二「保健室」
目を開けると天井が白いことに最初に気がついた。次に自分が横になっていること。そして、足先の冷たいシーツの感触と、額の冷たい感触に気がついた。
どうして自分がこうしているのか、よく思い出せない。屋上で目を閉じたことは覚えているけれど、どうやってここまで来たのか……。
「……あ、起きた。」
ぼうっと天井を見ていると、聞き覚えのある声がする。
「先生、綾瀬君の意識が戻りました。」
声の主は身を乗り出して僕の顔を覗き込む。幼馴染の女の子と目が合った。
「おはよう。湊。」
「おはようございます。」
「私が誰か分かりますか。」
「はい。
「ここがどこか分かりますか。」
「保健室のベッドです。」
「なんで保健室にいるのか分かりますか。」
「多分、熱中症のせいです。」
すると友佳は突然笑いだした。
「さっきからなんでそんなに他人行儀なの。」
「え、そう?」
「うん。」
思うにまだ寝ぼけているのだろう。自分は適当に受け答えをしている。今の状況がいまいち分かっていない。なぜ友佳は涙ぐんでいるのか、それなのに笑ってもいるのか。それを見て、僕は怪訝な顔しかできない。
友佳は僕の右手を両手で包み込んで額に当てた。
「……ねえ、心配してたんだよ。授業にいないと思ったら、屋上で倒れていたらしいし。会いに行ったら、身体がとっても熱かったんだから。」
「ごめん。」
「ううん、いいの。大事ではなかったから。先生も大丈夫だって言ってたから。」
どうやら友佳は心配だったらしい。状況が段々と分かってきた。屋上で僕は目をつぶっただけかと思ったけど、倒れていたようである。だけど、誰かが保健室まで連れて行ってくれたのだろう。誰かは分からないけれど、保健室まで運んでくれて僕は本当に命拾いをしたと思う。今はそんなに酷くはない。頭痛もしないし、気分のそんなに悪くない。
「……湊の手、今は冷たい。」
友佳は僕の手をぎゅっとにぎった。友佳の手は僕より柔らかくて冷たかった。
「ありがとう友佳。」
僕は起き上がって額の冷却シートをはがす。
「もう大丈夫なの?」
「うん。もう大丈夫みたいだ。」
友佳は少し心配そうに僕の顔を見てくる。友佳の手に少し力がこもる。僕はあんまり心配性ではないかと思ったが、誰だって人が突然といなくなって倒れていたと聞いたら心配するだろう。それが幼馴染であればなおさら……。もし友佳が突然いなくなって倒れていたなんて聞いたら僕も心配するに決まっている。
「本当に大丈夫なの?」
友佳はもう一度聞いてきた。
「うん。どこも悪いところはないよ。」
「それならいいのだけど……。」
そして、友佳はしぶしぶ手の力を緩める。それと同時にベッドを囲むカーテンが開き先生が入ってきた。
「失礼するよ。お邪魔かもしれないけど、綾瀬君の容態を見ないといけないから。」
「いえ、全然邪魔じゃないです。どうぞ、綾瀬君が大丈夫なのか先生の目で確認してください。」
友佳は先生が入って来るやいなや手を引っ込めて、口早にそう言ってカーテンの向こうに消えていった。
「……舛本さんはいつもあんな感じなの?」
先生はきょとんとしていた。
「いや、そんなことはないと思います。多分、心配が高じたのだと思います。」
しかし、僕がそう言うと先生は笑みを浮かべる。
「二人は幼馴染だっけ?」
「はい。幼稚園からずっと。」
「そうなんだ……。大切にしなよ。」
「先生、あんまり余計なことを言わないでください。」
カーテン越しに友佳の釘を刺すような声が響いた。先生はそれを聞いてなぜか嬉しそうだったけれど、すぐに白衣から体温計を取り出して僕に渡した。笑顔ではあるが、真面目な雰囲気が先生から感じられた。僕は体温計を脇の下にさす。すると先生はその間に、僕の額、瞼、手首に触れる。そして、計測が終わった体温計が平熱を示しているのを見て、先生は安堵の息をついた。
「熱は下がっているし、脈拍も正常。吐き気とか頭痛とか気持ちが悪い感じとかもないんだよね。」
「はい。」
「だったら、もう大丈夫かな。今日はもう帰って身体をしっかり休めるんだよ。明日になっても体調が悪いようだったら、病院に行くように。」
