第31話 家出少年【D】

 紗月の話から、タツミ社長、日善ひよし中の三教師と対立する池田いけだ侑一朗ゆういちろうの構図が見えてきた。金と不法行為、社会的地位が絡むことをかんがみると、何か恐ろしい事件が起こっていてもおかしくはない。


 …口封じされた可能性も…


 その上、一千万円以上するかもしれないPATRICKパトリック PHELPSフェルプスのアイオーンまで関わってくるとなると、ますます、池田侑一朗の安否が心配になってくる。

 そこまで考えて、知広にはふとした疑問が湧いてきた。


 …紗月があの時計アイオーンと池田侑一朗先生が関係していると考えているのは何故なのだろう?


 時計の最初の持ち主は東北地方の時計職人だったはずだ。次の所有者はその娘婿だった可能性が高いが、年齢的に池田侑一朗が時計職人の娘婿である可能性は限りなく低い。

 それならば、時計は二本あるのか。それとも、偽物かレプリカ…?


「紗月さん、赤いフェニックスの時計アイオーンは本当に池田侑一朗先生の物だったんですか?時計は本物?」


 知広が問うと、紗月はハッキリと肯定した。


「先生は時計に詳しかったの。簡単な修理なら自分で出来たくらいよ」


 紗月の父親のタツミ社長は高級時計の蒐集しゅうしゅう家でもあった。当然、PATRICK PHELPSを含めた超複雑機構を持つ時計もいくつか所有していて、娘の紗月も時計の知識がゼロではなく、むしろ好きで詳しかった。何のきっかけかは忘れたが、池田侑一朗と紗月は世界三大複雑機構のうちの一つ【トゥールビヨン】の話題で盛り上がったことがあった。トゥールビヨンとは、姿勢差で重力の影響を受けて、時計の進みがズレてしまうのを克服し、寸分違わず狂わせないようにするという特に高度な技術が必要とされる複雑機構だ。赤い時計アイオーンではフェニックスの下のスケルトンの丸窓から見ることが出来た。


「お父様に頼んで、お父様のトゥールビヨン搭載の時計コレクションを先生に見せる代わりに、先生の時計も見せてもらったことがあったの。赤いフェニックスのアイオーンだったわ。本当に素晴らしかった」


 タツミ社長所有の時計の中には、池田侑一朗の赤い時計アイオーンより高価なものもあるにはあった。


「でも、時計の価値は値段だけじゃないの。値段なんて後付けよ。あるレベル以上になると、シリアルナンバーや鑑定書や保証書がどうこうなんてなくてもわかるの。先生の時計は確かに意思を持って生きていた。ミニッツリピーターの音は語り掛けるように優しく響いた。あの時計は職人が魂を込めた本物よ。私はお父様のどの時計よりも侑一朗先生の時計の方が素敵だと思った」


 ミニッツリピーターはレバーを操作すると、小さな腕時計の内部に搭載されたハンマーが叩く音で正確な現在時刻を告げてくれるという、これまた繊細な複雑機構だそうだ。紗月は胸に手を当てて、記憶を反芻するように目を閉じていた。人の声のように、時計によって音が違い、その個性的な音色も時計の魅力の一つなのだと語った。


「お財布も現金もスマホですら残っていたのに、先生のお宅からもどこからもあの時計は発見されなかった。先生が大切にしていたあれを手放すはずがないの。先生と一緒にあるか、誰かが奪ったか…悪い予想が当たってしまって悲しい」


 紗月は目を開けるとキッと虚空まえを睨みつけた。


「浦川がっていたのね。許せない」


 紗月の話を確かめる術はないが、紗月が嘘をつく必要はなく、時計好きで知識のある紗月の話と知広が見た赤い時計アイオーンの印象は何もかもがピッタリと一致する。疑う余地はなさそうだった。

 それに、不正に入手した時計であれば、生徒の紗月や高級時計蒐集家のタツミ社長に堂々と披露出来たはずがない。池田侑一朗には時計を隠す必要が全くなく、何も後ろめたいことがなかったと考えるのが妥当だ。


 …あと一歩。おそらく池田侑一朗先生は正当な持ち主。


「あのさ、大輝くん。お願いがあるんだけど。警察の伯父さんに連絡して、池田侑一朗先生と…」


 知広が大輝に東北地方の時計職人と池田侑一朗の関係を調べてもらえないか頼もうとすると、大輝は「すまん。それムリ」と、あっさり断った。


「えっ?何で?」


 …この流れで断ってくる…?


 知広を含めた全員が大輝の顔を一斉に非難の目で見つめた。


「俺さ、ここに来ること親に言ってねぇんだ。大知だいちに連絡とったら、親父達に筒抜つつぬけるからムリ」


 …やっぱり家出じゃん!


 大輝は悪びれなくヘラヘラ笑っている。何となく予想していたが、改めて大輝の無断外泊の事実が判明し、大きな脱力感に襲われる。悠真は「これで何度目だっけ?」と首を傾げ、朋也に至っては頭を抱えている。夏目は「ほんと困った子ね」と苦笑いしていた。


 その後、腹を空かせた大輝が騒ぎ出したので、明が午後いっぱいかけて作ってくれたという大量の照り焼きチキンと出汁巻き卵、数え切れない数のラップ包みおにぎり、旬の野菜を使った郷土料理の数々を夏目、紗月と共に皆でご馳走になった。大輝と悠真は昼間に遊んだあの愉快な鶏達ではないかと最初は躊躇ちゅうちょしていたが、今回使った鶏肉は明のうちの放し飼いの鶏達ではないとの話を聞いて安心して食べ始めた。


「かなり多めに作ったんだよ。軽く十人前はあるんだから」


 自信満々で言っていた明だったが、最終的には全て残らず食べ切ってしまい、「あれだけあったのに何も残らないんだね…」と、空っぽの容器を見て唖然あぜんとしていた。言わずもがな、大輝は一人で三人前以上食べていた。


 その晩、山小屋には明と紗月も泊まることになった。もちろん、男女の部屋は別で、小屋にも各部屋にも頑丈な鍵がしっかりついている。夏目は食料を調達して、明日の午前中にまた来てくれるということだった。水は綺麗な湧き水があるので問題なく、電気は太陽光発電と水力発電を利用しているらしい。お風呂とトイレはセパレートだ。トイレはオガクズと微生物で排泄物を分解し、自己完結する装置を搭載した【バイオトイレ】に変えたらしく、食料事情以外は数日滞在しても問題はないらしい。ただし、食料については「ある程度は備蓄してるんだけど、大輝くんの食べる量からすると、きっと一日も保たないわね」とのことだった。


 山の気候は涼しく、山小屋内はとても快適だった。現役女子大生の明と紗月のちょっと大人目線な高校時代の過ごし方(主に青春と恋愛)の経験&失敗談もとても面白かった。

 しかし、夏目が出掛ける間際に「週末、天気が崩れるらしいの。それまでに何とかしないといけないのだけど…」と、顔を曇らせたことが不安材料として心に残り、知広は妙な胸騒ぎがしていた。

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