三「友達」
僕は屋上にいた。屋上の隅の小さな影の中で座っていた。顔を上げると低い塀があって、その向こうに紺碧の空が広がっている。陽炎がさざ波のように空を登ろうとしていた。上へ上へと上昇しようとするが、空はそれを許さない。陽炎は押し殺されて低空でゆらゆらと揺らめくだけだった。なぜなら空には太陽があった。他が昇る隙なんて無かった。太陽は我が物顔で僕たちを見下ろしていた。
今日はあの少女はいないようだった。屋上の塀には地平線が見えるだけで、今にも落ちてしまいそうな人なんていなかった。少し安心している自分がいる。あんな危険なことを間近で見たらハラハラしてしまいそうであるし、本当に落ちてしまったらどうするのか、僕には見当もつかないらかだ。
そうして周りを見渡していると、視界の右端に誰かが映ったような気がした。と言うより、僕の右隣に突然と誰かが現れたようだった。
「今日も君はここにいるの?」
耳元で誰かが囁いてきて、僕は飛びのいた。
「びっくりした。」
そこには例の少女がいた。屈んで驚いた僕のことを不思議そうに見つめていた。全く気付かなかった。こんなに近くにいたのに話しかけられるまで、気配の一つも感じなかった。
「君はどうして今日もここにいるの?」
少女は当惑している僕に構うことなく、再びそう聞いてくる。僕はそんな少女を見てどうにも変わった人だと思ったが、少女の隣に座りなおした。
「どうしてと聞かれても……。」
考えてみたものの答えは特に思いつかなかった。たまたまここにいるだけで、深い意味なんてない。ただ、ここは一人になれるから落ち着ける場所の一つだった。けれど、夏は暑いからエアコンが恋しくなる場所でもあった。
「雰囲気が好きだからかな……?」
僕は曖昧な返事をした。しかし、少女は余り満足していないようで、さらに僕に聞いてくる。
「授業中なのに雰囲気が好きだから屋上にいるの?」
授業中なのは君も同じではと思うが、それは心の奥にしまっておく。
「たまたまですよ。いつもは授業中に屋上に行ったりしませんから。」
「昨日も授業中だったけど?」
「昨日もたまたまですよ、たまたま……。」
「たまたま……。」
「そう、たまたま……。」
少女は僕を疑っているようだった。確かに彼女目線では僕は偶然を装ったサボり常習犯のように見えるかもしれない。しかし、断じてそんなことはないのだ。実のところを言うと昨日も今日も何で屋上にいるのか自分でもよく分かっていない。そうだとして、それを彼女に言ったとして信じてもらえるとも思わない。
僕たちは平行線を進んでいるのは明らかだった。これ以上少女に問い詰められても何かいい答えを出せそうになかった。少女もそれに気づき始めていて「そう」とだけ言った。
「だけど、昨日もここにいて倒れていたよね。またここにいたら今日も同じ目に合うかもよ。」
「それについては全く否定できないけれど、僕は君の方が倒れてしまいそうで心配です。」
「そう?」
少女はきょとんとしていた。僕にとっては彼女の不健康にも見えるまっ白な肌の方が倒れることを予感させる。
「……そう、だと思います。」
そこまで答えると少女は立ち上がって塀の方に走り出した。僕は塀の上に立とうとする少女を座って見ていた。少女は塀の上に片足だけでバランスをとりながら、僕の方を振り返る。空と彼女のコントラストが浮かび上がってきて、それは異様に綺麗な光景だと思った。
「昨日、私が君を助けてあげたんだよ。」
確かにそんなこともあった覚えがある。そう言えば、それを聞くために屋上に来たような気がする。そしてお礼を言いに来たような気がする。
「ありがとうございます。」
その言葉に少女はにんまりと笑って僕を見つめていた。
「ねえ、私に助けられたのだから、君は何かお礼をするべきだとは思わない?」
「確かに、そうかもしれません。」
そう答えると、少女ははしゃぐように塀を飛び降りて僕に駆け寄ってきた。少し不気味な、悪い予感が僕を襲ってきた。
「じゃあ、私たち友達にならない?」
しかし、少女の提案はそんなに悪いものではなかった。
「はい。」
僕はすぐに頷いた。
少女は笑った。嬉しそうに、僕の瞳を見つめていた。
「私のことはななって呼んで。」
「僕は綾瀬湊です。」
「みなとね。これからよろしく。」
「よろしくお願いします。」
ななはまた僕の隣に座った。
「それじゃあ、何かおしゃべりでもする?」
「いえ、遠慮しておきます。そろそろ教室に戻ないとだから。」
「そう。」
ななはつまらなさそうに、足元の小石を投げた。
「ななは戻らないのですか。」
「うん。もう少しだけここにいる。」
ななはいつまでここにいるつもりなのか、少しだけ疑問に思った。最初に見た幻覚のような妄想のような何か。彼女が屋上を飛び降りるイメージが僕を不安にさせる。そして、そうであるが故に僕はななと友達になることで、ななのことをもっとよく知ることができるかもしれないと思った。知ってどうしたいのか、まだ僕にはよく分からない。けれど、少なくともななに対して感じるこの不安や疑問の一つまみだけでも分かるような気がする。ななのことが心配なのもあるけれど、それ以上に好奇心が僕をそうさせていた。
「また後で、なな。」
「うん。また今度。」
僕は屋上を出た。振り返るとなながこっちを向いていた。僕が手を振っても、ななは僕をただ見ているだけだった。僕は教室に戻ることにした。
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