不完全性存在

一「屋上」

 青い空の景色に少女が一人映っているのを僕は眺めている。

 青の中に白と紺が不自然にあるのを僕は眺めている。

 陽炎がゆらゆらと視界を遮り、真夏の陽光が腕をジンジンと刺してくる。蝉の轟きが鼓膜に反響し、額を滴る汗のにおいに酔い、僕は乾いて出てもいない唾をぐっと飲みこんだ。

 梅雨が明けた。雲は一つもなかった。だから空は遮るものを知らずどこまでも青い。ただ一つ、太陽だけは青に染まることなく白い光を輝かせて、青に大きな暈を描いていた。その中を一羽の鳥がまるで大海原に漂う一隻の小舟のように翔けてゆく。白い鳥が暈をくぐるように小さくなって僕の視界から消えてゆく。僕はまた、空に少女を見た。

 少女は空を見ている。遠くの、遠くの空を見ている。

 少女は屋上の塀の上に立っていた。つま先が赤い上靴で、少女のかかとだけが地上との接点を保っていた。

 少女は一つに結った髪留めを空に飛ばした。黒い髪が風に靡いて自由に線を描くのを僕の目は追った。

 そして、少女は何かを呟くとふわりと身体を空に飛ばした。ゆっくりと、まるで階段を二段飛ばして降りるように、軽々と塀から空へと乗り出していった。

 僕の視界から少女が消えようとしていた。非常にすばやく、下半身から上半身へと消えてゆき、最後には長い髪だけが塀のそばを舞っていた。さらさらと、綺麗な髪が、さらさらと舞っている……。

 僕は目を閉じた。まるで現実味のない一瞬だった。こんなにもゆっくりと人が落ちて行くことがあるのだろうか。こんなにも素早く人が落ちて行くことがあるのだろうか。こんな真昼に学校の屋上で自殺しようとする人がいるだろうか。僕はこれまでに授業をさぼって屋上に来たことがあっただろうか。どうやって、僕は屋上まで来たのか。まるで不自然な状況。これが現実だろうか。

 しばらくして目を開けると、僕は屋上にいた。僕は青い空の景色に少女が一人映っているのを眺めていた。少女は屋上の塀にかかとだけで立っていて、髪留めを空に飛ばした。そして、少女は振り返った。

「ねえ、飛び降りると思った?」

 少女は笑いながら僕に話しかけてきた。

「いや。」

 僕はそう答えた。シャツが汗ばんで、気持ち悪い。屋上に休めそうな陰はなく、すぐにでも屋上から立ち去りたいと思った。

 僕の答えを聞いた少女が一層笑みを深める。塀を軽やかに飛び降りると、僕の方に駆け寄ってきた。遠くからだと分からなかったが、少女は僕より身長が少し低く、こんな猛暑の中でも汗一つ垂らしていなかった。

「ねえ、飛び降りた方がよかった?それとも飛び降りない方がよかった?ねえ、君はどっちが好き?」

 少女は開口一番、訳の分からないことを聞いてきた。

「……さあ。でも飛び降りない方がいいと僕は思います。ほら、落ちると痛いから。」

 僕は曖昧な返事をした。さっきから日差しが強くなっているせいで暑くてしょうがない。丁度陽光は僕の方を向いていて眩しい。頭が痛い。熱中症になるかもしれない。

「そう?……確かにそうかも。」

 少女は聞いてきた割には興味なさそうな返事をした。もしかして、飛び降りるつもりだったのだろうか。飛び降りる気がなかったら、あんな危険なことをするはずはないし。僕がいたからやめた可能性は考えられるけど、この少女がそんなことを気にするのだろうか。よくは分からないが、少女はまっ白な肌をしていた。日焼けなんて知らなさそう……。

「僕は教室に戻ります。ここは暑すぎるから、あなたも早く戻った方がいいですよ。」

 僕は立ち上がった。身体が少し重く感じる。多分熱中症の初期症状だ。早く水分補給をした方がいい。少女も暑さには慣れていなさそうだから少し危なく見える。だけど、今は自分が一番危ない。早くどこか涼しい所に行かないと。

「……ねえ。」

 立ち去ろうとする僕の袖を少女は掴んだ。少女は俯いていた。どこか先ほどまでと雰囲気が違っているようだった。

「私が傷ついている時、君はどこかで笑っているのでしょうか。」

 少女はそう言った。

「けれど、君が傷ついた時、私は君のそばに居ましょう……。」

 少女はそう言った。

「うん。分かった。」

 僕は頷いた。意識が朦朧としている。多分、良くない状態だ。自分が立っているかどうかすら分からない。

 僕はとりあえず目を閉じることにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る