「はい。分かりました。」
「では、お大事に。」
先生はそう言って、カーテンを翻して出て行った。僕も上靴を履いてベッドを整えてから出ていく。どうやら保健室には僕と友佳と先生だけのようだった。なにやら友佳と先生が楽しげに話していたが、僕が出てくると友佳は手で招いてきた。
「帰るんでしょ。荷物持ってきてるから、早く帰って休みなよ。」
「ありがとう。」
僕は友佳から鞄を受け取った。友佳からはもう心配の気配を強くは感じなかった。ほとんどいつも通りだった。
「じゃあ、先生。私たちもう行きます。今日はありがとうございました。」
「綾瀬君もお大事にね。」
「はい。ありがとうございました。失礼します。」
僕たちは保健室を出た。廊下は保健室とは違って蒸し暑かった。それでも、陰になっているぶんましなのかもしれない。友佳は暑さなんか気にも留めないで、保健室の先生との話をしていた。どうやら色々とアドバイスをもらったらしい。具体的な内容は教えてくれなかったけれど……。
それから、僕はふと気になったことを口にした。
「そう言えば、僕は屋上で倒れていたらしいけど、誰が保健室まで運んでくれたのか、友佳は知っている?」
「さあ、知らない。」
僕の質問に友佳はそっけなく答えた。
「……なんでも、どこかのクラスの女子が保健室まで運んだらしいけど、私は誰かまでは知らない。」
「そうなのか。」
多分、あの少女だろう。あの時は授業中だったし、あの場には僕とあの子しかいなかったから、彼女しか考えられない。不思議な人だった印象があるけれど、今度会ったらお礼を言っておかないとな。
「湊、もしかして心当たりがあるの?」
そんなことを考えていると、友佳が顔を覗き込んで聞いてきた。
「うん。少し。」
「そうなんだ……。」
友佳はそれ以上何も言わないで黙ってしまった。少し不機嫌そうに見えた。けれど、友佳はすぐに話題を変えて話し始める。友佳は僕が倒れてからのことを事細かに教えてくれた。保健室の先生や担任の先生、友佳……。僕の知らないところで、僕のために色々してくれていたことが分かった。
友佳は脱靴場までついてきてくれて、僕が靴を履き替えるとようやく友佳は身体を翻した。
「それじゃ、私は部活だからもう行くね。湊もしっかり身体を労わるんだよ。じゃあね。」
「うん。また明日。」
友佳は手を振りながら足早に去っていった。僕は友佳に悪いことをしたと思った。友佳も部活があったのに僕が倒れたばっかりにその時間を奪うことになってしまった。それなのに友佳は僕をすごく心配してくれていた。僕は申し訳なかった。そんなことも察せられない僕に不機嫌になるのもしょうがないと思った。明日お礼を言っておこう。遅いかもしれないけれど、それ以外にいい案は思い付かなかった。
校舎についている時計はすでに五時を指し示していたが、日差しはまだ勢いがあった。野球部とサッカー部がグランドの大半を使って、陸上部がその周縁で練習をしている。吹奏楽部と合唱部の練習の音がよく響いていた。
校門を出ると、その向こうに見たことのある人影が見えた。長い髪と覚えのある立ち姿。それは交差点の角を曲がって僕の視界から消えた。それを見て僕は走り出した。
多分、これはほとんど確信に近いが、その人影は屋上で出会った少女であるような予感がしていた。遠くにいたのに彼女だとすぐに分かったのは、自分でも少し不思議なことだった。しかし、妙な引力が働いているようにも感じる。病み上がりであるのに、走ることを躊躇する
少女は僕の視界から完全に消えていた。遠くにも少女の影が見えない。僕は見えなくなってからも少し走って探してみたが、少女を再び見つけることはできなかった。だから、僕は探すのを諦めた。走るのをやめると汗をしっかりと吸収したシャツが背中に張り付いて不快な感じがしてきた。そして陽光が僕の全身を劈く。
「帰ろう……。」
僕は早く帰ってシャワーを浴びたいと思った。
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