四「下校」

 放課後、僕は部活に行こうとする友佳を引き留めた。

「何、湊。」

「その昨日のことだけど、ありがとう。」

「いいって、大したことじゃないから。」

「そうだけどさ、実際友佳に迷惑かけたわけだから……。」

「確かにね。」

「うん。だから何かお礼をしたいと思って。」

「ふーん。」

 友佳は不敵な笑みを浮かべる。そして、沈思黙考。しばらくしてから、友佳は顔を上げた。

「じゃあ、今日一緒に帰ってくれる?」

 と友佳は言った。

「うん。大丈夫だけど、そんなことでいいの?」

「いいの。最近一緒に帰ってないし、たまには一緒に帰りたいの。」

「なら、いいのだけど。」

 僕はそれがお礼になるのか少し疑問だったけど、友佳はこの上なく嬉しそうな表情をしていた。友佳がそれでいいのなら、僕が反対する必要はない。それにたまには友佳と一緒に帰るのも新鮮でいいかもしれない。

「私はこれから部活があるから、終わったらここで待ち合わせでいい?」

「分かった。」

「じゃあ、私部活行ってくるね。」

「うん、また後で。」

 友佳はそう言うと、スキップ交じりに教室を出て行った。僕はそれを見送って席に座る。何をして待とうか考えながら、僕は教室の時計を見る。そして、僕は部活が終わるまで二時間以上あることに気がついた。部活に入っていない僕にとって、教室で二時間も過ごすのは結構な時間である。しかし、約束した以上はどうしようもない。それに待つことはそんなに嫌いではない。とりあえず課題をして、その後本でも読んでいたら時間になるだろう。僕は机に数学の課題を広げてシャーペンを動かす。二時間もあったら大抵の課題は終わってしまうと思う。友佳が戻ってくるまでの間、有効的に時間を使おう。


 それから課題も終わって本を読んでいると、友佳が勢いよくドアを開けて現れた。

「さあ湊、帰ろう。」

「あ、うん。」

 僕は唖然としていたが、友佳に手を引かれるまま教室を放り出された。かろうじて本を鞄にしまって、僕たちは並んで廊下を歩く。

「こんなに待たせてごめんね。」

「いや、課題とかしていたから大丈夫。それに言い出したのは僕だから、少し待つくらいなんてことないよ。」

「そう。それならよかった。」

 友佳はそう言って俯いた。横顔の隙間から少し笑みが見えて、夕日のせいか友佳の頬が赤く染まっていた。今気がついたけれど、僕と友佳は身長差が結構あるような気がする。小学校の時は同じくらいで、中学校は僕の方が少しだけ高かった記憶がある。それも入学したばかりの時のことで、それ以降のことはよく覚えていない。けれど、今は僕の背の方が断然高い。友佳は僕の肩ほどの高さだった。

「湊さっきから私の顔を見ているけど、なんかついてる?」

「ううん、なんでもない。」

「そう?」

 友佳は今日の湊は変だね、と言いながら笑った。

 そう言えば、友佳がこんなに笑うようになったのはいつからだろう。小学校、中学校の時は僕に対して姉のような接し方をしていたような気がする。世話焼きと言えばいいのだろう。友佳はよく僕にあれやこれやと言ってきた。今でもたまに世話焼きを発揮することはあるけど、最近はそう言う態度よりは笑うことの方が多いような気がする。少し僕が変なことを言うと笑う。話しているときも大抵笑顔でいる。授業中に僕と目が合うと笑う。いつからかはよく分からない。どうして、接し方が変わったのかも分からない。ただ友佳は高校生になってなにかが変わったは確かだと思う。

 僕たちは雑談しながら脱靴場で靴を履き替えて校門を出る。部活もほとんどが終わっていて、吹奏楽の音も運動部の掛け声ももう聞こえなかった。野球部がグラウンドの整地をしていたり、体育館から体操服の集団が部活棟に向かったり、なんだか懐かしい風景だった。日も傾いているおかげか暑さも和らいでいて、時折吹き抜けるそよ風が心地よい。歩く僕たちの後ろで、夕日が空を赤く染め上げている。

「友佳は最近部活の調子はどうなの?」

「絶好調だよ。後輩が入ってきてみんなそれぞれ課題曲の練習をしてるよ。特に一人すごく上手な子がいるんだよね。湊にも聴いてほしいくらい。」

 友佳はピアノ部に入っている。小学生からずっとピアノをやっていて、時々コンクールにも出ているらしい。高校も家から近くてピアノ部があるからここにしたのだとか。実際ピアノ部はそんなにメジャーな部活ではなくて、この辺りだとここくらいにしかなかったような気がする。

