第39話 秘密の扉

 岩城中の校舎の東側男子トイレの壁の一部は板が外れていて、そこから、やすやすと中に侵入することが出来てしまった。浦川は勝手知ったる態度で、知広の口を塞いだまま、悠々と校舎内に入り込み、元通りに板をめ込んだ。


 …報知器、鳴らないんだ。


 監視カメラがあったくらいなので、不法侵入があったら警報音がけたたましく鳴るのかと期待したが、そんなことはなく、校舎は静かなままだった。考えてみれば、ここは廃校で盗難されて困るのは夏目夕の屏風びょうぶ絵くらいだ。だが、絵の存在は厳重に隠匿かくされているから、絵を目当てに入る泥棒などいない。おそらく、岩城中のセキュリティシステムは廃校キャンプ利用者がいる時に限って作動させているのだろう。


「俺はここの卒業生だ。それに、五年も勤めてたから詳しいぞ。絶対に逃がさんから、観念して大人しくしてろ、久保」


 浦川は得意げにニンマリと笑いかけてきた。


「手を離すが大声は出すな。痛い目にいたくないだろう」


 コクコクと頷くと、浦川は知広の口から手を離して、代わりに腕を強くつかんだ。


「浦川先生、僕は池田先生のことを知りません。だから、警察に何か言えるはずがないんです。解放してください」


 知広はできるだけ穏やかに話し掛けた。浦川は「はぁ?」と、全く信用していない表情で知広をにらんだ。


「じゃあ、何で池田の時計アイオーンのシリアルコードまで知ってる?」


「多目的室に置いてあった先生のバッグに入ってたからです。その時見ました」


「あの時、見ただけで覚えたのか?」


「はい。数字や記号の羅列を丸暗記するのは得意なんです」


 これは私立小学校受験勉強の賜物たまものと言える。円周率は100桁までなら、今でも迷わず出て来る。全く無駄な特技だと思っていた。


「岩城中のことを知っていたのは何故なぜだ?」


「校長先生と教頭先生と浦川先生が仲がいいようだったので、以前一緒に勤めてた学校を調べました。西和県の教職員の人事異動はインターネットを使えば、さかのぼって調べられます」


 浦川はギョッとしたように知広を見た。この返答はちょっと失敗したかもしれない。本当は質屋での情報や、佐倉刑事から聞いた岩出県の時計職人の話や、紗月のオカルトサイトや、他にも情報は得ていたが、迂闊うかつに喋ると地雷を踏む可能性があるので黙っておく。


「何で、賄賂のことを知ってた?」


「浦川先生と神谷さんのお母さんとの間で金品の受け渡しがあったと思ったんです。神谷さんの成績評価のことで」


 浦川は心底驚いた顔で「そっちか!」と、叫んだ。当たり前だ。あの時点で岩城中の贈収賄事件なんて知るよしもない。超能力者でもない限り無理だ。


「でも、お前らは時計アイオーンが池田の物だと知っていたと聞いたぞ。校長島内達から」


「僕達はあの時、時計が誰の物かまでは知らなかったんです。【PATRICKパトリック PHELPSフェルプス】のアイオーンは、セレブや芸能人しか持っていないと思っていました。だから…先生のものじゃないと思いました」


 浦川が黙り込んだので、気になってチラ見する。勝機がない今、機嫌を損ねるとマズい。浦川は気分を害した感じではなかったが、危険物を見るような目で知広を見ていた。


「タツミ社長の娘をそそのかして、警察に贈収賄の証拠を出させただろう?お前が校長島内教頭吉岡を捕まえさせた」


「僕じゃありません。紗月さんは前からお父さんのことを疑ってたみたいです。第一、僕には閉校前の岩城中で何があったかなんて全然わかりません。ここに来たのも初めてなので」


 おそるおそる浦川を見上げると、浦川は信じられないといった顔で知広を凝視していた。


「五年間、何も起きなかったんだぞ。入札談合はあと少しで時効だった。久保のせいで…!」


「僕だけのせいじゃありませんったら!」


 知広は思わず言い返す。知広の力だけでここまで辿たどりつけるわけがない。何かに導かれるように、手を引かれるようにして、ここまでやって来た。浦川じゃないが、十四年間何も起きなかった真っ暗な人生に初めて光が差した。


 …みんなのおかげで。


「久保。お前変わったな」


「何がですか?」


「そういうところだ。素直に【ゴメンナサイ】と言っていればいいものを。クソ生意気なガキめ」


 浦川の言葉にハッとなる。知広の口癖は【ごめん】だった。いつもいつも謝っていた。謝らなくていいことまで反射的に謝っていた。卑屈で自信の持てない自分が嫌だった…


 …僕は変われたのか?


「お前は危険だ」


 浦川は知広との会話を終了すると、知広を引きずるようにして、廊下を直進し、校長室の扉を開けた。薄暗い部屋の中、歴代校長の写真に見守られながら浦川に続く。廊下からの明かりをとるために扉は開きっぱなしになっていた。

 しかし、今走って廊下に出ても、安全な場所まで逃げきることも、浦川を出し抜いて隠れることも、知広には出来そうになかった。この場所をよく知り、屈強な大人である浦川に対抗するには、どうしようもないくらいに知広は不利だった。


 ――――『一人で戦っちゃ駄目だよ』。


 佐倉刑事と初めて電話で話した時、浦川を言い負かした知広の話を聞いた佐倉刑事はそう言って、知広が一人で突っ走ることをいさめた。


 …今は信じて、待つ。


 覚悟を決め、黙って立っている知広をよそに、浦川は部屋にあった唯一の家具である大きな校長机を重そうに押しながら移動させた。浦川が床にかがみ込み、床板を外すと、黒ずんだ鉄製の扉のようなものが見える。


「えっ?」


 そこには古めかしい観音開きの扉が存在していた。


「防空壕だ。コレのことは校長島内と俺しか知らん」


 浦川が丸い鉄の輪のような取っ手を引き、扉を開けると、中には地下に降りる階段があった。


「入れ」


 浦川が近づいてくると、知広の背を押して階段を降りるように促した。もう、どうすることも出来ない。


「もうじき雨が降る。川が増水したら出してやるからな。そこで待ってろ」


 浦川は嫌な笑顔で知広に告げると、茫然とする知広を階段に残したまま、観音扉を閉めた。

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