第32話 僕と、君のホットケーキ

 翌朝、知広が目覚めると、溶けたバターと甘いような香ばしいような独特の香りが山小屋の中に広がっていた。


 …あ。これって、ホットケーキ?


 知広はホットケーキが好きだった。でも、家で食べたことは一度しかない。お菓子作りどころか料理を家ですることがほとんどなく、外食で済ませることが多い両親だったので、自分で作り、洗い物をして片付ける事が単に面倒くさかったのかもしれない。


 …作ってもらった。たった一度だけ。


 知広が有名私立小学校受験に合格した翌日、何の気まぐれか、母親がホットケーキを焼いてくれたことがあった。あの頃はまだ知広は他の子供達よりもずっと優秀で、誰よりもいい成績で受験を勝ち抜いた。両親は嬉しそうに自慢していた。知広に優しくしてくれた。


 …そうか。絵本だ。


 絵本に出て来たのはしろくまだったか、ねずみだったか、はたまた二匹のりすだったか。とにかく、幼稚園の読み聞かせの時間に知った【ホットケーキ】に憧れていた。その時の母親は、入試に無事合格した知広の他愛たわいないお願いを叶えるぐらいには息子に関心があったのだろうか。

 匂いに導かれ、真っぐにキッチンに向かう。明と紗月に挨拶すると、二人は忙しそうにしながらも「おはよう」と返してくれた。


「ちーちゃん、何枚食べる?」


 フライ返しを持った明は、手際よくホットケーキをひっくり返しながら知広に尋ねた。見ると、すでに大皿のいくつかには、焼いたホットケーキがうず高く積まれていた。


「大ちゃんさ、何枚食べるかわからないから、とりあえず、二十枚くらい焼いたんだよ。あの子なら、冷めてても焦げてても生焼けでも全然気にしないで食べるよね?」


 どうやら、次は知広の分を焼いてくれるつもりらしい。


 …どうしよう。二枚?三枚?


 知広が迷っていると「おはようございます」と、ホットケーキの匂いに引き寄せられたらしい朋也も鼻をひくつかせながらキッチンに入って来た。


「うぉ、懐かしい。ホットケーキなんて、何年ぶりかな」


 朋也は顔をほころばせて明の手元のフライパンを覗き込んでいる。


「俺、ホットケーキ焼くの結構上手いんですよ。明さん、代わりましょうか?」


「代わって代わって。大ちゃん用に二十枚も焼いたら疲れちゃった」


 明は朋也にIHヒーター前を譲る。知広は朋也の横で、フライパンの上で溶けていくバターや、流し込まれた生地にフツフツと穴が開いていくのをずっと眺めていた。あの日のことは薄っすらとしか覚えていない。それなのに、この光景を見ていると何だか泣きそうになった。


「知広は自分で焼くか?」


 朋也がフライ返しを生地の下に滑り込ませ、ぽんと返す。見ると、朋也のホットケーキは絵本に出てくるような美味しそうなキツネ色で綺麗な円形だった。湿っぽい泣き顔を朋也に見せるわけにはいかない。慌てて朋也を褒めてごまかす。


「朋也くん上手いね」


「母さん直伝なんだ。詩織しおりに『にーにのがいい』って頼まれて、よく焼いてやってたっけ」


 そう言った朋也の横顔は何となく寂しそうだ。


 …最初からナイのと途中で失うのはどっちの方が寂しいんだろう?


 最初からいない知広より、失った朋也の方がずっと辛そうだった。


「えーっと、僕の分も朋也くんに焼いて欲しい。頼んでもいい?」


「あぁ、待ってろ。ふわっふわのを焼いてやる」


 知広に頼まれた朋也は快く応じ、ちょっと嬉しそうにしていた。朋也が楽しそうにホットケーキを焼くのを眺めているうちに、知広は失うと寂しくなるであろう何かを自分も見つけていたことに気がついた。朋也の焼いてくれたホットケーキは最高に美味しかったが、知広が「君の焼いたホットケーキを毎日食べたい」と褒めると、「俺に言うなよ…」と、何故かビミョーな顔をした。