「友佳が上手と言うくらいだから凄いんだろうね。」

「多分、文化祭に出ると思うからその時聴いてみて。」

「うん、分かった。」

「文化祭以外だとあとは定期演奏会くらいしか聞くタイミングがないから、やっぱり聞くなら文化祭がいいと思うよ。」

「うん。それで友佳は文化祭に出るの?」

「うーん。私はどうするか決めてない。色々練習しないといけない曲があって忙しいから。……もしかして、湊は私の演奏も聴きたいの?」

「折角聴きに行くなら、友佳のも聴いてみたいなあ。最後に弾いてくれたのって中学三年の時の合唱コンクールだったよね?」

「そうだね。」

「あれから結構経っているし、合唱コンクールの時は伴奏だったから、ソロで聴いてみたいな。」

「本当?」

「うん。」

「じゃあ、考えてやらんこともない。」

 僕は思わず笑った。友佳は少しだけ照れていた。

「それで湊はどうなの、最近?」

「僕は部活とかはいっていないから、勉強するか本読むかくらしかやることないよ。」

「真面目だねえ、湊は。」

「暇の間違いでは。」

「そんなことないって、普通は暇だとネットとかゲームとかするものでしょ。」

「僕だって、ゲームくらいするよ。」

「どのくらいするの?」

「土曜日と日曜日の午後に時々。」

「真面目じゃん。」

 友佳は僕の言葉を遮るように言った。

「まあ、湊は小学生の時からそうだったから今さらなんだけど。」

「そうだった?」

「そうだよ。学校終わりに遊ぼうって誘っても、宿題終わってからって言ってちゃんと宿題終わらしてから来てたからね。みんなは遊んだ後に宿題やってたんだよ。」

「それは初めて知ったのだけど。」

「だから湊は真面目過ぎるんだよ。その分湊は面白くないからバランスが取れてるんだけど。」

「それって本当に?」

「いや、嘘嘘。焦って可愛いんだから。」

 友佳はそう言って笑った。なんだか誤魔化されたような気がするが、自分に面白さがそんなに必要ない気もして深く考えないことにした。

「でもよく考えたら、友佳はピアノも勉強も頑張っているから真面目だよね。」

「え、そんなことないよ。私は好きで弾いてるわけだし、ピアノくらいが長所だから。」

「いやいや、ピアノって人を感動させたり、惹きつけることができるよね。だけど、僕の読書は自分の満足だけで、僕自身は人の心を動かすことはできない。だから、ピアノを頑張っている友佳は真面目だと思うよ。それに、僕が友佳より時間をかけている勉強も、実際は友佳の成績の方がいいから、僕よりも真面目だと思う。」

「確かに。そう言われると私、真面目かもしれない。」

「やっぱりなんか真面目とは違う気がしてきた。」

「手のひら返すの早くない?」

 二人で笑っていると、目の前の横断歩道が赤に丁度赤になって僕たちは立ち止った。僕たちは夕日を避けるように建物の陰で信号を待つことにした。

「そう言えば、友佳はあっちだっけ?」

「うん。」

 友佳は頷いて、それからしばらくして僕との距離を詰めてきた。友佳の手の甲が僕の手の甲に時折当たる。僕は不思議に思って友佳を見ると、友佳は左手を胸元に当てて深呼吸をしていた。友佳の顔が赤くなっているのが横からでも分かった。僕たちは少しの間言葉を交わすことなく、静かに信号が変わるのを待った。僕は友佳に話しかけるタイミングを失ってしまって、とりあえず顔をあげて信号を確認した。信号は赤だった。そして、横断歩道の向かい側に人一人が立っていることに気がついた。

 それはななだった。僕は驚いてななから目を離すことができなくなっていた。いや、むしろ逆だ。ななが僕をじっと見ていた。僕はその瞳の存在に気がついて、そして僕の瞳が捉えられてしまったのだ。僕は吸い込まれるように、なな以外をほとんど視認できなくなっていた。遠近感も狂ってきて、どんどんななが遠ざかっていくような感覚に襲われた。友佳が「湊、私ね……。」と僕を呼ぶが、その声もだんだん小さくなってくる。ついに音もなくなって、上下もなくなった。ななと僕の存在以外何も感じられなくなった。

「く、る……。」

 ななが何かを話しかけてくる。

「き……くる……い……。」

 よく聞き取れない。僕は耳を澄ましてななの言葉を聞き取ろうと努力した。そうしたら、最後の言葉だけが聞こえてきた。

「私を離さないで……。」

 ななはそう言った。そんなことを言っているような気がした。目から目へ、ななは僕に訴えかけているように感じた。そして、ななは振り返って僕から遠ざかってゆく。僕はななの視線から解放されて、ありとあらゆる感覚が正常に戻ってゆく。それを感じながら僕は去ってゆくななをただ見ていることしかできなかった。ななの姿が僕の視界から完全に消えて、僕は誰かが僕を呼ぶ声で現実に戻された。

「湊……。ねえ湊、聞いてる?」

 友佳が僕の手を引っ張っていた。

「あ、ごめん。」

 信号が丁度赤から青に変わって、僕たちは横断歩道を渡る。僕は額の冷や汗を袖で拭う。

「そう言えば、今日屋上に行ったら昨日僕を助けてくれた女の子とまた会ったよ。少し変わった人で、昨日助けたお礼を彼女から求めてきたからびっくりしたよ。でも、助けてもらったことに変わりはないから、お礼と言うことで僕とななは友達になりました。」

 僕はぼんやりとしていたせいか、唐突にそんなことを呟いてしまった。段々と思考が明快となってきたが、なぜ友佳にこんなことを言ったのか自分でも理解できなかった。横断歩道を渡り終えて、僕は立ち止って友佳を見た。しかし、夕日の所為で友佳の顔ははっきり見えなかった。

「ごめん、突然変なこと言って。何でもないから気にしないで下さい。」

「うん、大丈夫。」

 友佳は笑っていた。

「それで、さっき友佳が言おうとしていたことって……。」

「ううん、何でもないの……。それじゃ、私はこっちだから……。また明日ね。」

 友佳はそう言うと、手を振りながら走って行ってしまった。

「うん、また明日。」

 僕はぽつんと、一人で手を振りながら友佳が行ってしまうのを見ていた。そよ風が心地よく僕の額の髪を靡かせた。僕は状況がよく分からないでいた。ただ、友佳の作り笑いを僕は初めて見た。

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