第13話 泳げない川

 午後になると、むわっと空気が熱を帯び、全身がじっとりと汗ばんで不快感が増してきた。瑞城みずき町に入ったものの、かつて田畑だったと思われる区画は草ぼうぼうで、所々に抱えきれないほど大きな石まで落ちている。荒れ地がどこまでも続いているようにも見えた。まばらに見える杉のような林も国道からは遠く、木陰は皆無だった。目的地の岩城中学校は川沿いを下って、一時間程だという。

 林は遠かったが川は近くて、国道から数メートルの土手下にはまぁまぁ広くて緩やかな川が濃緑の流れを作っている。


「なぁ、朋也」


 気づくと、先を行っていた大輝と悠真がクロスバイクを止めて待っていた。二人に追いついた朋也が、嫌な顔をしながら道路に片足をついて停止した。


「暑いからさぁ…」


「駄目だ。川には降りない」


 朋也は大輝が全部言い終える前にきっぱりと言い放った。大輝は機嫌を損ねた様子で抗議する。


「時間は充分あるだろ?何で駄目なんだ?」


「危ないからだ。川は怖いんだ」


 それを聞いた大輝は馬鹿にしたように唇を歪めた。


「朋也さ、俺の方が泳力が上だから競争したくねぇんだろ?敵前逃亡か?」


「あぁ、背泳ぎ以外はお前の方がタイムが速いのは認める。それでいいだろ」


 朋也は挑発に乗る気はさらさらないようで、大輝の言葉を軽く受け流して、鬱陶しそうに流れ落ちてきた額の汗を拭った。


「何だ、それ。朋也ともあろう者が情けねぇな」


「人が思い通りにならないからって、すぐ相手に突っかかるのはお前の悪い癖だぞ、大輝」


「うるせぇ」


 朋也の呆れたような言い方は大輝のかんに障ったようだった。朋也を無視して、大輝は悠真に「お前はどうする?川に入らないのか?」と尋ねた。


「暑いしなぁ。俺は泳がねぇけど、足だけ浸かろうかな」


 朋也と大輝の顔を交互にうかがいながら悠真が言うと、朋也にしては珍しく「何でわからないんだ、このバカ!」と声を荒らげて罵倒した。朋也がいらつくのも無理ない。背中に背負っていたリュックは大輝に預けたとはいえ、朋也のママチャリの前後には何kgだかわからない重い荷物を載せていた。その上、ここに来るまでには緩い上りの坂道が続き、朋也の負担は相当なものだったはずだ。


 …朋也くんも疲れてるんだろう。休憩した方がいいけど、今、ここで休んだら、二人とも川に入るだろうな。


 知広がハラハラしながら見守っていると、堪忍袋の緒が切れたらしい大輝がクロスバイクから手を離し、ガシャンと横倒しにした。背負っていたリュック二つを下ろし、道路に投げ捨てる。短気な大輝は頭にくると何をしでかすかわからない怖さがある。


「俺は行くぜ。朋也はそこでずっと直射日光でも浴びてろ」


 捨て台詞を残して、大輝は川に向かって滑るように土手を下っていった。「大輝、待ってよ」と、自転車のスタンドとリュックを下ろした悠真も後に続く。二人の踏み倒した雑草から、むせるように強い草いきれが漂う。


「クソっ」


 朋也はギラついた瞳で小さくなっていく二人の背中を鋭く睨むと、ママチャリの後ろに括っていた段ボールから2L入りの水とお茶のペットボトルを取り出して、中身を土手に捨て始めた。


「えっ?朋也くん、何やってんの?」


「あいつらが溺れたら【浮き】がいるから」


「でも、悠真くんは泳がないって言ってたし、大輝くんは水泳得意なんでしょ?」


 朋也は怒ったように「あの川は近づくのも駄目だ。ああいう砂浜のある川は特に危険なんだ」と、空になったペットボトルの蓋を閉めながら吐き捨てるように言った。次に朋也は後ろの荷台に荷物を括り付けていたフック付きのゴムロープをグルグルと回して、外し始めた。


「一番長いヤツ買っといて良かった。しかも二本組。合わせたら8m。いけるか」


 朋也はブツブツ言いながら、二本のロープを丸めて手に握り締めた。さっき空にしたペットボトルは小脇に抱えている。


「パニックになって暴れなきゃ何とかなると思うけど、この時期は水温が低い。アイツらの足がつって沈んだり…もし、俺が近づけそうになかったら、すぐに通報頼むわ。旧瑞城町小依こより川。岩城中学校から東に7、8km」


 朋也は知広の手に、朋也の青いスマホを押し付ける。


「えっ?」


「知広は何があっても絶対に降りるな。お前が最後の頼みの綱だから」


 朋也はそう言うと、さっき二人が行った土手を下り始めた。


 知広は道路上に置き去りになった自転車を道路から撤去して、土手の反対側の草むらに運ぶ。買い物をしたショッピングモールを出て暫くしてから、この旧瑞城町の片側一車線の国道を通行する車がパタリと途絶えていた。とはいえ、車の通行の邪魔をしたり、思わぬ事故になっては困る。

 知広が自転車四台を道路からどかし終わって、急いで土手側の道路に戻った時、上半身裸になり、黒いハーフパンツだけになった大輝はすでに川に辿りついていた。川岸から川の中央に向かって、そろそろと歩いている。しかし、悠真はもっと手前の川岸で立ったまま、それ以上は進まず、後方を振り向いて、朋也が来るのを待っている様子だった。


 …悠真くん、どうしたんだろう?