 一方、大輝はというと、味も形も焼け具合も全く気にならないようで、冷め冷めのホットケーキを「旨い旨い」と腹に収めていた。結局、ホットケーキ25枚とストックされていた缶詰数個、その上にベーコンブロックまでかじろうとして、「朝から大食い選手権する気?」と、女子大生二人を呆れさせた。悠真は起きるのも食べ始めるのも遅くて「悠くんのせいで片付けが遅くなった」と明に責められ、皿洗いを手伝わされていた。


 朝食後、知広と朋也は大きな木を輪切りにしたようなテーブルの上に問題集を広げて、受験勉強を始めた。忘れがちだけど知広達は中三の受験生だ。夏を制する者は受験を制する。【受験の天王山】と言われる夏休みを目前に控えた今、我々は備えを怠ってはならない。知広達が勉強するのを見た大輝はそそくさと筋トレを始め、暇を持て余した悠真は明と紗月に絡み始めた。


「この山ってさ、若い男がさらわれるとか、死んだご先祖が集まるって聞いたんだけど、ほんと?」


 悠真はビビリだが都市伝説や怪談に対して、並々ならぬ関心を持っている。夏目の話がずっと気になっていたのだろう。実は知広も気になっていた。


「うーん。そうだね。蒼森あおもり県の超有名な霊場ほどじゃないけど、死者が集まる山って言われてるよ。死んだ知り合いに逢えるとかナントカ」


 悠真の質問に明が答えているのが聞こえてきて、知広は耳をそばだててしまう。明は長い髪の先っぽを指にクルクル巻き付けながら話を続けた。


「それにさ、別に霊とか神とか宇宙人とかがさらわなくてもナチュラルに行方不明になるよ。湿気多くて、看板や標識置いててもすぐ苔が生えて緑になるし、生えてる木の感じがどこも似てるし、地面は落ち葉や枯れ木や茸が道を覆っちゃうから、道らしい道が作れなくて迷いやすいんだよね。知らない人が深くまで入ったら、若くなくても女でも出られないよ。神隠しとかじゃなくて、普通に迷子とか遭難。すっごく危ないんだよー」


【危ない】と言いながらも明に恐れる様子はかけらも見られなかった。現地の住民はいちいち怖がっていられないのかもしれない。


「あのさ、もしかして、自殺の名所だったりする?死んだ奴が悪い霊になって彷徨うろついてたりしねぇ?」


 しかし、悠真はあくまで怖い話にこだわりたいようだ。しかし、明は眉を寄せて首を横に振った。


「山に自殺しに来るんじゃなくて、山で死者をいたんでたんだよ。山送りって言って、昔、この辺りでは山に死者を葬る習わしがあったの」


「何で山に埋葬したんですか?育てられない子供は川に流していたのに?」


 興味深い内容に心が惹かれ、知広はだんだん勉強が手につかなくなってきていた。数学の円周角の証明問題を考えるのをやめ、明に質問する。


 明は、昔の人は亡くなった死者の魂は天を目指し、山の上に昇っていくと信じていたようだと語った。より高い所に埋めてやることが、死者への供養に繋がるのだという。あの世に通じる山で修行して、再びこの世に戻ると神に通ずる力を手に入れられるという修験道や神道の【山上他界さんじょうたかい】の考えの影響があるのかもしれない。【死】を表す【他界する】という言葉もこのことに由来する。


「だから、山で死者にったとしても悪い霊じゃないよ。この世に戻って来た修験者。敬意を持って接すれば悪さはしないよ、たぶん」


 それを聞いた途端に悠真ゆうまが両手で顔を覆ってこらえきれないようにむせび泣き始めた。知広は突然のことにただ驚いていたが、それまで黙って聞いていた朋也が遠慮がちに口を挟んだ。


「山で…命を絶っても、山は死者を受け入れてくれますか?」


 明は何かを察したらしく、朋也と視線を合わせると小さくうなずいた。そして、質問をした朋也ではなく、泣いている悠真の傍に行くと優しく話し掛けた。


「残された人は辛いよね。自分が生きるため以外で、生き物の命を奪うのは大きな罪なんだよ。たとえ、自分の命でもね。本当は天寿を全うしてからの方が受け入れ的にはベストなんだろうけどさ。悠くんの知り合いも死んでから山で修行してたら悪霊になってないよ、きっと」


 その言葉を聞いた悠真は明にしがみつくと、幼い子供のように大声をあげて泣き出した。明はそんな悠真をあやすように背中を撫でてやっていた。

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