第七章:オールウェイズ・ウィズ・ユー

第40話 一球入魂

 どのくらい経ったのだろう。暗い防空壕の中は目が慣れてきても、特にめぼしいものはなく、勿論、出口など見つからなかった。


 …浦川は、川が増水したら、って言ってた。


 おそらく、浦川の狙いは知広を亡き者にして、口を封じることだ。大雨の中、増水した川に放り込まれたら、知広が死んで発見されても、きっと川に流されたことによる溺死にされてしまうだろう。


 …浦川は間違いなく、池田侑一朗先生を殺している。


 浦川の言動には全く迷いがなかった。どうすれば、警察に捕まらないのかを、まるで知っているかのように。


 …つまらない人生だったな。


 私立小学校受験を経て数年、知広には有名私立中学校受験が控えていた。成績は良かったし、第一志望に合格することも、その時の知広には難しくはなかった。それは出来心だった。魔が差したのだ。


 …本番の試験を白紙で出した…


 滑り止めを含め、受けた四校全部の試験を白紙解答で提出した。私立中学校にそんなに興味がなかったのもあるし、思春期特有の親への小さな反抗が芽生えていたのかもしれない。


 …お母さんとお父さんがどんな反応をするか知りたかった。


 一番の理由は【失敗した知広でも好きでいてくれるか】を知りたかったのだと思う。知広は試すタイミングを間違えてしまった。学力的には充分合格圏内であった知広が不合格になったことを不審に思った両親は各学校に問い合わせた。その結果、金も時間も手間もかけて完璧に教育してきた息子が、よりによって試験本番で故意に白紙解答を提出したことを知ってしまった。その後は…言わずもがな、だ。


 …僕なんていなくなっても…誰も…


 ネガティブなことを考えかけて、「何でわからないんだ、このバカ!」という空耳ソラミミが頭の中で爆発した。超絶綺麗な顔を歪めて本気で怒る朋也の顔が目に浮かんだ。


 …朋也くんなら。きっと。


 朋也は知広を凄いと言った。あの朋也が知広を認めてくれた。知広の人生はつまらなくなんかない。今の知広には大切な人がたくさんいる。やりたいことだって…まだハッキリしないが、何となく形になってきているような気がする。


 …僕には朋也くんがいる。大輝くんも、悠真くんも。


 知広の心に、初めて見た花火のような光り輝くきらめきが生まれる。


 …夏目さんも、紗月さんも、明さんも、佐倉刑事も。


 この旅で出逢った人達が知広を照らす光になった。知広のいる場所は地下の暗闇なんかじゃない。今の知広の頭上に広がるのは、きっと晴れやかな夏の空だ。遮るものなんて何もない。遥かに。悠々と。どこまでも。どこにだって飛んで行ける。


「あきらめない。絶対に」


―――君がそばにいれば、僕は何も恐れない。


 知広は閉ざされた床の扉をにらみつけ、それが開く瞬間を待ち続けた。


 その時は不意に訪れた。


「出ろ」


 ギギィと扉が持ち上がる音がして、床上から浦川が顔を覗かせた。知広が階段を上って、校長室の床に立つと廊下の窓からサアァァという音が聞こえる。


 …雨、降って来たんだ。


「もう旧瑞城町全域に避難勧告が出てる。大声を出しても無駄だ。誰も来ない」


 浦川は低い声で脅すように告げた。知広が腕時計を見ると、すでに六時になっていた。本当なら、今頃はみんなと志都和市の宿泊施設にいたはずだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。でも、弱音を吐いている暇などない。


 …どうすればいい?川に着くまでに何とかしないと。


 焦りがつのる。大人しく死ぬ気なんてない。どこかで逃げびなければ。心臓が早鐘を打つ。浦川に引きずられるようにして、職員室を通過し、トイレ前に出た…その途端。


「浦川、こっちだ」


「何ッ!?」


 急に驚いたような声を上げた浦川が顔を押さえてうずくまった。その傍の床をタンタンタン…と、白い球が小さく弾んで転がっていく。それを目で追っていると、よく通る鋭い声が耳朶じだを打った。


「知広、こっちだ!走れ!」


 ハッとして声のする方を向くと、校舎の正面口の扉を開け放った朋也が、知広に呼び掛けていた。知広は急いで朋也の元に向かう。


「朋也くん、どうして?」


「話はあとだ。みんな、坂の下にいるから。そこまで走る」


 降りしきる細かい雨の中、泥濘ぬかるんだ校庭を朋也に手を引かれてひた走る。水溜まりの泥が跳ね上がって二人をグッショリと濡らしていく。靴もズボンも泥まみれになりながら校庭を走り抜け、校門を潜り抜けた知広と朋也は転がり落ちるように坂を駆け下りた…


「知広!朋也!」


 坂の下の道路に出ると、透明なレインコートを着た大輝と悠真がワッと声を上げて、知広と朋也に抱きついた。集まっていた人の中には【西和県警】と後ろにロゴが入っている白い雨合羽あまがっぱを着た佐倉刑事もいて、同じような合羽の男性達と共に岩城中学校の方を鋭い目つきで見上げている。すぐ近くにはパトカー含む車数台が道路に止まっていた。


「佐倉係長は子供達と避難して下さい」


 その中の一人に声を掛けられて、佐倉刑事は「え?」と不満そうな声を上げた。


「でも、今から捕まえに行くんでしょ?」


「佐倉係長は非番です。それに本件は西和署の管轄外の事件ですので、ご同行はご遠慮ください」


「この合羽かっぱ着てたら、どこの署かなんてわからないと思うけど…」


「駄目です」


 佐倉刑事はきっぱりと断られ、残念そうな顔をしたがようやく諦めがついたようだった。そして、知広と朋也の元へ歩み寄り、にこやかに「君達は本当に凄いよ」と褒め称えた。


「知広くん、よく耐えたね。浦川相手に無茶しないでくれて、本当に良かった」


「朋也くんが来てくれたから…」


 佐倉刑事は大きくうなずいた。次に朋也に向き直って、尋ねた。


「朋也くんの直球ストレートは圧巻だったね。監視カメラの映像見たよ。球速何キロくらい出てたの?」


「わかりません。でも中二の時は最高で130キロでした。今回はマウンドからホームよりずっと近かったし、140キロは出てたかもしれません」


「わお。強肩きょうけんだね。浦川、鼻の骨折れてるなぁ」


 朋也は嬉しそうにニコリとした。


「俺、昔からコントロールいいんで」


「ナイスピッチ」と、佐倉刑事に肩を叩かれた朋也と一緒に、知広は案内されたパトカーに乗り込んだ。車のライトがくと、近くにいた警察署員が道路から避け、道を開けてくれた。雨のけぶる薄曇りの中、西和県警の合羽につけられた反射材が前照灯ヘッドライトの光に照らされ、あちこちでチカッ、チカッと光る。


 …あれ?これ、どこかで…


 その光景が何故か頭の片隅で引っ掛かったが、知広はそれを思い出すことが出来なかった。

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