は恐怖に震えた。


「――な、何もかもが夢か。消えるのか。地獄か。世界は、地獄なのか。人生という螺旋が、地獄に連なるのか。自分の果ては地獄か、楽園か。その先には天使が笑って手を広げているのか。それとも悪魔が口を開けて待ち受けているのか……。地獄か、地獄か、地獄か、地獄か――……俺は罪人だから地獄に落ちるのか。そして、天使と永遠に別たれるのか……」


 考えが良くない方向に向かっていく。心が虚無に侵されていく。だから玄咲は思い出す。思い出そうとする。子供時代のことを。CMAを買ってくれた愛する両親と妹との平和な日々の思い出を――。


 焼け野原。


 家族の死体。


 フラッシュバック――!


「っ! やめろぉッ!」


 玄咲の視界一杯に瓦礫に埋もれた家族の赤々とした死体が大迫力で広がる。幾度も幾度も帰還を夢見た平穏な日常。恐怖に震えながら徴兵されゆく自分を堪え切れぬ涙とともに見送ったあの笑顔――その永遠の喪失の象徴。もうどこにもなくなってしまった平和の去骸。玄咲の呼気が荒くなる。心臓を手で押さえる。過呼吸が治まらない。玄咲は最終手段に出ることにした。


「っ! CMA!」


 いつものように、玄咲はポケットボーイの所在である胸ポケットに手を突っ込む。CMA、それをプレイしている間は全てを忘れられる。過日と今を繋げる天使たちが自分を守ってくれる。だから玄咲はCMAを求める。永遠に平和な世界で永遠の時を過ごす永遠に若い永遠に無償の愛を与えてくれる永遠に自分を守ってくれるはずの永遠の理想的存在“天使”を求めて――。


 空ぶった。


「――え?」


 手が虚無を――“天使の亡骸”を掴んだ。


「あ、あ――“あ“あ“あ“あ“あ――」


 体内の全血液が一斉に氷点下まで下がる錯覚を玄咲は覚えた。蒼ざめた顔に冷汗が滲み、玄咲の頭がぐわんぐわんと揺れ始め、右に左にシェイクし視界が混ざり、玄咲の頭の中は混乱の大渦の中で潮が血色となってクジラの丸い体に脳幹がせり上がってピューっとーっと思考回路がががぶっ飛んだだ――。


(な、なんでC、CCMAAがない、ゲームが、できないと、俺は、ポケットボーイイイがないと、何もできないって、言ってんの――ああ、白い爆発に飲まれててててて、っ! ポケットボーイが飲み込まれていってるんだ! ああっ! や、やめてっ! おお、俺の理性を天使をををををおをを奪わわないでっ! 俺に、ポケッ、ない、とっ! ボーイ、がっ! ああっ、天使が、逃げてくゆっ! や、め、て、ろ、っ、天、の、使、俺、が、死んでゆくっ――! ああああっっっっっっぅっっっっっっっああああ! ――っでん死ゆく、俺、使の、が、天、!――くゆでん死が使天の俺


 がぁああああああああっ! 俺の、天使が、死んでゆくっ! CMAが! 美遊ちゃんがっ!? どうでもいいっ! 俺の、CMAがっ! 天使たちが赤い羽を散らして地獄現実の中に散華してゆくっ! やめろっっっ!!! やまっ、やみっ、やもっ、やみっ――やみ? ――闇!? 闇が、お前が、俺から、天使を、うっ、うぅ、うぅぅつっつぅつぅつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつうつ鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱

鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱っ、シャル、あっ、ああっ、シャルが、シャルが、死んでゆくっ――! やめて! やめてっ!」


 いつの間にか、玄咲は壁を乱打して叫んでいた。叩いても叩いても呪いのように壁は壊れない。目の前に立ちはだかる白い闇が消えてくれない。神のように、残忍なまでに固い。その先にいる天使を助けなければいけないというのに……。玄咲にはもう何が何だか分からなかった。頭がおかしくなりそうだった。もしかしたらおかしくなっているのかもしれなかった。久しぶりの発作は玄咲一人の力では到底治めきれないほどに酷かった。それでもCMAさえあればなんとかなる。CMAさえあればなんとかなるというのに、そのCMAがない。


「うぅ、ひっぐ、CMA、CMA……!」


 もう二度とCMAができない。つらいとき、心を癒してくれる天使といつでも触れ合えない――その絶望に、凹んだ壁に両の拳を押し付けながら玄咲は泣いた。泣きながら、未練がましくCMAを求めて体中をまさぐる。髪の中。CMAの知識を詰め込んだ頭以外何もない。襟の内。ゲームと比べて妙に筋肉質な胸筋以外何もない。胸ポケット。クララ先生にまさぐられた事実以外何もない。上着のポケット。ゴミアイス・バーン以外何もない。どこにもCMAはない。当り前だと自嘲しながら最後にズボンのポケットに手を伸ばして――。


 指が、その横の長方形の固形物に触れた。


 カードケースだった。


「っ!」


 玄咲は殆ど反射的な動きでカードケースの留め具を外し中身を取り出した。色々あり過ぎてすっかり存在を忘れていたカードが6枚入っていた。その内の5枚には目もくれない。導かれるように1枚のカードを手に握り、天井高くかざして、血走った目で玄咲は叫んだ。


簡易召喚インスタント・コール――悪魔神バエル!」


 カードが紫色の光を放つ。宙空に魔法陣が現れる。その中から紫光のシルエットが見えない壁を焼き溶かすような緩慢さで這い出てくる。全身が魔法陣から抜け出す。魔法陣が消える。そして――。


 光が弾け一瞬で脱ぎ去られた。


 黒色の美しい長髪とたわわな胸を何か魔力的な力学で揺らめかせる、絶世を超えて魔性の美しさを全身に宿した美少女が玄咲の前にその姿を現した。


 裸だった。


「“う“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“あ“!」


 玄咲は叫喚した。

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