 朋也は悠真の直近まで近づかず、少し手前で足を止めた。そして、空のペットボトルにゴムロープを括り付けたものを悠真に投げた。悠真はそれをキャッチする。悠真が朋也の方に歩き始めたのを見て、合点がいった。


 …サラサラの砂が柔らかくて沈むのか。それで、足が埋まっちゃったんだ。


 悠真はロープを引いてもらいながら、歩き辛そうにズブズブと足をとられつつも、朋也のいる方へ戻って来た。蟻地獄のような砂浜を抜け出せた後、悠真は朋也に抱きついて何やら話しているようだった。


 …大輝くんはそのまま進んじゃったのか…


 歩きにくい砂浜でも、なまじっか体力があり、運動神経のいい大輝はそのまま通過することが出来てしまったのだろう。川の中をゆっくり進む大輝を見守っていると、大腿辺りまで水に浸かっていた大輝がフッと視界から消えた。


「エッ?」


 一瞬ヒヤッとなったが、やがて、川面から大輝がひょっこり顔を出した。頭だけ出して立ち泳ぎをしながら、悠々と朋也の方を眺めている。


 …大丈夫そうで良かった。


 知広がそう思った次の瞬間…


「アッ」


 水面に出ていた大輝の頭がゆっくりと流され始めた。大輝の意志ではないらしく、焦った様子で水を掻いている。どうやら泳ごうとしても思うように進まないらしい。知広は握り締めていた朋也のスマホをちらっと見た後、大輝の様子を目で追った。


 …通報したら、僕らの旅はここで終わる。


 岩城中には辿たどりつけない。大騒ぎになって何も出来ないまま帰ることになる。出来れば、そんな事態は避けたい。しかし、人の命には替えられない。

 知広が迷いながら見守る中、朋也はピッチャーのように大きく振りかぶって、ゴムロープを括り付けた空のペットボトル二本を川に向かって投げた。


 …あぁっ。届かない。


 大きな空のペットボトルはボールとは違って、飛距離も出ないし、コントロールなど出来ない。川面に落ちたペットボトルの浮きと、水流に運ばれた大輝は大きく引き離されていった。パニックになりかけているのか、大輝はバシャバシャと激しく水を跳ね上げている。


 …溺れてるの?ヤバい?


 炎天下だというのに、知広は、もはや日差しの熱さを感じていなかった。背中を冷たい汗が伝う。川の中の大輝は、いっとき、岸の方へ向かうように思えても、再び円を描くようにして中央に押し戻される。大輝はもがき苦しんでいるようにも見えた。


 …通報しなきゃ。


 知広がスマホの緊急通報ボタンをタップしかけた時…


 コン。ポチャ。


 奇妙な音が川の上から響いてきた。


 コン。ポチャ。


「朋也くん!」


 朋也が腕を振りかぶって、投球動作に入る。流れるようなフォーム。手から石が離れて、一直線に川に向かう。


 コン。ポチャ。


 朋也が石を投げて、水面に浮かぶペットボトルにぶつけていた。


 …何で、そんなことを?


 驚いているのは川に浮き沈みしていた大輝も同様だったようだ。激しく動かしていた手足の動きを止め、流れに身を任せて、ペットボトルの方に顔を向けていた。


「大輝、仰向けで浮いてろ。ペットボトルが近くまで来たら掴まれ」


 よく通る朋也の声が川面を滑る。その声は大輝に届いたようで、大輝は背泳ぎの要領でぷかりと上半身を浮かせた。大輝もペットボトルもゆっくりと渦を巻くように、川の中央付近を回っている。やがて、ペットボトルは吸い寄せられるように、大輝の横に流れついた。


「よし」


 知広が息を詰めて見守る中、仰向けで川に浮いた大輝はペットボトルをしっかりと抱きかかえた。川岸の朋也と悠真がゴムロープを引きながら、下流の方に移動していく。砂浜の岸を抜け、石が散らばり、川幅が狭くなった辺りでロープを手繰り寄せ…ペットボトルと大輝を回収した。


「やった!」


 水から上がってきた大輝は、びしょ濡れのまましがみつき、朋也を岸に押し倒した。朋也に乗っかったまま、どうやら大輝は泣き出してしまったようだった。

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